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降伏せよ 02

 腕を掴まれて、体が固まった。紺野さんの。明らかに、自分の行動に動揺しているが、引くに引けないという感じで、腕を離すこともなく、かといって何か言葉を発するでもなく、動かない。自分からしておいて、それはないだろう。けれど、不思議なもので相手が動揺していると、こちらは落ち着いてくる。私が何かしら言ってあげなければならない気がした。
「離してもらえますか」
 とりあえず、無難な言葉を口にしてみる。紺野さんはゆっくりとした動きではあったけれど離してくれた。すんなり言うことを聞いてくれたことで、私に危害を加える気はないらしいことがわかる(今のところだけど)。ほんの少しだけ怖い、という気持ちが薄れていく。ただ、相変わらず距離が近い。私の方が一歩、二歩と後ろに下がる。その様子を紺野さんは黙って見ていた。目線もまったく逸らさない。
「あの、私、帰ります」
 伝えると、紺野さんは狼狽えた。
「私のコートはどこですか? それから鞄……」
 鞄はもしかしたら、手を離れてしまったので、あの場所に置き去りになったままかもしれないが、着ていたコートはここにあるはずだ。おそらく脱がされたのだろう。
「君は私の話を聞いていたのか?」
「どういう意味ですか?」
「君は、命を狙われると言っているんだ。ここを出てすぐに殺されるかもしれない」
「だからって、ここに一生いるわけにはいかないですから」
 私が言葉を返すと、頬を赤らめる。
――は?
 何かおかしなことを言ったろうか。照れさせるような気障なセリフでも言ったか? 自分の言葉を反芻させてみても、思い至らない。
「君がそうしたいというのなら、私は構わない」
 私が考え込んでいるうちに、早口に彼が言う。
 何を言っているんだろうか。
 言っている意味がわかっているのだろうか。
「そんなこと無理でしょう。立場があります。私とあなたは相いれるわけにはいかない」
 現実離れした提案に、声が裏返っていた。
「君が望むなら、可能だ」
 ドキッとした。相変わらず見つめられた眼差しが痛いぐらい真剣だったから。この人の目の奥にある熱にあてられそうだ。ここで終わっていれば私はうなずいていたかもな。と、思う。けれど、彼はわずかな沈黙に耐えられないのか、もごもごと、私のせいで君が狙われてしまったわけだし、守る義務はある。だから君が望めば私はその望みを叶える。ともっともらしい言葉を付け足した。それが何だか言い訳のように感じられ急激に気持ちは冷えて、正常な思考が蘇ってくる。
「私はそんなこと望みません」
 答えると、紺野さんはますます顔を朱に染めた。今度のは照れているのではなく怒っているときに見せる表情だ。わかりやすい反応に私は困った。子どもではないのだし、そもそもこの人は私たちが悩まされている敵のボスなのだ。あの手この手で強かに仕掛けてくる。それが、この態度。ギャップがありすぎる。
「だったら、好きにすればいい」
 紺野さんは投げやりに言う。それからコートと鞄を渡された(ちゃんと鞄も持ってきてくれていて安堵する)。
「助けて下さりありがとうございました」
 一応、お礼だけは言って部屋を出る。扉を閉めて廊下を歩きエレベーターホールまでくるとほっと息が漏れた。

***

 十分ほど経過すると、おかしいと判断するしかない。
 エレベーターがこない。動いてはいるのだが、この階まで上がってこない。一体どうなっているのか。待ちくたびれて非常階段で降りることも考えたが、扉が開かない(これでは非常階段の意味がないではないか)。おまけに携帯電話も圏外。
――これって、閉じ込められている? 
 蟻一匹外に出るのは不可能。そんな感じのセキュリティシステムなのか。あり得ない話ではない。ここは紺野さんの家なのだ。まともな暮らしをしているわけではないのだから、警備には一際気を使っているだろう。何か特別な方法でないと外に出られないのかも。 そこまで考えて、それならそれで、何か言ってくれてもいいのではないか。と憤りを覚える。紺野さんはこうなることを見越していたに違いない。だったとしたら、戻って真相を聞くのは嫌だ。思うツボな気がして。
 けど。
 このままここにいるわけにもいかない。彼が外出するまで、ここでじっと待っていて、一緒にくっついて出ていく、ということも考える。ただ、下手をすれば一晩この場所で過ごさなければならない。真冬にマンションのエレベーターホールで過ごす。結構な辛さだ。背に腹は変えられない。
 全く乗り気ではなかったけれど、私はもう一度、彼の部屋の前まで行き、インターフォンを鳴らす。ほどなくして「どちらさまですか?」と問われることなく、扉が開く。
 玄関先に入ると、寒さから解放された。
「エレベーターがこなくて、非常階段の扉も開かないのですが……」
 ありのままを伝えると、この階には紺野さんしか住んでおらず、許可なくこの階に上がってこられないようなセキュリティが施されていると教えてくれた。私の予想は当たっていたのか、と納得するけれど、
「どうしたら降りれますか?」
 どうにかしてもらえないか。とお願いする。だけど、
「君は私の力は必要ないと言っただろう」
 素っ気なく言われる。それは子どもが拗ねているような口ぶりだった。私は当然呆れた。大人げないというか、なんというか。この人は本当に私が知っている紺野さんなのか。
「あなたは一体何がしたいんですか? 私を困らせて楽しいですか?」
「私は君を困らせようなどしていない。君が、私の助けなど要らないと言ったんだろう」
「だって、あなたが言っていることは無茶でしょう? 私とあなたは敵対する関係なんですから。私は私のいるべき場所に戻って、自分の身を守ります。そうした方が、あなたにとっても面倒じゃなくていいじゃないですか? なのにどうしてそれが気に入らないんですか?」
「だから、それは…私のせいで君が狙われているのだから、私が守る義務があるし……」
「義務なんて感じてもらわなくても構わないです」
 義務など要らない。家に帰してくれたら、それでいい。私が言っていることは真っ当だと思う。案の定、紺野さんは何も言えないのか黙った。また、動揺している。それでも、
「君は私に何を言わせたいんだ?」
 紺野さんは絞り出すように言う。それを見ていると、なんだか可哀相な気もしてくる。それでも、
「別に何もありませんけど?」
 私はもしかしてサドっ気があるのかもしれない。この人が困っている姿を見るのを可愛いと思う。普段が普段なだけに余計。
「あなたこそ、何か他に言いたいことがあるのですか?」
「君がこんなに意地っ張りな性格だとは知らなかった」
「あなたが私の何を知っているというんですか?」
「そうだな。何も知らない」
 それから、落ちてきた唇。キスというにはあまりにも拙かったし、一瞬触れただけだったから、抵抗する隙もなかった。もう少し長ければ、胸を押しのけることや(私の力では目的を果たせるかは別にして)、舌が侵入してくるようなものなら噛み切るぐらいの芸当(こちらの方が有効かもしれない)は出来た。けれど、本当に、ふっと触れて離されてしまったから、私は何も出来なかった。
 彼の唇はまだ近くにあった。その問題の唇から少しだけ目線を上げて彼の目を見る。
「どうして、こんなことをするのですか?」
「君が、嫌がらないから」
「……嫌がったらやめてくれるんですか」
 だけど返事の代わりに、抱き寄せられたかと思うとすぐにまた口づけられた。




2010/12/30

  

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