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恋でないなら 不遇な身の上 11 


 桜の木々が花を開かせている。
 まだ五分――否、三分咲程度ではあるが淡い桃色の花びらが枝を色づけている。寒い季節を沈黙して過ごし、ようやく蕾が綻びはじめてはいたが、昨夜の温かな気候により一挙に開花を促されたのであろう。わずか一日でも鮮やかな変化を遂げる。そして、それは花々に限ってのことではない。
 一冬の間、朝になっても寝汚く床から出ずにいた玖柳であったが、今朝はさっぱりとした気持ちで起きる。身支度を整え、部屋の掃除を行い、食事を摂る。それから庭に降りて軽く体を動かし、終わると昼までの間をかつてそうしていたように写経に励む。その表情からは凍てつくような重暗さが消えていた。華やかな雰囲気はないが落ち着いた眼差しは澄んでいる。
 昼を回ると屋敷を出た。
 向かうは釣殿である。
 厩舎を通り泉殿に来ると足を止める。昨日、新木に呼び止められた場所だ。今は人の気配はない。誰もいないそこで、広がる痛みに深く息を吐き出す。右手を胸元に宛がいもう一呼吸。それから先へと進む。
 目的地が見え始めると、玖柳の足取りはわずかに遅くなる。橋の上にはういがしゃがんで池を覗いている。その様子に躊躇う。それは己がういにとった態度への後ろめたさである。
――謝りたい。
 その気持ちに嘘はないが、いかに謝ればよいか。それが問題だった。
 謝りたい、の背後には許されたい気持ちがある。辛辣な態度をなかったことにしてもらい、白紙の状態から関わっていきたい。自分はもう間違わないからと。だが、それは無理な話であるし、傷つけた側の都合のよい願いである。してしまったことをないことには出来ぬのだから、真正面から正直に対峙するのがよいように思われた。
 しかし、ういが玖柳の態度をどのように解釈していたのかが不明瞭である以上、それも難しいことであった。
 仮にういが玖柳のそげない態度を「避けられている」とは思っておらず、本気で「元気がない」と考えているのであれば、真実を告げれば傷つけてしまう畏れがある。知らぬが仏。悪事を洗いざらい懺悔することが謝罪にならぬ場合が存在する。
 玖柳の許されたい気持ちよりも、ういが傷つかずにいることが優先されるべきであると、そこを誤ってはならないことだけは理解するが。
 考えていても答えは出ない。
 そうして、ういの元へ進む。
 橋の上まで来ると、気配を察してういが振り返った。
 大きく綺麗な双眸が玖柳を見つめる。以前であれば「くりゅうどの。」と嬉しげに近寄ってくるか、それよりずっと前ならば逃げ出していたものだが、今はそのどちらでもなく、ただ物言わずに玖柳を見ている。その目に嫌悪感はないが悲しげな色が映っている気がした。"何もわかっていない"純粋な目ではないと告げている。冷たい態度をとられることが多いういは、人の感情には敏感だ。わからないはずがないのだ。
 それでもういは立ち上がり、いつもの丁寧なお辞儀をしてくれようとしたが。
 ぽちゃり。と水音。
 ういは気をそがれて池を見る。さすれば、くろが跳ね上がっている。
「くろ! どうしたのですか。」
 ういは慌てていた。
 くろは尚も執拗にぱしゃり、ぱしゃりと繰り返し跳ねる。その姿はういに「そんな奴に挨拶などするな」と怒っているようであり、玖柳を「何しに来たのだ」と威嚇しているようにも見える。激しく強く己の体を水面に打ちつけて跳ねる。
 以前、玖柳はくろにういの悪口を吐き出したが、覚えていて恨んでいるのだろう。驚くべき行動であったが、それだけういが愛情を持って接してきたということだ。池の鯉とて大事にして愛されれば、同じように相手を思うのに――玖柳はなんともいえぬ苦さに襲われたが。
「そのように跳ねては体が傷つきます。やめなされ。」
 しかし、くろが何故そのような真似をするのかわからないういは慌てふためき、突然興奮し始めたくろを宥める。「やめなされ。やめなされ。」と必死な訴えもむなしく、くろは跳ね続ける。
 玖柳は橋の中央まで歩き、悲鳴に近しい声を上げるういの傍に跪くと勢いを増すくろの攻撃に対し、
「くろ、」
 と名を呼ぶ。それから「私が愚かでした」と口にしようとしたが、くろはその前に「お前の話など聞きたくない」とばかりにこれまで以上に大きく高く跳ねあがり、ばしゃりと水しぶきを上げると池の深くに潜り消えていく。
 ういは池底に沈み見えなくなったくろを心配して覗きこもうとするが、玖柳は腕を掴みそれを制した。
「姫君、落ちてしまいますよ」
「なれど、くろが。」
 ういは大きな目からぼろぼろと涙をこぼしていた。
「くろ。くろ。どうしたのですか。」
「くろは私に怒っているのです」
 ういは池から顔を上げて玖柳を見た。
 玖柳は掴んでいた腕をそっと離す。
「なにゆえ、くりゅうどのに怒っているのですか?」
「私が……」玖柳の眉根は自然と寄る。辛いことを告げねばならない。それでも誤魔化すわけにはいかないと、「私がうい姫さまに失礼な真似をいたしましたことを、くろは怒っているのです」
