恋でないなら 不遇な身の上 12
春の、のどかな昼下がり。玖柳とういにもひだまりのような柔らかな時間が訪れていた、はずが。
「くりゅうどの。ういは赤子ではございませぬぞ!」
怒る声がする。悲しくとも寂しくともぐっと堪えて我慢するういが、珍しく感情を露わにしていた。それだけ気を許しているということではあったが。
「何もそのように顔を真っ赤にして怒らずともよろしいではないですか」
諌める玖柳の声は内容には不釣り合いに嬉しげである。
あれからういは再び玖柳の元へ遊びに来るようになった。玖柳の住屋で千代紙や御伽草子の読み聞かせに加え、気候がよくなってきたこともあり屋敷から出て庭を散策したり、追いかけっこをしたりもする。幼子というのは元気がよいものだ。まして、冬の間は体を動かさず部屋に籠ってせっせと細やかな作業に勤しんでいたういは、力を貯め込み有り余っている様子で、ここぞとばかりに盛大にはしゃいだ。その姿を見てまた玖柳も楽しくなっていたが。
「ういは赤子ではございませぬ!」
また怒る。
二人は桜桃を食している。定例の早瀬からの使いが持ってきた品である。玖柳の好物でたんまりと運ばれてきたそれをういと一緒に食べているが――桜桃には種がある。それが問題なのである。
「されど、姫君。万一喉に種が詰まっては大変でございましょう」
それを危惧して、玖柳はういのためにと桜桃の実から種を取り食べさせようとした。ういを膝に抱き上げて、座卓の前に進み、一粒とって実を裂く。しかし、桜桃は小さいもので、そこから種を取れば実はぐしゃりと潰れてしまう。口に入れてしまえば形など関係ない。味は同じ。とはいえやはり見目麗しくないそれは食べる気を萎えさせる。結果、ういは難色を示し自分で食べると談判したのだ。ところが、玖柳はまだ小さい身で上手に種を吐き出せないこともあろうと。そうなっては大変だと認めなかった。
子どもは子ども扱いされることを嫌う。
四つ、五つというのは特に自分はお姉さんであると思いたい年頃で、ういも例外ではない。膝上で身じろぎをし、玖柳を見上げて心外であると怒っているのだが。
「さぁ、さぁ、そのように怒らずお食べください。まだ沢山ありますから」
玖柳にはういが真っ赤な顔で怒る姿も可愛らしく見えるばかりで僅かも動じない。それどころか手ずから食べさせたい、と桜桃の形状とは違えた実を口元へ運んだ。ういは怒りのあまりか眉間に皺を寄せたが、しかし鼻先に甘い香りが漂うと思わず口を開いてしまう。さすればひょいっと実を入れる。
ういはそれを咀嚼する。
もぐもぐと二度、三度噛んでいると甘さが口に広がるのか、ぱぁっと明るい表情に変わる。ここでじっとしかめっ面でもしていれば玖柳も考え直しかもしれないが、輝く表情に満足する。素直な性分というのはこういう場合に仇となる。
「いかがですか? 美味しゅうございますか?」
「美味しゅうございます! くりゅうどのも早ようお食べください。」
怒りなどどこ吹く風で元気な答えが返ってくる。
「ほんに、可愛い姫君でございますね。私は桜桃より姫君を食べてしまいたい」
可愛くて食べてしまいたいというのはこういうことかと、玖柳は微笑みぽろりと告げた。
だが――その言葉にういは凍りついた。嬉しげな空気が一転、今度は真っ青な顔をしてじっと玖柳を見つめてくる。黒目がちな大きな目が小刻みに揺れている。震えるまでは至らないが不安げである。豹変ぶりに玖柳の方も戸惑う。
「どうされました? 姫君?」
「……くりゅうどのは鬼なのですか?」
「え?」
「鬼は人を食らうとははさまがおっしゃっておりました。くりゅうどのは鬼なのですか。ういを食べてしまうのですか。」
ういは言葉のあやというものを理解できず、玖柳の言葉を額面通りの意味で鵜呑みにし、恐れているらしいと知る。玖柳が本当に鬼なのか。違うと言って欲しいが、どうなのだろうか。もし本当に鬼で、自分を食べようとしているなら、その相手に抱きかかえられているのだから怯えてしまうのは無理ない。
ういは真偽を待つ。その顔はますます青ざめていく。
玖柳はいくばくか申し訳ない気になった。そうではないと早く告げて安心させてやらねば――しかし、魔が差すとでもいうのだろうか。気に入った者を苛めたくなる、という少年特有の感覚がふいと玖柳に去来する。もう少し追及してみたらどうなるかと興味がわき、
「姫君は私が鬼ならどうしますか。逃げますか」
尋ね返してみる。すると、ういは息を飲む。そのまま本当に呼吸も止めてしまいそうなほど驚いている。だがそれでもどうにか、
