恋でないなら 不遇な身の上 07
――何故、私がこのような目に遭わなければならないのか。
心が廃れていく。
あの日以来、起きたところで退屈するばかりと、目が覚めても布団から出ず昼まで横になる日が増えた。だらけていると常に気怠さを感じ、それが辛いとまた眠る。若く活気に溢れる年頃の者が、かように過ごせば気塞ぎな心はより蝕まれる。悪い循環にはまり込んでいる。規則正しく過ごさねば朽ち果てて行く――玖柳は恐怖を覚えたが、しかしもうどうとでもなれと改める気力さえ失っていた。
私がくたびれたところで困る者などいまい。
洩れるのは自嘲である。
そうしてふてくされている間も、時の経過だけは平等に訪れる。
季節は静かに冬から春へと移り変わろうとしていた。
新緑が芽吹き始めれば楽しい気持ちになるものである。ましてや、玖柳にとっては不慣れな"寒い冬"が終わるのだ。さすれば心も温まってくる。――となればよかったのだが都合よくはいかず。早瀬にいた頃であれば、刻一刻と変化する風景を楽しみ、巡ってくる時に応じて咲く花々を愛でたものだが、そのような興味は持てないまま、春の訪れなど無関係とばかりにしがな一日ぼんやりと生きる。心配する者も、咎める者もおらず、独りきりで閉じた世界にいればますますと落ち込みは深まっていく。何もかもが億劫で仕方ない。
どうして自分がこのような辛い目に遭わねばならぬのか。繰り返されるのはそれである。
そんなある夜。
床に就きうつらうつらしていると妙に懐かしい香りを感じた。
何の香りであったかと思いを巡らせるが、ここしばらくまともに働かせずにいた頭では思い出せない。それならばもういいと――今の玖柳なら面倒がって諦めそうであったが、羽織をひっかけ、有明行灯を手にし、その香りの元を確かめようと屋敷を出た。
真っ暗で不気味なほど静寂に包まれた夜を僅かな灯りを頼りに進む。
歩いているとそれだけで消えてしまうほどほのかな香りである。進んでは立ち止まり、こちらだなと確認しまた進む。繰り返していると、住屋の裏手に辿り着く。
行灯を高くに掲げてみると紅梅が。
「お前であったか」
眠っている間は無防備なもの。そのうちに、玖柳に春を告げようとしていたのか。夜来香――住屋の裏手には幾本かの梅が植えられており、夜の真中にしとやかな香りを届けていたらしい。
闇夜に浮かぶ桃色の花。玖柳は魅入る。
しかし、美しい姿を見ても心を慰めるどころか、呼び起こされるのは過去の記憶だ。
早瀬の屋敷にも梅があった。"奥御所"と呼ばれる当主の許可なく入ることの許されぬ場所に、春日野、暁枝垂、薫の雪、光輝、蝶の羽重、幾夜寝覚、紅千鳥と様々な種類の梅が植えられており、季節が移っていくと順々に花を咲かせる。それはそれは見事な光景で"梅御殿"とも呼ばれていた。
花が咲くと玖柳は父に連れられて梅御殿へ向かう。
「この梅は、先々代――お前の高祖父がご正室のために造られた庭だ」
高祖父・朱秀の正室は民家の娘だった。お忍びで町へ出た時、一目見て惚れてしまわれ妻へ望むと。
いくら"側室"といえ身分の低い娘を娶るなど家の品を陥れる、と周囲は難色を示した。ところが朱秀は"側室"ではなく"正室"にすると申された。まさかそのようなことを言うなど、早瀬の血を汚す気か。当主たるもの"家を守る"ことが最優先されるべきであると大騒ぎになった。しかし、これで滅んでしまう家なら元より先はないと、朱秀はガンとして譲らず。そうして前代未聞の"ご正室"が生まれ、朱秀は生涯正室のみを愛された。
「それが許されたのも、ひとえに先々代に力があったからだ。先々代の御代は歴代で最も平穏な時であったと。周囲を押さえるだけのことをなされた方であった」
玖柳にというより一人ごとのように呟く父の姿を不思議に思い見つめた。
父は玖柳を振りかえり儚げな顔で続ける。
「力があれば得られるものがあり、力がないばかりに失うものもある。"そんなもの"に振り回されず生きる者もいるだろうが、お前は"力"を持って生まれた。それをいかように扱うか。心せねばならん」
まだ玖柳が早瀬の嫡男であった頃の話だ。
当時は父の言葉の意味を少しも理解できずにいた。
何をせずとも、ただそこにいるだけで人の視線が集まってくる。元気よく庭を駆け周り、うっかりこけようものなら皆が慌てふためく。明らかに玖柳の非でも、心配されるばかり。常に誰かしらが傍に寄り添ってくれ、たまには一人になりたいと愚痴るほどであった。それが贅沢な嘆きなど思わず、"力"というもののおかげだとは露知らず、ただただ甘やかされて暮らしたが。
