昼過ぎ、炒飯(炒飯の元と白御飯をフライパンで炒めただけ。結構おいしい)とお味噌汁(こっちは手作り)、それからレタスとトマトとカニカマのサラダを食卓に並べ終えた頃、暁生さんは自分で起きてきて席に着いた。普段の暁生さんの顔だ。私は少しだけ緊張を解く。
気になることはあった。暁生さんの態度が少しでも妙だったら、私はそこにつけこんで尋ねていた。だけど、何ら変わらない様子が、踏み込んではいけない領域を提示されたように感じられた。
「おいしそうだね。お腹がすきすぎて倒れそうだから、よりおいしそう」
話を聞くと、昨日からまともに食事をしていないと言う。私がいるときは、そうもいかないが、一人だと一食ぐらい抜いても平気と思ってしまい、それが二食になり、結局丸一日食べずに作品作りに明け暮れていたらしい。来週、個展を開くことになっているから、最終段階として根を詰めるのは理解できるが、食事までしないなんて。
「どんな時でもご飯は食べないと。力が出ないよ」
悲しくても辛くても苦しくてもご飯を食べる。食べたくなくても食べる。母は必ず私にそうさせた。「お腹がいっぱいになればたいていのことは乗り切れる」なんとも乱暴な結論だけど、幼い頃から言われ続けたせいか、私にとって真実となっていた。
「その台詞、久しぶりに聞いた。母さんもよく言ってたなぁ」
暁生さんは懐かしそうな顔で言った。母は祖母から受け継いだものだから、当然一緒に育った暁生さんも聞かされているはずだ。
「いただきます」
行儀よく手を合わせて、私たちは食事を開始した。
暁生さんは熱心に食べた。元々食は細い方で、夏ということもあり、明らかに食欲は減退し、体重は落ちていたけど、今日は、炒飯もお味噌汁もサラダも綺麗に完食した。食べ終えて、珈琲を入れて、今日、家からもらってきたパイナップルを切って並べると、それも食べた。
午後からは居間でのんびり過ごす。暁生さんの提案だ。昨夜は作品作成に夢中になりすぎたから、今日はゆっくりすると言うので、私も便乗してダラダラ過ごすことにした。
祖母が大好きだった「風と共に去りぬ」のDVDを観る。四時間の大作だから、見終えたら五時を過ぎる。夕ご飯の支度をするのに丁度いい時間になる計算だ。ムードを出すためにカーテンを引いて、部屋を暗くしてから再生ボタンを押す。やがて、壮大な音楽が流れ始める。
南北戦争時代のアメリカが舞台の、美人で勝気なスカーレットの半生を描いた物語。傲慢な彼女は、その性格ゆえに、本当に大事にするべき人を大事に出来ず失う。絶望と喪失の結びは、
――明日のことは明日考えよう
大変なことは、明日考えればいい。明日がある。絶望の中に希望を繋ぐ。
祖母はこの台詞が好きで、映画を見た後に会うと必ず、「何があって明日を信じて、現実を生きなきゃ駄目よ。そうでないと始まらないんだから」と言ってくる。祖母といえば、真っ先に思い出される記憶だ。
クレジットが全部流れ終わるまで待って、暁生さんは立ち上がり、カーテンを開けた。西日の赤が差しこんできて眩しく、現実世界に引き戻される。私はDVDプレーヤーの電源を切る。通常のテレビ放送に切り替わる。チャンネルを回してみても興味を引くものがなかったので消した。テレビの音がなくなると静寂が訪れる。暁生さんはまだ窓の傍に立っていて、大きく伸びをしていた。それからおもむろに振りかえり、
「この映画を観終わると、母さんは決まって『何があっても現実を生きなきゃ駄目よ』って言ってたんだ」
「うん、覚えてる。というか、私もそのこと思い出してたんだ」
「じゃあさ、いつだったか、それで虹子が怒ったのは覚えてる?」
「覚えてるよ。お母さんに平手打ちされたの、あの時だけだし」
鮮明に覚えている。私が小学校三年生の夏だ。ちょうど、今頃の時期。母と一緒にここへ遊びに来たら、祖母は映画を見終えたところで、例にもれずいつもの台詞を私に聞かせた。またか、と思ったけれど、嫌ではなかった。ただ、その時はいつもと違いやけにしつこく繰り返してきた。一体何なのだろう? と不思議に思っていたけれど、祖母が繰り返す度に、傍にいた暁生さんの顔が強張っていくように感じられた。見ていて苦しくなるほど。祖母はそのことに気づいていないのだろうか。私は違うと思った。祖母はわかっていて言っている。暁生さんをいじめているのだ、と。今思えば、そんなことあるはずがない。祖母は厳しいところはあるけれど、人が嫌がる真似をする人ではない。まして自分の子供に嫌がらせなんて考えられない。きっと私の間違いだった。だけどその時の私には、祖母が酷い人に見えて、
「もう! おばあちゃん、しつこいよ。何度も言わないで。聞きたくない」
