恋でないなら 不遇な身の上 08
「くりゅうどの。おられますか。」
梅が終わり、桜の蕾が綻び始めた頃だった。
昼を過ぎてしばらく、玖柳の屋敷を来訪する者が。少しばかりつたないが、元気のよい声だ。
その時、玖柳は座敷にいて書物を読んでいた。
本格的な春が訪れても、玖柳は相変わらず屋敷に籠っていたが、それでも以前ほど投げやりではなくなった。諦念とでも言おうか。人はいつまでも嘆き悲しんでばかりはいられぬようで、憂鬱さを引きずりながらでも朝はまともに起きるようになった。規則正しい生活は心身を健康にする。体が整ってくると心も僅かに前を向く。さすれば自分を満たすものを探し始める。その一つが読み物である。
物語に意識を集中していれば現実の嫌なことは忘れていられる。その時だけは辛さが消え失せた。逃避と呼ばれる行為ではあったが、ひたすらに恨みつらみを述べ寝て過ごしていたことを思えば大層な進歩である。玖柳は早瀬からの荷に詰められてくる書物を頼りにした。一挙に読んでしまえば手持無沙汰になるため、次回の荷まで持つように、少しずつ読み進めていたが。
「くりゅうどの。おられますか。」
割入るようにもう一度、呼ぶ声がする。相手が誰であるか、聞いてすぐに理解した。
一人過ごす玖柳にとって訪ねてくれる者はありがたいはずだが、迎えに立つことなく腕組みをする。
今更何の用か――出るのは喜びではなく不審だ。
ういが訪ねてこなくなってからもう随分と経過している。二度と来ないだろうと考えていただけに、一体どういう風の吹きまわしかと訝しむ。それから、そういえば近頃、長い湯治から奥方と娘二人が戻ってきたことを思い出す。なるほど。新木に見捨てられて遊んでくれる者がいなくなりやってきたのか。行きついた答えに玖柳はむっとなる。
――随分となめられたものだな。
自分が暇になったからと訪ねてきて、相手をしてもらえると思っているのか。
腐っても鯛。構ってくれるなら、それまで素っ気なくされていても遊んでもらうういとは違う。玖柳はこれでも南の地を治める早瀬の跡取りであったのだ。人並み以上の矜持を持っている。いくら退屈しているといえ、一度離れて行った者に興味はない。都合のいいように扱われるのは御免被ると無視をすることに決めた。
「くりゅうどの。おられませんか。」
また、声が。玖柳は五月蠅いとばかりに座敷から居間へ移動する。玄関から遠のけばそれだけ声も聞こえにくくなる。だが、まだ足りないと、外にいるういには見えないというに、文字どおりに"背を向けて"腰を下ろした。
三度の呼びかけに応えずにいると、ういは諦めたのか静かになる。去ってしまったか、と玄関の様子を伺う。どうやら本当に帰ったとわかると玖柳は鼻で笑った。
しかし、翌日もういは訪ねてきた。
「くりゅうどの。おられますか。」
時は昨日よりも少し早い。玖柳は昼の食事を摂っている最中であった。この時刻ならばいると踏んだのか。周到さをあざといと感じ、不愉快さは増して行く。
誰がお前の相手などしてやるものか。
玖柳はやはり聞こえぬふりをする。ういは昨日同様、三度呼びかけてきたが、それ以上は粘ることなく去った。
そして、その翌日。
ういはまたやってきた。今度は更に早い時間である。
「くりゅうどの。おられますか。」
玖柳もまた無視をする。さすれば少し間をおいて、
「くりゅうどの。おられますか。」
二度目の呼びかけ。
あと一度。それで終わるだろう。と、玖柳は思った。"三"というのがどうやらういには何かの目安であるらしい。思い返せば、以前に居留守を使い追い返した時も、三日は訪ねてきたが四日目に来なくなった。今日がその三日目で、そして次が本日三度目の呼びかけ。これをやり過ごしてしまえばもう来なくなるだろう。
「くりゅうどの。おられませんか。」
心なしか寂しげに聞こえた声に玖柳は思わず立ち上がる。しかし、戸口へ行くまでには至らずういは去って行った。
終わった。これで明日からは来ない。清々する――はずであったが。
何故だか玖柳の胸はざわつく。まんじりとした感情に襲われてじっとしてはおれず、無闇に居間と座敷とを行ったり来たり歩きまわる。どうしたものかと自分でも思うが。居留守という手段は理屈ではなく後味が悪い。以前、一度それをして、後々罪悪感に見舞われて懲りたはずであった。同じことを繰り返している。それ故に躊躇いがあるのだろうと考える。
やはり出てやればよかったのではないか。堂々と出て、ういの勝手な振る舞いを言って聞かせてやり、断れば良かったのではないか。
いや、しかし、さすれば反省して涙を流し許しを乞うたかもしれない。ういがぽろりぽろりと泣く姿を想像する。すると、そうでなくともざわついていた胸が一層落ち着きを失くしていく。
――駄目だ。
たまりかねたように玖柳は右手で首元を乱暴に掻き毟った。
あの姫が泣くところなど間の当たりにすれば、可哀相になって許しまうに違いない。やはりこの方法が最もよかったのだと玖柳は思いなおす。
これでいい。これでいい。自分は何も間違っていない。
言い聞かせるように唱える。だが、玖柳の心は晴れない。それどころか、
――泣いて謝るならば許してやっても良かったのではないか。
ついにはそのようなことを思い始める。
ういは年端もいかぬ幼子である。一度の気移りぐらいは大目に見てやってもいい。反省して悪いと謝らせる機会を与えてやる。それが年長者の役割ではないのか。それをせずに拒否した。あまりにも大人げなかった。
玖柳はうろうろと部屋を徘徊する速度が上がる。
今からでも追いかけるか。
