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恋でないなら 不遇な身の上 13


 玖柳の異母兄弟である弟・道成は真白な顔をした少女と見間違えるような子どもであった。正室・桐江が溺愛するあまり、何かあっては大変と外には出さぬようにと神経質になったため、太陽の元で遊ぶこともない。その結果、覇気のない青白い顔し、表情も乏しく影も薄い。ようやく生まれた子であるから、大事にしたいと思う気持ちは理解できるが物には限度が存在する。これではまずいと周囲が懸念し、どうにか一刻は外に出させるようになった。それでも怪我をする可能性があることはさせなかった。
 男児と生まれ、ましてや早瀬という人の上に立つ家に生まれた者が、乗馬も覚えず、武芸も習わずにいるなど前代未聞である。このようなことでは家を継ぐなど無理であると――桐江の振舞いを改めさせるために側近者が言う。しかし、それを桐江は曲解する。後継者候補が道成以外にいるから、後を継がせないという話がでるのであると。玖柳がいなければよいと。そして、玖柳を敵視し早瀬から追い出したのである。
 念願が叶い邪魔者はいなくなった。一安心であったはずが、人を邪険にして思う通りにいかせようとしてもそうは問屋が卸さない。桐江の邪念は思わぬ方向から阻止される――道成が年の暮れから流行病を患った。
 どれほど外に出さぬようにしていても病にかかるときはかかってしまう。そうなった時、頼りになるのは己の治癒力であるが。道成は健康に丈夫にこの世に生まれたが、体を鍛える機会を奪われ、屋敷からほとんど出ずに過ごすうちに体は弱っていた。病魔に勝つことが出来ず命を落とす。僅か八歳で夭折したのだ。
 話を聞かされて玖柳はどのような言葉を述べればよいか思いつかず黙った。
 道成とは親しい間柄ではない。かといって玖柳と道成の間に直接的な敵対心が存在していたわけでもなかった。
 記憶に蘇るのは、いつだったかの昼下がり。
 玖柳は庭先で素振りの稽古をしていた。体を動かすことは嫌いではなかったが、普段はそれほど練習熱心な方ではなく珍しいことであった。また、大抵の場合は付き人がいるはずがそれもいない。宴の準備か何かで皆慌ただしくしていたとか、それで一人退屈して素振りでもしていたのだろう。さすれば人影が。
「誰だ」
 と大声を出せば、真っ青な顔をして木の茂みから姿を現したのが道成だ。
 道成が玖柳の住屋の周囲へ来るなど、また珍しいことである。珍しいというより初めてのことであった。外出を禁じられているし、何よりこちらへ訪れるなどもってのほかと言われているはずだ。だが、道成はやってきた。それも見たところただ一人きりである。道成もまた玖柳同様に退屈していたのか。あれほど道成を構い続ける桐江がそのような隙を与えるなど考えにくかったが。しかし、事実道成は一人でこちらを訪れたのである。
 玖柳は驚きと戸惑いと、そして今にも倒れてしまいそうなほど蒼白な顔をした道成にどうしてよいかわからず立ちつくす。さすれば道成の方も。ただ、怖がっているのかと思いきやその視線は真っ直ぐに玖柳の手元にある竹刀を見つめていた。
 五歳を迎えた日から玖柳は武芸を習い始めた。早瀬の家の習わしである。そうであるにも関わらず道成は何もしていないと聞かされていたが――道成当人は興味があるらしい。
 玖柳は少しばかり考えてから、
「振ってみますか?」
 声をかけると道成は子どもらしい笑顔を浮かべた。素直な笑みである。
 それまでほとんど関わりはなく、顔を合わせてもいつも桐江が傍についており、話しかられるような雰囲気ではなかった。また、桐江の傍に行儀よく座る道成の表情のない顔を見ると話しかけたいとも思えず、これは本当に人間か、人形の間違いではないかとまで思うことがあった。だが、今、目の前にいる道成はそれとは違う。半分は血の繋がった弟である。玖柳は初めてそう感じた。
「さすれば、こちらへ」
 手招きすると道成は大きく頷いて歩みを進めてくる。
 目の前まで来ると玖柳は竹内を差し出した。
 道成は息を飲む。それから、右手を上げて一度躊躇った後、ゆっくりと柄に触れたが。しかし、はっと我に返ったような顔になると手を引っ込めた。
「いかがなさいました」
 遠慮でもしているのかと一声かければ、道成は玖柳を見上げてきた。その目はどこまでも澄んでいる。やはり桐江の傍にいるあの人形のような子どもとは別人のように、ありありとした生命が宿っていた。
「……母上と危険な真似はしないと約束しております。私には出来ません。お返しいたします」
 何も危険なことはない。気をつければ怪我などしない。少しぐらい大丈夫でしょう。言える言葉はいくつかあったが、玖柳は黙って竹内を手元に引き寄せた。道成の澄んだ目に映るものがひどく切羽詰まっているように思えたからである。
