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しぐれごこち 10

 
 父の実家から戻った次の日は家で過ごした。父が約束を破ってお酒を飲んだことで父と母が喧嘩して険悪なムードになるかもしれない。そしたら私は取りなさなければいけない。と考えたから。だけど意外と大丈夫で、二日酔いの父を介抱する母は極めて普通だった。夜にようやく回復した父と、久々に三人でご飯を食べた。始終和やかで、これなら明日は安心して暁生さんの家に戻ることが出来るなぁと思った。
 そして、翌日、月曜日。私は再び暁生さんの家に戻った。
 その前に、学校へ寄る。水遣りのためだ。花壇があり水遣りは生徒の仕事だった。三年生は受験生ということで免除され一年と二年がする。一週間に二度、月曜日に二年が、木曜日に一年が担当で、八月の四週間をクラス順に割り当てられている。一年も二年も四クラスずつあるので、過不足なく巧い具合に割り当てられる。私は二年二組だから、八月の二週目の月曜日が当番になる。今日が、その日だ。
 だいたいはクラスから二名ほど選出するが、夏休みにわざわざ水遣りをしに登校するなど誰もやりたがらない。最終的にくじ引きになる。去年のクラスでもそうだった。だけど、今年は担任の植岡先生が止めた。率先して水遣りに行こうとする者がいないことを怒り、「全員来るように」と驚くべき提案をしたのだ。「みんなやりたがらないなら、みんなでやればいい。これは決定よ」と強制的に決められた。先生の虫の居所が悪かったのだと思う。まだ年若い新任の英語の教師で、気分にムラがある。良い時は、物わかりのいいことを言うけど、機嫌が悪い時は理不尽なことを言う。私はこの先生が苦手だった。
 学校に着く。約束の時間は八時半。今、八時二十分過ぎだから、誰か来ていてもよさそうだけど、私が一番乗りだった。暑さを少しでも紛らわせるために日陰に入って待つ。ほどなくして、香坂さんがやってきた。彼女とは小学校が別で、中学で出会った。一年、二年と同じクラスで、お昼のお弁当は彼女と二人で食べている。漫画や小説、それから映画に詳しくて、オススメの作品を教えてもらったり、教えたりする。後、グループを作らなければならない時も、一緒だ。だけど、放課後遊んだりはしない。彼女に「今日遊ばない?」と言われれば断らないだろうけど。誘われたことはないし、私からも言ったことはなかった。
「おはよう」
「おはよう。暑いね」
「うん、ここ、ちょっとだけ日陰になっているから、ましだよ」
 一歩場所を譲ると、「ありがとう」と香坂さんが傍に立つ。それから、二人してぼんやりとした。私が香坂さんといるのが心地いと感じるのは、このぼんやりした時間が許されるからだ。他の子だったら、「何か話さなくちゃ」とか「つまらない奴を思われないようにしなくちゃ」と気持ちが焦るけれど、香坂さんはそういう気持ちを抱かせない空気をもっていた。私はこの雰囲気を大変好ましく思う。だけど、クラスメイトの中には嫌う子もいる。「大人しいよね」「話さないよね」と香坂さんに言う。言い方は、バカにしたような、見下したような、微妙な感情が入り混じっている。香坂さんはそれについてただ黙っている。私はひやりとする。こういうところは苦手だな、と感じる。もう少し愛想よく、うまいことやれないのかなぁ、とドキドキするから。
 五分ほどして、川村君がやってきた。時間は八時半ちょうど。
「もしかして、俺らだけ?」
「……みたいだね」
 香坂さんはスタスタと歩いて、ホースを蛇口に繋いでいた。早いところ終えて帰ろう、という意思表示だろうと私も手伝った。ただ、川村君だけがぶつぶつ文句を言っている。
 ホースの先を押さえて、水を散乱させる必要がある。私がホースの先端を持ち、合図すると、香坂さんが蛇口をひねってくれる。ホースの緑に水が流れ込んでくると、その部分が深緑に変わる。もうすぐ、水が届く。
