喉仏がある。ということは、これは男性。
目覚めて飛び込んできたものが何であるかは認識できた。だけど、状況をすぐに思いださなかったのは、後ろめたさ、罪悪感、そういった諸々から、思いだしたくなくて、躊躇っていたのだろう。
額に感じるのは、この男の唇だ。お互いに向き合うようにして横になっている。そして、私の肩はに男の腕が回され、首の下には男のもう一方の腕が敷かれ――つまるところ腕枕されて抱きこまれている格好だ。
私はそこから抜け出したくて、ゆっくりと体をよじった。物音が少しでもすれば目覚めるかなぁ(職業柄が職業柄だけにそういうことには敏感かな、という推測)と思われたが、私が抜け出しても、すやすやと眠っている。その顔はあどけなく、そして幸せそうにみえて、私は恥ずかしくなった。
――この人は、私のことを安全だと思っているのか。
寝首をかく気はなかったけど、安心されているのだなぁという事実に、なんとも言えない感情が巡る。無防備さに、私は面食らい、困惑し、どうしていいかわからない。
とにかく、ここを離れよう。
散乱というほどではないが、脱ぎ捨てた服を拾い上げ(一応、彼の服も拾って、それはベッドの端に置いた)、寝室からリビングに出る。
人の家のリビングに、裸に近い恰好でいるのは心もとなく、急いで服を身につける。そうすると、大きなため息が漏れた。
信じられない。
その言葉が、まるで責め立てるようにこだましてくる。
私は何をしているのだろう。私自身が一番聞きたい。
結局、あれから私は彼と、紺野さんと寝た。流されて、とか、強引にされて、とか言い訳をする気はない。あの時、口づけされて、私はわずかも嫌悪感を抱いていなかった。彼が言った「嫌がらない」は事実だった。
私はこの人が何をしているか、知っている。
そして、この人は敵なのだ。とも。
わかっている。わかっていて、その上で、抵抗はしなかった。面倒はごめんだ、と思っていた気持ちも本当だけれど、いつか、どこかで、タイミングが重なって、そのような場面が来たら、面倒なことになってしまうだろう、とうっすらと自覚していた。それなのに、知らないふりをして、わからないふりをして、そうならないように、という努力は何もせず、流れに任せるように様子を見ていた。結局のところ、本音では望んでいたから何もしなかったということかもしれない。
――仕事は、続けられないだろうなぁ……。
こういう関係になった以上、辞めるしかない。辞めて、でもだからって紺野さんとの関係が続くわけでもない。それは寝返りだ。そのような真似は出来ない。私に残されている道はどちらも失うこと。それが、この代償だろう。だけど不思議と後悔はなかった。おかしな話だけれど、負け惜しみではなく思う。私のすべてと引き換えに得た一夜はそれぐらい満たされた時間だった。私は自分が思っている以上に、彼を想っているのかもしれない。
辞めるにしても、上司と話す為に一度基地に行く必要がある。
時間を確認する。午後九時過ぎ。遅刻だ。無遅刻無欠勤の私が時間通り行かないとなれば心配しているだろう。とりあえず、電話を入れておこうかな、と思っていると、
――……!