話ぐらいはきいてやるか。
行ったり来たりせわしなく動きながら、心半分はもうすでにういの元であったが――ふと、部屋の隅に無造作に置かれた千代紙が視界に入る。その途端、冷や水を浴びせられたようにすっと気が静まった。
「――馬鹿らしい」
"あの時"も悪びれていたのは玖柳だけであった。ういは何も思っておらず、それどころか他に相手をしてくれる者を見つけ、さっさとなびいていたではないか。あのような仕打ちを受けながら、まだ情けをかけるべきと思うなど愚かしい。振りまわされている自分が滑稽であると玖柳は忌々しく思った。
――そうだ。あのような姫を相手にしてやる必要などないのだ。
思い出すとむかむかしはじめる。
ようやく気持ちが静まりかけ、平穏な生活を送ろうとしていた矢先に、また心を乱されるなど冗談ではない。放っておけばどうせすぐ何か別の楽しみを見つける。薄情な姫のことなど忘れてしまうに限る。もう考えまい。玖柳はういのことはなかったものと意識の奥底へと沈めた。
ところが、予想に反してういは翌日も懲りずにやってきた。
「くりゅうどの。おられますか。」
来るはずないと油断していたせいか最初は空耳だと思った。忘れようと誓ったのに幻聴が聞こえるとはと我ながら呆れ、知らぬ知らぬと頭を左右に振る。しかし、
「くりゅうどの。おられますか。」
間違いなく聞こえてくる。
気のせいではなかったか。
玖柳は驚き確かめようと、あれほど頑なに拒んでいたというのに何かに突き動かされるように玄関口へ行き、板戸を開けてしまう。そうして飛び込んできた光景に目を見開いた。
確かにそこにいるのはうい、なのだろう。しかし、顔が見えない。両手に抱えきれぬ荷を持っていたからである。上半身がすっぽりと隠れてしまっていた。それを担いでここまできたのかとあっけにとられていると、
「くりゅうどの。おられませんか。」
三度目の呼びかけ。それからしばし動かずにいたが、やがてういはゆったりとした動きで後ろを振り返り、よたよたと歩き始める。玖柳からういの顔が見えないということはその逆もしかり。出てきても返事をせずにいたものだから、ういは玖柳が目の前にいることに気付けずに、不在であると判断して帰って行く。玖柳は咄嗟に、
「姫君」
声をかける。ういは立ち止り危なっかしげに半分だけ回った。横を向いて止まれば顔が見えると思ってのことだろう。その通り、ういと目が合う。
「くりゅうどの。おられましたか。」
ういは玖柳の姿を確認すると残り半分を回り正面を向き、そのまま前に進んでくる。まったく見えていないだろうに、それでもぶつかるかぶつからぬかの際どい所でどうにか立ち止まる。
「これを。」
持っているものを差し出してくる。
玖柳はわけもわからずにいたが、とかく重そうにしているので受け取ってみる。さすればようやくういの全身が見えた。大きな目が真っ直ぐに玖柳を見つめている。
「それをさしあげに参りました。」
「……これを、私に?」
それは細い紐で繋がれた大量の折り鶴である。ずしりと重みがある。いかほどあるのかと鶴に視線を移せば疑問を察知したようにういが告げる。
「はい。千羽あります。」
「千も? 一体これはどうされたのですか」
「折りました。」
「折った? 姫君がご自身で?」
「はい。くりゅうどのは元気がないようでございましたので、ういは心配しておりました。それから、千の折り鶴には願いを叶える力があると教えていただきましたことを思い出し、それをさしあげ願いが叶えば元気がでるかと思い、父上さまにお願いして千代紙をいただき、新木にいさまに教えていただいて折りました。時間がかかってしまいましたが、ようやく折りおわりましたのでお持ちしました。これで願いを叶えてください。」
それだけ言うと、ういはいつものように深々と丁寧なお辞儀をして、身軽になった体で来た道を走り去る。それを見て、引きとめてもっと話を聞くべきだ――玖柳は思えど体が動かない。唖然とし追いかけることも出来ず立ち尽くす。
思ってもみなかったことが起きる。それはこれまでもいくらかあった。たとえば早瀬の嫡男ではなくなったことや、崎宮に来ることになったこと。玖柳の人生を大きく変えたそれらは全て悪いものであった。しかし、今回は真逆である。新木と楽しそうにしている姿を目撃し、なんとつまらぬ姫だと悪態をついていたが。自分を切り捨てたと思えば一層憎々しく、だから、再び訪ねてきても当てつけに拒絶し続けたが。しかし、蓋を開けてみれば。
――ずっと、私のためにこの鶴を折っていたのか。
玖柳の胸は張り裂けそうに膨れ上がる。ういに対する申し訳なさと、己に対する情けなさとが込み上げて、息苦しくてたまらない。
そして、浮かび上がってくるのは一連の真実の姿である。
そもそもが、新木の言葉で"何の非もない"ういを拒絶したのは玖柳の方だ。先に非道な振舞いをし恨まれても仕方なかった。それで新木になびいたとてういに責められる覚えはない。だが、そうであっても憎まねばやりきれぬと玖柳はをういを嘲った。己の振舞いを誤魔化すために馬鹿にした。だが、玖柳が自分のことばかり考えている間に、ういは玖柳の冷たくなった態度を"元気がない"と心配し、どうにかしてやろうと考えて、玖柳のために鶴を折り続けていたのである。ひどい真似をされたとういこそ怒ってもいいはずが。玖柳が元気になるように。玖柳の願いが叶うようにと。
――姫君。
突っ立っている場合ではない。玖柳は我に返り、受け取った千羽鶴を抱きかかえて後を追う。
2012/1/31
2012/2/1 加筆修正