弟――道成が産まれると少しずつ環境が変わり始めた。
それ以前はにこやかに接してくれていたはずの正室・桐江の態度が急変し、時間を見つけては玖柳を呼び本当の息子のように可愛がってくれていたのが嘘のようになくなってしまった。
実子が出来れば状況は違える。己の腹を痛めた子を当主に据えたいと願い、さすれば玖柳は邪魔なだけである。わかりやすい態度であった。しかし、玖柳の心は痛んだ。自分を慈しんでくれていたのは、次期当主となる存在だったからと突きつけられれば辛くなる。優しげな声も、柔らかな笑顔も、すべてはまやかしで、腹の底では玖柳に対し複雑な感情が蠢いていたのだと。本音と建前の存在を初めて見せつけられ躊躇いは大きい。そうでなくとも大事に育てられ、嫌な思いなどしたことがなかった身には堪えた。我が子が最も可愛いと、親心とはそのようなものだとて、信じられずに茫然とした。
それでも玖柳には実の母が傍にいてくれた。離れていく者の存在を面白く思えず気にしてしまうが、習わしに従い第一子である玖柳こそが正当な世継ぎであると後押しする者もいる。大切にされることに変わりはなかった。
しかし――結局、玖柳は早瀬を出されることになった。
崎宮での生活は、これまでと遥かに違う。
たとえば朝。起きると、夏であれば冷たい水が当然に用意され寝汗を流し、冬であれば火鉢に火がつけられ温まった室内に移動するだけである。食事も膳が運ばれてきて、食べる時には給仕が控えていた。下働きの者がいいように仕度をしてくれていた。しかし、ここではそれらを自分でこなす。寒ければ火鉢に火をつけ温度を調節し、食事の膳は運んではくれるが、給仕として傍に控えてくれる者はおらず、食べ終われば玄関口まで膳を出す。それとて、雨風しのぐ家はおろか、食べ物がなく、その日を生きるのに往生する人間がいることを考えれば十分な生活であったが、玖柳には惨めに思えた。
"早瀬の跡取り"という"力"がいかに大きかったか。裏を返せば、玖柳自身の存在などつまらぬものであり、その身一つには何の価値もないと言われているのと同じだ。玖柳はここにきてようやく自分がどれほど恵まれていたのか。そして己だけでは何の力もないことを身に染みて知った。
だが、嘆いてばかりいても仕方ない。万一跡目争いが起きるようなことになれば血が流れる。不毛な諍いを自分が我慢し耐えれば全ては丸く収まる。早瀬のためであると言い聞かせ、腐らずに心を保ち真面目に生きていればきっといいことがある。何よりここ以外行く場もないのだ。玖柳は愚痴をこぼさず、新しい生活に慣れるように努めた。
そして、不遇な環境で生きるういと出会う。
幼き姫君が冷たくされ、寂しげに過ごす姿を哀れに思い、優しくしてやろうと近寄り可愛がった。善意の気持ちから喜ばれるものと思っての行動――それも、余計な真似だと言われた。告げられた言葉に腹が立ち、ならばもう何もしないとういを突き放す。だが、時間が経過すると幼子に可哀相な真似をしたと悔い、自分が相手をしなくなったことで悲しみ、しょんぼりしているに違いないと様子を見に行った。ところが、ういは玖柳のことなど気にとめてはおらず、それどころか楽しげに過ごしているのを目の当たりにした。その瞬間、玖柳の内で何かが切れた。
"力"のない者が人を思いやったところで意味などない。今の自分が何をしても誰にも相手にされぬ。
溢れ出るのは禍々しい感情である。世を嘆き、人を恨み、自分を哀れみ、生きているのも辛く、いっそう消えてしまいたいと願う。
紅梅が行灯の明かりに照らされ揺れ動く。
かつてはただ美しいとだけ見えていたはずのそれが今は詮無いものと思える。
もう自分はあの庭を見ることはないだろう。仮に早瀬に戻ることになっても"当主"になることがない玖柳には踏みいることができない場所だ。そう思えば、殊更に切なくなるというもの。季節は確かに歩みを進めるが、玖柳の心は真冬から抜け出せない。このままずっと凍てついたままであるような気さえして苦さが満ちる。
玖柳は親指の爪を噛んだ。ギリっと歯の合わさる嫌な音がする。執拗に噛み続けていると、ふいと嗚咽が漏れた。堰を切ったように零れ落ちる涙は冷たく痛ましく感じられた。
2012/1/29