考え事に夢中で気付かなかった、というより、気配を感じなかったので気付かなかった。これは完全に彼の職業病だろう。背後からぎゅっと抱きしめられて、あやうく悲鳴を出しそうになってこらえる。痛くはないが割と強めに力を入れられている。それからコメカミと頬に唇をつけられた。なんだろうか、この甘い感じ。昨日のぎこちなさが嘘みたいだ。まぁ、やることはやってしまったので、打ち解けてしまうのは不自然ではないけれど。でも、
「離してください」
「何故?」
「もう夜は終わったから」
「まだ終わっていない」
「終わってます。私は戻らないといけない。セキュリティを解除してここから出してください」
私は告げた。だけど、彼は拘束を緩めることなく、戯れのような口づけを落としてくる。
「今日は何も起きないし、行っても無駄だからゆっくりしたらいい」
「そんなことわか、」
――る。張本人が、起きないというのだから、それは正確な言葉に直すなら「今日は何も起こさないから」ということだ。職権乱用ではないか。いや、何も起きないならそれにこしたことはないのだが。
ほら、おいで、と容易く抱きあげられて、つい先ほど出てきたばかりの寝室へ連れも戻される。ベッドは軽くだけれどメイキングされていて、乱れた後は消えていた。投げ出されると置かれるの中間ぐらいの動作で寝かされ、覆いかぶさるように攻めてこられたが、唇の数センチ手前で動きを止める。吐息が触れ合うのが焦らされたようで私の方が熱を帯びる。彼はわずかな距離を弄ぶようにしていたかと思うと、私の上唇を一瞬舐めて、
「田所は食えない男だ。わかってはいたが」
田所、というのは私の上司だ。一体、何を言い出すのか。じっと見つめると、紺野さんは軽いキスをしてくる。
「君が眠ってしまった後、電話がかかってきた」
「電話?」
「人身御供」
その言葉は何かのスイッチなのか、と思うほど激しく口づけられた。この人は口説き方は拙いくせに行為はうまい。私の中心は更に熱を帯びる。だけど、考えなくてはならないことがある。快楽に飲まれている場合ではない。押しのけよう頑張ってみる。だが、ビクともしない。私が抗うことがお気に召さないのか、口づけは深さを増すばかりで、次第に洩れる声は甘さだけになっていく。
「ん……、いや、紺野さん。……やめて、」
たまらずギュッと首元にしがみつくと、動きが止まる。押してダメなら引いてみろとはこういうことかな、とちょっと思う。唇は離れたが、顔はすぐそばにある。彼は涙がにじんだ私の目じりを舐めて髪を撫でた。私は呼吸を整える。
「どういう意味ですか?」
「ん?」
「人身御供って、ちゃんと話してください」
そして聞かされたのはおそるべき内容だった。
『もしもし、紺野君?』
『田所か。何の用だ』
『そこに、トーコちゃんいるでしょう?』
『……何故知っている』
『いやだなぁ、そりゃうちの子の動向ぐらい知ってるよ。それよりさ、提案が一つあるんだけど。うち、ほら、年中無休じゃない? 誰かさんたちがいつ攻めてくるかわからないから、休みなくて、気が休まらないっていうの? あ、なんか今、うまいこといったっぽくない?』
『そんなつまらんことを言うためにかけてきたなら切るぞ』
『待って待って。もう、冗談も言わせてくれないなんて、ユーモアのない男は嫌われるよ? トーコちゃんは結構お笑い好きだし』
『……』
『べた惚れだねぇ。そんな紺野君に提案。トーコちゃんと一緒にいるときは攻めてこないでくれない?』
『何?』
『つまり、君がトーコちゃんといちゃついてる時は、君の部下もお休みさせて、攻めてこないって協定。本当はトーコちゃんを人身御供にあげるからもうこの戦いは終わらせてくれるのが一番ベストなんだけど、流石にそれはねぇ。女一人のために戦いを辞めますなんて君が言ったら、きっと反感を買って、別の新しいリーダーが出来ちゃって、争いは続くだろう? それなら、欲張らず、確実に休みをゲット! って方が賢いかなーって。皆、心おきなく休めて、紺野君も楽しめて、これってすごくいい提案でしょう? 僕ってやっぱり天才だよねぇ』
『私が断ると言ったら?』
『二度とトーコちゃんには会わせません。僕が会わせないと言ったら本当に会えないよ。嫌でしょう?』
あのバカ上司……! 考えられない。どんな提案をしているんだ。信じられない。絶対にぶっとばす。私は打ち震えた。だけど、
「本当にあれは食えない男だな」
紺野さんは微苦笑をもらしながら告げた。笑い顔を見たのははじめてで、ドキッとする。そして更に、
「そんなわけだから、毎月、第三金曜日にはここにきなさい」
「は?」
――それはつまり、
受け入れたの? あの提案を? いやいやいやいや。それは、ちょっと、どうなんだろうか。というか、そこに、私の意志や意見や感情は存在していないではないか。勝手に決められてしまったことに、私は不満を感じていた。けれど、
「君が来ないなら、どこかが炎上する」
サラっといってくれるが脅しだ。何故、そのようなことになるのか。言葉が出てこない。頭が真っ白で、何を言えばいいか、わからない。
――上司公認で、敵のボスと付き合うの?
そんなバカな。だけど、きっと、私の許された答えは一つだろう。
紺野さんは笑った。今度ははっきりと満面の笑みだ。見惚れるほど格好良くて、その顔で優しい口づけをされる。だから私はクラクラして、もう知るかと半ばやけっぱちで「はい」とうなずいた。【完】
2011/1/11