と言い放った。すると、たちまち、母の平手が飛んできて、
「おばあちゃんになんて口のきき方するの!」
痛かった。これまで生きてきた中で、一番痛かった。だけど、私は謝らなかったし、泣かなかった。私は悪くないという自信があったから。私は暁生さんを守っているんだ。だから、泣かない、と。押し黙ったままでじっとしていた。
「あの時、なんだか暁生さんが辛そうに見えたんだよね。おばあちゃんの言葉に傷ついてるみたいに見えた。だから、やめさせようとしたんだ。どうしてそんなこと思ったのか、変だよね」
頼まれたわけでもないのに、正義の味方気取りで(しかも勝手な解釈)、祖母に酷いことを言った。やめてもらうにしても、もう少し言い方があったはずだ。だけど、私はそういう手順を何も考えず、乱暴な言葉で祖母の言葉を遮った。それでも、祖母は「虹子は芯が強い子だね」と笑っていた。母の方が「甘やかさないでいいのよ!」と怒っていた。祖母はどうしてあんな風に笑えたのだろう。わからない。わかるのは私が愚かな子どもだったことと、結局謝ることないまま、祖母が他界したことだった。
「なんか、いろいろ悔やまれる……」
自分が口走ってしまったことも、過去の行動も、全てが恥ずかしいやら情けないやらでうわーっとなる。暁生さんはそれを笑うような人ではなかったけれど、いたたまれない気持ちになって逃げるように炊事場へ向かう。冷蔵庫からオレンジジュースを取り出してコップに注ぎ、一息に飲み干す。酸っぱさで口の中はさっぱりしたけど気持ちはちっとも落ち着かない。それでも我に返り、自分の行動の奇妙さを誤魔化すように、「暁生さんも飲むー?」 とちょっと大きな声を出して聞く。不自然すぎる話題転換だったけど、「入れて」と返ってきた。ジュースを注いだグラス二つを持って戻り、一方を渡すと、「どうもありがとう」と丁寧にお礼を言われた。
その日の夜。
「虹子にお願いがあるんだ」
アトリエで、私は二日振りにソファに寝っ転がって暁生さんの絵を描く姿を眺めようとしたら言われた。改まった態度に私もたたずまいを直しソファの上に正座する。
「そんなかしこまらないでくれよ。緊張する」
「暁生さんが先にそういう雰囲気つくったんでしょう?」
暁生さんが言うので、私はなるべく普通の空気に戻そうと明るい声を出した。それなのに暁生さんは堅い態度のままだ。なんだかなぁ、と思いつつ、
「それで、お願いって何?」
「今度の個展に出品する作品に、題名をつけてほしいんだ」
「題名?」
まったく予期しない申し出に、素っ頓狂な声が出た。
一昨年、知人が画廊を開いたのをきっかけに、年に一度個展を催すようになった。結構評判になり、今年は、大きなショッピングモールの一スペースを貸りて開く。絵と音楽のコラボで、暁生さんの絵に囲まれて若手音楽家がライブをする。暁生さんの絵からインスパイアして作った曲もあるらしい。楽しみにしていた。
「ネームプレートを作らないといけないから、個展の二日前、最悪一日前にはつけてほしい。全部で二十一枚あるけど、大きいものだけでいいそうだから、これとこれと、これ。それとこれかな」
取り出して並べられたのは全部で四枚。一枚は茶色のべニア板に黒のサインペンで細かく花や蝶を描き込んである。二枚はアクリル絵の具。白いべニア板の絵は、右上に原色のみで幾重にも花びらを重ね、左に黒い鳥の影があり、下半分は白いままの空虚が痛々しいほど凛と広がっている。黒のベニア板の方は左下に描かれたビックリ箱からパレードが飛び出してくる様をカラフルで柔らかい色合いで描いている。そして、最後の一枚。この絵だけは板ではなく普通のキャンバスだ。使っている絵具も、アクリルだったり水彩だったりが混ざっている。優しい緑と黄金色が混ざったススキノと、薄い青の空、そこに藍色で幾何学模様が丁寧に描かれていて、右側から白が迫ってきている。朝焼け。たぶん朝焼けが訪れているのだろう。静かな夜を飲み込んで、光が降り注ぐ途中を切り取ったような風景だった。
「頼んだよ」
暁生さんは簡単なことのように言う。私は慌てた。
「そんなの無理だよ。だいたい、絵は暁生さんにとって大切なものでしょう? 自分でつけた方がいいよ」
「だからだよ。だから虹子に頼んでるんだよ」
暁生さんは笑っていた。笑っていたけれど、真剣な目をしていた。お願というより、祈りのような、不可思議な切実さを宿しているように見えた。私は息を飲み、気圧されてうなずいてしまう。だけど、途端
「やってくれて助かるよ。こういうの苦手なんだよね。じゃあ、よろしく〜」
と、軽やかに告げられる。変わり身の早さにはめられたのかもと疑ったが、もう後の祭りだった。
2010/11/9