 私は勢いよく流れてくる水を、花壇にまく。手首を小刻みにスナップさせて、リズムよく、端から順番に。
 花壇といっても、さほど広くはないのですぐに終わる。十分もかからなかった。この作業のためにクラス全員をこさせようとするなんて本当に無駄だ。やりたがらなくてもくじで公平に決めて仕事を務める、その手段の何が気に食わなかったのか。私は今も植岡先生の提案を理解できずにいた。それを先生に向かって主張する勇気がなかったので、文句はいえないけれど。
 ホースを片付けている途中で、植岡先生と山川さんと小野さんが来た。
「もう終わったの?」
「終わりました」
 先生の問いに、私が答えると、早いわね、とつぶやいた。
 植岡先生はジャージを着ている。バレー部の顧問で、今日も指導しているのだろう。植岡先生はバレー部の子たちには好かれていた。山川さんも小野さんもバレー部員だ(三年が引退してから山川さんはエースを務めている)。彼女らと大変仲がいい。まるで姉妹みたい。今も、一緒に来ている(時間には遅刻だけど)。
「他の子たちは?」
「来てねぇよ。俺ら三人だけで頑張ったんだぜ」
 川村君が言った。三人で頑張ったって彼は見ていただけだ。
 植岡先生はこなかったクラスメイトに怒りを示すことはなかった。終わったなら、ここにいる必要はない。可愛いバレー部員が体育館で待っている、という感じで、
「あなたたち、御苦労さま」
 と笑顔で告げてまた山川さんと小野さんと戻って行った。それを受けて、川村君は「俺も帰る。じゃあな」と去ってしまった。残った私と香坂さんはまだ途中だった使用したホースの片づけをした。
「よかった。先生の機嫌が良くて」
 香坂さんが言った。少しだけ驚いた。先生の態度に、私は腑に落ちない物を感じていたから。真面目に来た私たちって一体何だったのだろうか? ともやもやした気持ちが広がる。
 私が不審げな表情をしていたからか、更に、香坂さんが続けた。
「学校が始まって『水遣りに来ていたのは川村君と、本村さんと、香坂さんだけでした。三人は立派です』なんて言われたりしたら大変じゃない? これって私たちを褒めているようでいて、他の子たちをけなしていることになるから」
「ああ、なるほど」
 これは植岡先生がよくやる過ちだ。植岡先生はバレー部員に対して、しばしばこのような言動をする。彼女たちは立派だ。と。私の受け持っているバレー部がどれだけ素晴らしいか。と。だけど、それを聞かされる私はいい気分がしない。なんだか遠まわしに、バレー部員ではない私はダメだと言われている気になる。そのように感じているのは私だけではないらしく、植岡先生がバレー部員を褒めるほど、うちのクラスのバレー部員の二人は浮く。言いようのない感情は、植岡先生だけではなく、二人にも向く。「いい子ちゃんぶって」と。「先生に気に入られてるからっていい気になって」と。
 その二の舞になるぐらいなら、もやもやした気持ちを我慢する方がずっと平和に学校生活を送れる。香坂さんがそこまで考えていたことに私は素直に感嘆した。
「私たちが先生のお気に入りだったら話は変わってたのかも。好かれてなくて難を逃れるって変な話だよね」
「うん、本当に」
 私が強く同意すると香坂さんはくすっと笑って、
「だけど、まだ油断はできないよ。あの先生のことだから、学校が始まったら思い出したように今日のことを言うかも」
「それなら、サボって怒られる方がよかったよね」
「そうだよね。でも、後、半年の辛抱だよ。来年は違う先生に当たることを祈ろう」
 香坂さんの言葉に、今度は私が笑った。先生について、こんな風にクラスメイトと話したことはなかったけど、やっぱり同じように感じているのだなぁ、という事実にほっとした。

 香坂さんは家が逆方向だから校門で別れて、暁生さんのところへ向かった。九時半。いつも起きだして朝食を食べ始める時間だ。
 家の前に着いて、インターフォンを鳴らす。だけど、反応はない。どこかに出かけているのだろうか。一応合鍵をもらっているので、開けて入る。暁生さんの靴は玄関にある。家にいるはずだ。
