恋でないなら 不遇な身の上 04
贈るはずの菓子を反対にもらってしまった日から、玖柳とういの関係は少しばかり変わった。
どうやらういが玖柳を避けていたのは他人に対する不信感からだけではなく、お礼をせずにいる後ろめたさも原因だったようで、近づいても逃げず、話しかければぽつりぽつりと返してくれるようになった。相変わらず懐いてくるまでには至らないが、今までが素っ気なかっただけに、ういの変化は嬉しいものであった。
「くろがおりません。」
橋の上にかがんで池を見つめるういが呟く。
くろとは黒と黄金色のまだら模様の"あの"鯉のことだ。ういの気に入りらしい。訪れると決まって浮上してくるのだが、今日は姿が見えない。
「姫君、あまり覗きこむと落ちてしまいますよ」
ういは膝をつき池を覗きこんでいる。幼子は頭が重い。前のめりの姿勢に危険を感じ制するが、
「なれど、くろがおりません。」
玖柳の注意に顔をあげて見つめてくるが、その目は心無しか潤んでいる。泣きそうな表情をされては弱い。どうにかしてやりたいと思案し、とりあえず手を叩いて音を鳴らしてみる。そのようなことで現れるとは思わなかったが――偶然か、それとも本当に呼びかけに応えたのか、目当ての鯉が水面に現れた。
「くろ!」
ういは珍しく大きな声を出した。くろ、くろ、とはしゃぎながら嬉しそうである。それほどこの鯉が好きなのかと問えば、
「くろはういが生まれた時にお祝いにこの池にやってきたのです。」
なるほど。それ故、格別の思いがあるのかと玖柳は得心する。
その間に、ういはいつものようにくろに話しかけるが。
「くろ。今日も元気ですね。ういは昨日の夜、夢を見ました。ははさまの夢でした。ずっと見ていたいと思いましたが、朝になり目が覚めました。ういは寂しくなってくろに会いに来ましたが、くろの姿が見えず悲しかったです。くろはずっとここにいてください。」
話し方こそ重暗くはないが、それが返って聞いた玖柳の胸を痛めた。
母を失ったのは今年の春先と聞くが、それから時間が経過しているといえ、まだ一年も満たない。庇護してくれる者がいなくなり、急激に変わったであろう生活に、気塞ぎや癇癪を起しても仕方ないと思われる幼子が、静かに悲しみを話す姿はたまらない気持ちにさせた。
本来ならば、父と母に愛され温もりを与えられる年頃に、寂しさを打ち明けるのも、頼りにしているのも池の鯉。それがいかに悲しいことかういは理解していないのだろう。せめて池の鯉ではなく、自分に話してくれるようになればと玖柳は強く思ったが、当の本人は玖柳をそっちのけで熱心にくろに話しかけ続ける。
くろは橋の近くを旋回している。先日、玖柳に見せたように口をパクパクさせて餌をねだる態度ではなく、尾ひれを振って優雅な仕草で泳ぎ、時折跳ね上がる。その姿はまるでういの言葉を理解して聞いているようにも見えた。
「くろは賢い鯉ですね」
玖柳が言うと、
「はい。くろはとても賢いのです。」
ういは嬉しそうな顔で答えた。
*
近からず遠からず接していた二人であったが、毎日欠かさず釣殿に現れるういが突然来なくなった。
早瀬から三度目の贈り物が届いた日のことだ。前月使いが来た時、ういのために菓子や千代紙、御伽草子などを次回来る時に玖柳宛ての荷に詰めてくれるよう文を出し、ようやく念願の代物が届いた。さっそく喜ばせてやろうと釣殿へ向かったがいない。
一日目はそのようなこともあろう。用事でも出来たかと考えた。しかし二日、三日続けば妙に思う。
寒くなって来るのをやめてしまったのか。
しかし、あれほど心の拠り所にしている鯉の元へかほどにあっさり来なくなるものか。そもそもがういは寒さなど僅かも感じていない様子で、頬を真っ赤にしながら辺りを駆け回って遊んでいたのだ。玖柳がいくら風邪を引くので屋敷に入りましょうと誘っても一向に聞かずにいた。――とまで考えて、風邪を引いたかと思いつく。
寝込んでいるのかも知れぬ。何故それを早く考えなかったのか。
玖柳はういの住屋を訪れてみることにした。
ういが住まうのは玖柳の住屋とは反対側。西にある対の屋の一つだ。初めて庭でういを見かけ後をつけた際、物置小屋かと見間違うほど粗末な屋敷があった。あれがういの住屋で一人で寝起きしている。