 告げるとういは手で握りこぶしを作りぐりぐりと両目を擦る。どうにか涙を止めるとしゅんと鼻をすすった。
「くろはういのために怒ってくれているのですか。」
「左様でございます」
 ういの濡れた瞳とまともにぶつかり、玖柳の胸は締め付けられる。
 何と言えばいいか。揺れ動く眼差しを受けとめながら、
「私は……自分勝手に姫君に冷たい態度をとり傷つけました。恨まれて当然です。今日は、お詫びをしたくて参りましたが、どのように詫びればよいか。どうすれば姫君の傷ついた心を慰められますでしょうか」
 とつとつと言葉にする。
 ういは言い終えるまでじっと聞いていた。終えてからもしばらく考え込んでいるようであったが、やがて真っ直ぐな眼差しで、
「……ういは、くりゅうどのが遊んでくださらなくなって寂しく思いました。なれど、くりゅうどのを恨んではおりません。」
 本来ならばういもまたくろと同じ、それ以上に憤り玖柳をなじってもよさそうなもの。しかし、感情を露わにすることなく告げられた言葉に玖柳は困惑する。
「お恨みではないのですか?」
 怒りをぶつけられずに済めば有り難いはずが、問いかける声は震えた。予想していたものとは違う現状に戸惑いが強くあった。
「はい。ははさまとお約束しましたゆえに。」
「母様と?」
 尋ね返すとういはゆっくりと、しかし力強くうなずいて見せた。
「ははさまはういに『人を恨んではなりません。辛いことや悲しいことがあってもけして人を恨んではなりません。それでもどうしても恨むというならばお前を守ってやれぬ母を恨みなさい』と申されました。なれど、ういはははさまが大好きですのでははさまを恨んだりはしません。だから人のことも恨みません。そうお約束したのです。」
 まだ幼き姫君にそのような話を言って聞かせるということは、裏を返せばそれだけ冷遇を受けていたということである。だが、心の気高さを失ってはならぬと教えた。それがいかに難しいことかは、恨みつらみばかりを思い過ごした玖柳にはよくわかる。嫌な目に遭い、辛く苦しい心持ちに陥れば人を責めてしまう。そうすることで問題が解決するわけではないが、その一瞬は目を背けていられた。だが、引き替えに心は荒み、やがては己自身もくたびれていく。そうはならぬようにと、
「姫君の母様はとても姫君を大切に思われていらしたのですね」
 玖柳の言葉にういは、
「はい。ははさまは、ういを宝物だと言って、それからよく頭を撫でて下さいました。」
 言いながら思い出したのか、ういは自分の両手で頭を撫でる。その顔はふにゃりと力なく、泣きそうな、嬉しそうな、切なそうな、寂しそうな、幸せそうな、あらゆる感情が溶け合う儚い笑い顔だった。
 ままならぬことがある。
 どうにもならぬことが。
 それをつい先頃にようやく実感した玖柳であったが、目の前のこの姫君はもうずっと前に知り、だがそれでも泣きごとも文句も言わずに過ごしてきたのだと。幼子と思い、どこかで下に見ていたが、それはとんでもない過ちであった。年齢など関係なく自分などより余程立派な大人であると。それでも、まだ甘えたい年頃のはず。幼いままでいることを環境が許してくれず、早く大人にならねばならなかった身を思えばたまらない気持ちになる。
「左様でございますか。ならばこれからは母様の代わりに私が姫君の頭を撫でて差し上げましょう」
 亡き母君の代わりに姫君を守り慈しむと。強い誓いが玖柳の心に生まれた。しかし――玖柳の言葉にたちまちういは複雑怪奇な表情をしてみせた。母親とは偉大なものである。それを安易に"代わり"など言ったことを快く思わなかったのか。玖柳は迂闊なことを言ったと後悔したが。
「……くりゅうどのは男子ではございませんか。ははさまは女子でございますから、代わりにはなれません。」
 玖柳が思っていたのとは違う意味でういは難色を示していたらしい。確かに玖柳は男で、母親というものは女であるが。こだわるのはそこなのかと。この姫は賢いのか抜けているのかわからなくなってくる。
「さすれば、兄になりましょう」
「にいさまでございますか。……なれど、ういには新木にいさまがおります。」
「もう一人兄がいてもよいではございませんか。兄弟は何人いてもかまわないのですよ」
「そうなのですか?」
「はい。現にうい姫には姉君が二人いらっしゃるではないですか。姉が二人いていいのに、兄は駄目というのはおかしいでしょう。二人ずつでちょうどよくなります」
 なんとも無茶苦茶な理屈であったが、さもそれが当然とばかりに言ってのければ素直なういはあっさりと頷いた。
「左様でございますか。ならばくりゅうどのはういのにいさまでございます。」
 ういは嬉しげに微笑んだ。
 すると、ぽちゃりと音が。いつの間にか水面付近まで浮上してきたくろが跳ね上がった。それは先程とは違う穏やかなものであった。



2012/2/13

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