「くりゅうどのはお腹がすいているのですか。ういを食べねば死んでしまいますか。」
「死んでしまうと言ったらどうしますか」
執拗に尋ね返す。さすればういはついに恐怖のあまりぽろりぽろりと涙をこぼしはじめた。
そうなってしまうと玖柳はたちまち焦る。ちょっとからかうつもりが泣かせてしまったのである。慌てて涙を拭ってやろうとしたが、生憎両の手は桜桃の果汁でべたついている。これはまいったと、懐から懐紙を出してまずは手を拭おうとしたが、
「……ならば、ういは食べられます。」
右の着物の袖で涙を拭いながら告げた。
「食べられるのは怖いなれど、くりゅうどのが死んでは大変でございますから、ういは食べられます。」
そこまで言うと、ういは本格的に泣きはじめた。俯いて膝の上でしとしとと泣く姿に玖柳の胸は痛んだ。食べられるとわかれば逃げ出すだろうと。さすれば鬼ごっこと称して遊ぶような、どこか陽気な想像をしていたが、思いもよらぬ方向に進んでしまった。ういがここまで真剣にとらえてしまうとは。
「姫君、私は姫君を食べたりはいたしませんよ」
「なれど、なれど、ういを食べねばくりゅうどのは死んでしまわれるのでしょう。死んでしまっては会えなくなるのでございます。ははさまのように会えなくなるのでございます。だからういは食べられます。」
――ああ、
本当に自分は大間抜けであると玖柳は情けなくなり、
「姫君。嘘ですよ。私は鬼などではありません」と否定してみせたが、
「……くりゅうどのは嘘をついたのですか。嘘はついてはなりませんとははさまはおっしゃっていました。なれど、くりゅうどのはういに嘘をついたのですか。」
逆効果である。ういは今度は嘘をつかれたと泣きはじめる。自業自得と言え玖柳は困り果てた。さすればもう仕方ないと、
「嘘と言うのは……その、私はお腹が空いていないということです。私のお腹が空いていたらどうしますかと尋ねてみただけで、今は空いておりませんからうい姫を食べたりはしません。そういうことです」
何がそういうことなのか。と思いつつも告げれば、ういは考え込むように動きを止めた。それからしばしして、ぐすぐすと鼻をすすりつつ、
「それでは、お腹が空いたら言ってください。ういは食べられます。」
玖柳を鬼であるとすっかり信じ込んで述べた。
「はい。ではお腹が空いて死にそうになったら食べましょう。うい姫は私のものですから他の人に食べられてはなりませんよ。よろしいですか」
「よろしいです。」
ういはぐいっと目元を拭うと、右手の小指を出してくる。
約束をする時は指切りをする。
玖柳はういの小指に自分の小指を絡ませた。ぶんぶんと力いっぱい振る。
それが終わると、早く別のことをして悲しみを忘れさせるようと桜桃を一粒取り上げる。それから実を裂き種を出しういの口元の運ぶが、
「……ういは赤子ではありませぬぞ!」
悲しみは忘れてくれたが、怒りを思い出したらしい。つい今しがたまで泣いていたとは思えないほど変わり身の早さである。赤くなったり青くなったり忙しい。それでも泣かれるよりはよいと玖柳は安堵して、ういの口に半ば強引に桜桃を運ぶ。口の中に入れられては吐き出すわけにもいかぬと、ういは咀嚼し始める。さすれば次は嬉しげな顔。本当にころころと表情を変える。それがまた面白くあり、可愛らしく映るが、しかしやはりういは笑っているのが一番よいとしみじみとする。
真に平穏な日々の訪れ。
早瀬の邪魔者として家を出された玖柳にとっても、母を失ってから一人辛い時期を送っていたういにとっても、穏やかな日々が巡って来た。少し前なら考え難いことである。状況は何も変わってはいないはずが、心の持ちようでかほどに違うものかと。驚きながらも、やはり救いというものは存在するのかもしれぬと玖柳は思う。
実の兄妹のように、否、それ以上に睦まじく過ごす毎日が、永遠に続くわけではないこと。いずれ玖柳は身の振り方を考えねばならないし、ういもまた同じであるが、それでも今はただ静かに寄り添って励まし合う。そのような日々が少しでも長く続くように玖柳は願った。
しかし――運命はまたしても大きく動く。
春が終わり、夏が巡ってきた頃、月初めでもないのに早瀬からの使者が。それも築久ではなく、藤重という男とその息子・惟哉がやって来た。藤重は早瀬当主の懐刀と呼ばれ、玖柳にとって武術の師であり、惟哉は兄弟子になる。懐かしい顔を見て喜んだが――。
「この度、弟・道成様が流行病でお亡くなりになられました。玖柳様には早急に早瀬に戻っていただきたくお迎えにあがりました」
それはまさに寝耳に水の話だった。
2012/2/16