西側には他に新木や娘二人の住屋もあるために、うろついて見つかると厄介だと近づくことを控えていたが。
――まるで盗人のようだな。
自嘲しながら鳴りを顰めて近づく。
ういの住屋の前まで来て様子を窺うが、幸いなことに人のいる気配はしない。
幼子といえ姫君の住む場所へ呼ばれもせぬのに勝手に入るなど不躾もいいところであったが、玖柳は「御免」と一言述べて踏み込んだ。履物を脱ぎ、万が一の場合に逃げ出せるよう懐へ入れる――まさに盗人そのものである。そうして、そろりそろりと入っていく。
屋敷は見かけよりも丁寧で丈夫な造りになっていた。雨風はしっかりとしのぐことが出来る。ただかなり狭い。渡殿から次の間に続いていて、その隣の部屋がすぐ居間となっている。入ると布団が敷かれてある。その上に眠るのは間違いなくういだ。質素な住まいを哀れに思えど、かような場合は手狭さが有り難いと奇妙な感謝をしながら傍に寄った。
ういは行儀よく布団に納まって眠っている。
三日ぶりであったが、頬がこけているように感じられた。季節がら流行病が出始める頃だが、まだ噂は聞かない。単なる風邪であればよいが。と、玖柳は右手をういの額に当てた。少しだが熱がある。
それにしても誰かおらぬのか。
眠っているといえ看病の者が傍におってもいいようなもの。体が弱れば心も弱る。目が覚めて人の姿を見ればそれだけで安堵する。しかし誰も常駐している様子は見受けられない。そのおかげで忍んでこれたのだが、それにしてもあまりにあまり。いくら疎んじていると言え、病にかかった幼い身に厳しすぎやしまいか。もう少し優しくしてやってもいい。崎宮の人間は血も涙もないのか。
邪魔者となった自分を引き受けてくれた家ではあったが、怒りを感じずにはいられず、玖柳の内に不快さがこみ上げてくる。
その激しい感情が伝わったのか。ういが身を揺する。
――起きるか。
目が開くのを待ってから、玖柳は「うい姫」と呼びかけた。
視界に飛び込んだ姿に、ういは相当驚いたようで布団から飛び跳ねるように起き上がる。
「姫君。起き上がっては体に差し支えます。横に」
促すが、ういは大きな目をこれ以上ないほど見開いて玖柳を凝視した。
何故ここにいるのか。
どうしているのか。
不安や不信というより驚きが勝っている。
「風邪を引いたと知りお見舞いに伺いました。どうぞ横になってお休みください」
しかし、ういは全く動かない。否、動けないという方が正確か。固まってしまったその身を、どうしてやればいいか玖柳は考えるが、体は頭よりも身軽いようで自然とういを抱き上げた。
「さぁ、私がお傍におりますからもう大丈夫ですよ。一人でお寂しかったでしょう」
親しくなりつつあるといえういは未だに慣れない。頭を撫でたり、抱き上げて遊んでやろうとすると、たちまちに逃げていく。しかし、この時ばかりは抵抗しなかった。懐に抱きこめばぎゅっとしがみついてくる。
「姫君」
震える小さな背をさすってやれば堪え切れなくなったのかういは声をあげて泣き始めた。余程心細い思いをしていたのだろう。胸に顔をうずめて「ふえぇぇ」と泣く姿に玖柳の腕の力は強まる。きつく抱きしめると砂糖菓子のような甘くまろやかな香りがしたが。
「……くりゅうどの。」
言うと、ういは嘘のようにピタリと泣きやみ顔を上げて玖柳の顔を見てくる。何かと思えば、
「この固いのは何でございますか。」
固くごわごわした感触が邪魔をして落ち着いて泣けぬ、という風に玖柳の胸元をぐいぐいと押して見せた。言われて、玖柳は己の胸元へ手を入れてみるが確かに固い。そこには玖柳の履物が入っている。取り出して見せるとういは不可思議な顔をした。
「なにゆえ、懐にいれているのですか。」
最もな疑問であるが。ういは泣いていたことをすっかりと忘れたように興味津々に「なにゆえ。なにゆえ。」と繰り返す。幼子は移り気であると聞いてはいたがこれほどかと驚きながら、しかし、いざという時に首尾よく逃げ出すためとは言えない。玖柳は困り、誤魔化すように笑った。
2012/1/11