 それは血の繋がった兄弟であるからなのか、それともたまたま何かが合ってしまったからなのか、玖柳は道成の思いを痛烈に理解した。
 親の心子知らずというが、子の心親知らずということもあるのだと。
 幼い子どもは外で元気に遊びたいものである。だが、それを断たれても文句も言わず従っている。ともすればそれは道成もまた望んでいるからであると、本当に嫌ならば駄々をこねてでも外で遊ぶだろうと、解釈される。しかし、そうではなかった。道成はその小さな体で桐江の過多の愛情を一心に受けとめているのだ。己の楽しみも喜びも全てを引き換えにしても母の思いに報いようと。
 優しい子であるのだなと玖柳は思えど、だがそれに対し何が出来るか。
「……では、私が素振りをするのをご覧になりますか。見ているだけでもわかることがあるでしょう」
 玖柳が告げると道成は軽やかな笑みを浮かべ「はいっ」と返事をした。
 それから、玖柳は道成の嬉しげな視線に緊張しながら素振りを始めた。
 玖柳は脇目もふらずに振り続け、竹内のしなる音と玖柳の息遣いを道成は熱心に見つめる。
 ぶんっと野太い音がしたかと思うと、ひゅんと軽い音がする。未熟な腕ではなかなか規則正しく心地よい振り音を鳴らすのは難しく、この時初めて玖柳はもっと真剣に練習をすればよかったと思った。
 道成の前でいい格好をしたい。要するにそういうことである。
 ただそれは、自分こそが早瀬の後継であると誇示しようとする矜持からではなく、純粋に年少者の前で、もっと言うなら弟の前でいいところを見せたい兄心である。一度も兄弟として関わったことがないというのに、血とは不思議なものである。玖柳自身それが兄として持つ特有のものだとは無自覚なまま、自然と当たり前に生まれた感情だった。
 そうして続けるうちに気付けば日が暮れかけていた。
 その間、一言も言葉を交わすことはなかったがひどく濃密な時間であった。
 手を止めた玖柳に、道成は近寄ってきて礼を述べると、
「また、来てもよろしいですか」
 頼りなげな声で告げる。
「はい、いつでもお越しください」
 玖柳は返すと、道成は溌剌とした声でもう一度礼を述べて帰って行った。
 だが、その約束は叶わなかった。一人出掛けたことを桐江に咎められたからである。何処へ行っていたのかと執拗な追及に、しかし道成は口を割らなかった。言えば玖柳にも迷惑をかけると考えたのか、或いは、一つくらい母の知らぬことをしてみたかったのか。素直で従順な道成であったが玖柳の元を訪れたことはけして話さなかったという。ただもう二度としないと誓い、それを守って、代わりに玖柳との約束が果たされることはなかった。
――あの時のことは、
 玖柳は思い馳せる。
 あの時のことは、玖柳も誰にも言っていない。道成がなんとしても黙っていたことを己が口にするわけにもいくまいと誰にも。玖柳と、道成の二人だけの秘密である。
 兄弟が二人きりで過ごした最初で最後の時間。
 あれで終わってしまうとは思ってはいなかった。
 もし、早瀬という家ではなく、ごく普通の家に生まれていれば、自分たちはもっと仲良く過ごせただろうか。もっと近くで、兄弟らしく、親しく過ごせたろうか。否、他所の家に生まれずともそうできる道があったのかもしれない。今は無理でも、いつか。玖柳と道成の間には複雑なものが存在していたのは事実であるが、互いにいがみ合っていたわけではない。さすれば仲良く出来る道があっただろう。それを玖柳も、そして道成も心の何処か願っていた。だが、実行する術を知らず、時が足りなかった。足りぬまま道成は亡くなってしまった。
 それをどのように受け止めれば良いか玖柳は混乱していた。
 しかし、しんみりと思い出に浸る時間も、考えを巡らせる時間も許されない。道成の死はすなわち、玖柳が正式な早瀬の跡取りとなったことを意味する。唯一の跡取りとなった玖柳をいつまでも他家に置いておくわけにもいかない。もし万が一"本当の"人質にでもなったら大変であると、すぐさま早瀬に戻ることになった。
 だが、流石にそれは虫が良すぎる話である。これまで不要者として玖柳の面倒を見させていたのに、掌を返したように迎えに来るなど崎宮としても気分が良い物ではない。それを穏便に済まさせたのは玖柳の元服が関係していた。一月後、玖柳は十五になる。それに合わせて何かと準備があるとの名目の元に角を立てず事なきを得たのであったが。
 とかく時間がない。藤重は崎宮当主との話があると玖柳と惟哉が先に退座し、荷造りと相成った。



2012/2/28

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