「ただいまぁ」
 何故か小声になる。
 寝ているのなら部屋かなぁ、と思ったけど、とりあえず居間に向かった。アトリエから光が漏れている。朝なのに、電気を点けている? 変だなぁと入ってみると、私がいつも寝そべっているソファに、暁生さんが仰向けになって横たわっている。ぐったりして見えて、心臓が止まりそうになったけど、すこやかな寝息が聞こえ安堵する。
 机を見る。画材道具が出しっぱなしだった。暁生さんはそれほど綺麗好きではないけれど、画材道具に関してはきちんとしている。描き終えると丁寧に片付ける。それが出ているということは、ちょっと休憩するつもりで横になってそのまま眠り込んでしまったのだろう。
「暁生さん、起きてよ。こんなところで寝たら風邪ひくよ」
 揺さぶると、体をよじってそっぽを向く。
「暁生さんってば」
 ダメだ。起きそうで起きない。
 昨日は一体何時に眠ったのだろう? 私がいる時は二時頃には眠る。そして、九時に起きる。規則正しくていいよね、と嬉しそうに言っていた。家にいると夏休みでも八時には起きるから(通常は七時だ)、私としては一時間も遅く起きているのに、それを規則正しいと言うなんて、この人は休みをどのような時間軸で生きているのだろうか。と、思った。
 こんな寝方をしていては風邪をひいてしまう。早く戻ってきて正解だった。私は二階へ行って、暁生さんの部屋から掛け布団を持ってくることにした。
 二階には三部屋ある。暁生さんの部屋と、結婚前母が使っていた部屋(現在私が使っている)と、客間(こちらは物置になっている)だ。階段を上がってすぐの部屋が暁生さんの部屋だ。この部屋に入ることは滅多にないので妙に緊張する。中は、畳にベッド(母の部屋もそうだけど)というアンバランスな光景がある。
 入ると窓が開いていた。昼間、空気の入れ替えをして締め忘れたのだろう。暁生さんはどうも防犯意識が弱い。「うちは盗られるものなんてないから」と笑う。それが事実であったとして、泥棒が分かってくれるかはわからないではないか。盗みやすそう、と入ることだってある。鉢合わせになって居直り強盗にでもなられて殺されたらどうするのだ。私が来てから、口を酸っぱくして言うので少しはましになったと思ったのに。悪癖は簡単に改まらないようだ。
 窓を閉めようと近づくと、傍にある机に、雑誌が広げられているのが目に入った。
――これ、
 それは求人広告雑誌だった。
 あまりにも、無造作に、普通に並べられていたので、最初、大した意味はないもののように思えたけれど、すぐに胸騒ぎがやってくる。パラパラとめくってみると、ところどころ赤ペンが入っていた。それは業種ではなく、年齢制限につけられてあった。年齢不問。四十歳まで。と書かれているものに片っ端から赤でチェックがついてある。暁生さんは今年で三十八になる。自分が働ける年齢のものにマークしているのだと確信する。
「虹子? 帰ってたの?」
 突然、声をかけられて、体が大きく揺れた。振り返ると、寝癖のついた髪を撫でながら、まだ寝ぼけた顔の暁生さんが立っていた。
「あっ、起きたんだ……」
 それから、「戻ってきたら寝てたから、掛け布団を取りに部屋に入ったんだ」と付け足したけど、自分でも声が上擦っているのがわかった。暁生さんは私が手に持っているモノに一瞬だけ目線を向けたけれど、そのことには何も触れず、
「昨日、遅くまで作品作っててさ。ちょっと休むつもりでソファで寝そべったら眠りこんじゃって、体の節々が痛い。もうちょっと寝るよ」
「うん。お昼になったら起こしてあげるよ」
「頼むよ」
 暁生さんはそう言うと、もそもそとベッドに入って夏だというのに頭から掛け布団をかぶった。それが深い拒絶のように感じられた。私は何も言えず、雑誌を机に戻し、暁生さんの部屋を後にした。




2010/11/8

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