降伏せよV お迎 前編
三月の第三金曜日。仕事帰り。
職場では必要最低限の化粧と、動きやすいパンツスタイルで、髪もひっつめている。帰宅して、シャワーを浴びて、髪止めの癖を洗い流し、ふわふわのワンピースとまではいかなくても、それなりに可愛らしい格好をする。そして、出向きたい。
好きな人に会うときは、少しでも綺麗にしていたい――それが純粋な乙女の発想だけなら、私にもあったのかと照れていただろう。だけど、私のそれには不純なものが混ざっていた。
先日のとあるホテルで行われたパーティー。私たちは警備として、その場にいた。すると、来場者として、彼が来ていた。傍に、とても、綺麗な人を連れて。背の高い彼と並んでも見劣りしない、スラリとした長身。真っ赤なロングドレスが、透けるような白い肌を強調している。女の私から見ても妖艶で色香を感じた。嫉妬する気力さえ殺がれてしまうような。
それから、見事に、ぐるぐるした。あらゆる想像が駆け巡り、いじいじといじけ、めそめそ悲しんで。そんな自分を愚かだと思いながら、ああ、私は、彼がそんなに好きなのか、と最終的にうなだれた。そして、せめて、少しでも彼に会うときは綺麗な姿でいようと。出来る範囲で。そう決めたのだ。
職場を後にして、家に急ぐ。駅まではそれほど距離はない。走った。けど――背後から突然のクラクション。それも大きくキツい音ではなくて、人に合図を送る時に、そっと鳴らす感じの。私は振り返った。自分が呼ばれたと思ったわけではなくて、反射的に。すると、
――どうしてここに?
面喰った。車はゆっくりと私の傍で停止する。乗れ、ということだろう。私は困惑した。ただ、ここは職場の近くだ。誰かに見られたら厄介だ。かろうじて残っていた冷静さが告げる。扉を開けて乗り込む。運転席を見つめても、何も言わない。正面を見て、静かに車を発進させた。私も無言でシートベルトをした。
大通りに出て、三つ目の信号で、引っかかた時、ようやく、
「どうしたんですか?」
と声を出せた。だがそれは不機嫌に響いた。正直、私のテンションは低い。迎えに来るなど想像もしていなかった。だから化粧崩れだって直していない。いつもは帰り際、それなりに整えるけど、今日はしていない。それよりも一分でも早く家に帰って、身支度を整えて、会いに行きたかったから。それなのに。
私の問いかけに、彼は何も言わない。やがて信号が変わり、車がまた走り出す。しばらく彼の横顔を眺めていたが、返事はしてくれそうにないので、今度は視線を外に向ける。方向から、彼の家に向かっているのではない。どこへいくつもりか。聞こうかと思ったが、まだ不機嫌な声しか出せそうになかったので黙る。
それから車内は無言だ。重苦しい。そう感じているのは私だけだろうか。自分の気持ちが滅入っていると、周囲の状況もそのような色に見える。自分のフィルター通して見るしかないので仕方ない。
私は小さく息を吐く。そして、出来うるだけ建設的に考えてみようとする。
――迎えに来てくれて、ありがとう。そう喜ぶべきなのだろうか。
お洒落した姿で会いたかった――というのは私の問題だ。彼の前だけではなく、いつも綺麗にしていればよかった。普段手を抜いているから、突然現れた彼に動揺した。それで不機嫌な態度をとるのは八つ当たりだ。そう、思う。けれど、気持ちは以前として不機嫌さが拭えない。
そうしていると、車は脇道に入る。しばらく進むと、立派な門構えの店が見えた。いかにも高級そう。私はひやりとした。明らかに、場違いだと感じられた。だけど、彼は迷いなく門をくぐり、慣れた様子で裏にある駐車場へ車を止めた。そして、当然に降りた。私は体が固まって動けない。それを何を勘違いしたのか、彼は周り込んできて扉を開けた。私の体はますます固まる。動かない私をようやく不審に思ったらしい彼が覗きこんでくる。
「行きたくない」
告げる。
「この店は、気に入らない?」
今日、はじめて聞く声だ。おしゃべりな人ではないけれど、彼の様子はいつもとは違う。私の不機嫌なフィルターを通しているからではない。表情は変わらないけど、違う。
問いかけに、どう答えればいいのか。右手で唇を抑える。そうしていないと、胸のあたりにあるもやもやを全部吐き出してしまいそうだったから。勝手に自己卑下してるだけです、など恥ずかしくて言えない。私は現状で最大限の冷静な言葉を巡る。
「こんな格好だし……」
「おかしくない。それに個室を用意してある。馴染みの店だし気兼ねする必要はない」
――馴染みの店。
その言葉に心が過剰反応する。一人で、このような店には来ないだろう。誰かと一緒だ。その誰か、を想像する。私とは違って、お洒落で、品があって、この店にふさわしい人。妄想だ。それでも、私の中で現実味のある内容として迫ってくる。”あの日”から、私は囚われているのだ。自分とあの人とを比べている。そんなことおかしいと頭ではわかっていても、どうにもならなかった。そして、今もまた。
「嫌だ。行きたくない」
そして堰を切ったように涙が出てくる。こんなに泣いては崩れた化粧が余計に崩れるではないか。みっともないし、迷惑がられる。嫌われてしまうかもしれない。だけど、涙はとまってはくれない。もうよくわからない。自分でも混乱していた。
不調だ。ここのところ気温の寒暖が激しくて、体調不慮だった。自律神経が乱れている。そういえばそろそろ生理もくる。そういった一切合切が情緒不安定にさせているのだ。そんな理由を並べてみても説得力がない。絶望的に悲しくて、破滅的に惨めになるだけ。
彼は、何も言わない。ただ、私の鼻をすする音だけが聞こえる。
――ああ、もう最悪だ。
私はどうにか、涙を拭い、顔を上げた。彼の顔が傍にある。無表情だった。完全に呆れているのだろう。当然だ。意味がわからない。なんだこいつは、とうんざりする。私自身がそうなのだから、第三者からしたら、もっとそうだ。
「ごめんなさい」
言葉にすると、また、涙が出そうだった。すると、
「泣くほど私が嫌か?」
言われた言葉は予期していたものとは違った。声は低く、冷たい。そしてやはり顔は無表情だった。彼は更に続けた。
「先月、エレベーターで鉢合わせになって、君を怒らせてしまってから、ずっと気になっていたんだ。今月の頭にホテルで会った時も、視線を合わせてくれないどころか、私のことを完全に視界から消していた。嫌われたのかと思った。だが、約束の日以外に会いに行ったら、余計に迷惑がられ、もっと嫌われるかもしれないと我慢した。それでも、いざ、今日になってみたら、今度は、もしかして、来てくれないかもしれないと、」
そこまで言うと彼は黙る。
私はびっくりした。
先月のエレベーターでのことを、まだ気にしているとは思ってはいなかった。あの時、私は不機嫌な顔をしたのは事実だけど、時間が経過すれば忘れる些細なことだ。少なくとも、彼はそのようなことを気にする人ではないと思った。気にするような人なら、恨みを買うような仕事など出来ないだろう。彼の職業柄を考えれば、そう思う。
まして、それを、先日のパーティーで私が彼を無視していたことと絡めて考えていたとは想像しない。あの時、私が彼を見ないようにしていたのは、女の人と一緒の姿を見るのが辛かったからで、怒っていたからではない。女連れの姿を見られるのはまずいとかそのような発想はこの人にはないのか。そのことに更に驚く。
と、いうか、
「それで、迎えに来たんですか?」
バツの悪そうな顔をしたが、
「……乗ってくれたから、嫌がられてはないのかとほっとしが、君は不機嫌だった。まだ怒っているのかと思った。美味しい物でも食べれば多少は怒りもおさまってくれるかと望みを託してここへきたら、君は行きたくないと言って泣きだすし」
その言い方は、拗ねているように聞こえる。
唖然となるとはこういうことなのかもしれない。私は私の気持ちだけをぐるぐるさせていて、彼も彼の気持ちだけをぐるぐるさせている。まったく意志の疎通がなせていないことを告げている。
月に一度しか会えずに、会っている間、抱き合っている時間が長いせいで会話はなく(いや、これは本当に問題だと思う。求められると悪い気はしないし、求めている自分もいるのだけれど、理性ある人間なのだからもう少しどうにかならないのかと、ちょっと思う)、それで気持ちが通じ合うなんてことは不可能だけど。それにしても、私たちの間には全く信頼関係がないのだ。結局のところ、私はこの人が私を好きなのか、そしてこの人も私がこの人を好きなのか、その不安が拭えない。もっと、話をする時間が必要だ。
「私は、怒ってなどいません」
今度は私が告げる。
「エレベーターのことは、どうしてあんなこと言うのか、ちょっと頭に来たけど、そんなことで嫌いになったりはしない」
嫌いになったりしない――という言葉の後、彼の目にわかりやすい安堵が浮かんだ。本当に、私が、それぐらいで嫌いになると思っているのか。どれだけ私の気持ちを軽く見ているのだろうか。
「軽い遊びで”あなたと”関係を持つほど、私はスリルを求めていない」
よりによって敵方のボスと、と思いを込めて告げる。すると、彼は複雑な顔をする。何か言いたげだったが一度飲み込む。それから、私の頬に触れた。
「じゃあ、何故?」
――泣くのか。
「それは、」
私は言葉を詰まらせる。
2011/3/4