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しぐれごこち 09

 
 夕食を食べて、ほどなくし、私たちは暇することにした。
 父が酔っ払ってしまったから、当然泊まっていくだろうと考えていた伯母と愛子ちゃんは残念がった。母が運転するとは予想していなかったようだ。父だけでも泊めてはどうか、とか、気持ちよさそうにうたた寝しているし、起こすのは可哀相だ、と最もそうなことを言われたけど、母は連れて帰りますから、と父を車の後部座席に寝かせた。
 祖父母の見送りを受けて、勢いよく車は発進。暁生さんとの特訓の賜と、現代の技術カーナビゲーションのおかげで順調だ。でも、
「ETCってこのまま突き抜けて大丈夫なの? ねぇ? 何かスイッチとか押さなきゃダメ?」
 高速へ入るための坂道を昇っている最中に、母は父に話しかけた。父は車の振動が気持ちいいのか、すっかり深い眠りに入り込んでいて起きない。徐々に近づいてくる料金所に、母はこれまでの冷静さを失いつつあった。平気そうに運転しているけれど、内心、相当恐怖だったのだと知る。
 一つの感情に支配されると何も見えなくなる。
「ETCじゃなくても、普通にお金払ったらいいんじゃないの?」
 私が言った。
「あ! そっか。虹子、賢い」
 普通、わかるようなことを褒められてもなぁ。大丈夫かなぁ。と、心配が増す。
「あ! でもお財布が入ってる鞄、後ろのシートのに置いてる」
「どこ?」
 私は振り返りごそごそ探す。幸い、すぐに見つけられた。父の足元(母のお気に入りの鞄なのに、父が足で蹴っていた。黙っておこう。家庭平和のためだ)に転がっていた。鞄から財布を取り出す。
「いくら?」
「わからないよ。それより、右から二番目でいのよね? あそこがETCじゃない入り口よね?」
 赤い料金所が見え始めている。
「うん。右から二番目。緑のライトのところだよ」
「右って一番早い速度で走るレーンじゃない。どうしてそんなところにあるの!」
 心に余裕がないのはわかるけど、口調がすっかり女子高生だ。車の運転はその人の本性がでるというけれど、母の精神年齢が女子高生ということだろうか? それでもどうにかレーンを移動し(夜だから車も少なく割と簡単に移動出来た)、料金所で支払いを済ませ(七百円だった)、合流地点も乗り切り(やはり夜だから車が少ない)、高速道路本道に入る。
 これで、当面、大丈夫だろう。
 母も同様のことを思ったらしく、ほっと一息ついた。
「ねぇ、お茶とって」
 私はサイドブレーキの後ろに立ててあるペッドボトルの蓋を外して渡す。母はおいしそうというより、喉が乾ききっていて本気でごくごく飲んだ。終わって、ペッドボトルを渡され、蓋をして、元に位置に戻す。
「あー怖かった」
 だけど、まだ口調は女子高生だ。
「お父さん、あれだけ騒いだのに、ちっとも起きないね」
 後ろのシートを見る。吐息を立てて眠っている。こちらは子どもみたいだ。女子高生と子ども。どちらもちっとも親らしくない。
「お酒、弱いからねぇ」
 母が言う。その声音に、怒りは感じない。
 昔からそうだけど、母は父の悪口を私に言わない。夫婦喧嘩したときや、面白くないことがあって、父に対する態度を悪くすることはあっても、直接私に愚痴を言ったりはしない。今日なんて、約束を破って、缶ビールを飲んで、酔っ払って眠りこけて、慣れない運転をさせられて、怖いー! と叫びながら頑張っている。父を罵ってもいいように思われた。だけど、私には父の文句を言わない。かといって、父を庇うこともしない。私が父を好きか嫌いか、さほど問題にはしていないように思われた。どちらでもいい。あなたの好きにしたらいい。ただし、自分がそれを左右する言動はしない。私の感情でどうするか決めたことなら尊重する。そんな風な距離の取り方をする。
「親だからって、子どもに好かれるとは限らない。私はお父さんのことを好きで結婚したけれど、あんたは違う。子は親を選べないからね。親子だからって、必ず合うわけじゃないから。だからいいのよ。うまくいかないことを無理やりうまくいってると思う必要はない。嫌なものは嫌。それでいい。どんな関係でも、親子であることに変わりはないんだし」
 いつだったか、母が言った。私は、あの時、救われたような気持ちになった。そうか。いいのか。と。もし、母が「家族なのに」とか言うような人だったら、私はどうにかなっていただろう。うまくやれない自分を責めて、消えてしまいたいと毎日思っていたはずだ。
 母は「家族とはこういうモノ」という認識があまりない。また、「親とはこうあるべきだ」という理想もない。自分が出来ないことは出来ないと言う。潔いほどハッキリと。親には完璧で完全であってほしい。完全無欠の世界で、守ってほしい。子どもなら無意識に願う。だけど、母は最初からそのような振る舞いはしなかった。私は、人生の早い段階で、両親も未熟な人間であることを理解した。幼い頃はそれが悲しかった。だけど、結果として、そのおかげで、私は父を嫌わずにいられるのだと思う。嫌だな、と感じることはあるけれど、完全に嫌ってしまわずにいられた。父親なのにどうして? もっとこうしてよ? そんな風に思うことが少なくてすんだから。
「虹子も眠たかったら寝ていいよ。でも、料金所が近づいたら起きてね。一人じゃどうにもならないから」
「もう、そんな頼りないこと言わないでよ」
 私は笑う。
「そんなこと言ったって、高速道路、それも夜の高速なんて走ったことないんだから仕方ないでしょう」
 母は嘆く。
「頑張ってくれてるのはわかってるって」
「そうでしょう?」
 今度は自慢げだ。母らしいな、と思う。
 それから、私は黙った。別に眠りたかったわけではないけど、なんとなく黙った。
 窓に頭をもたげる。
 ナトリウム灯が規則正しく並んでいて流れ去っていく。オレンジの柔らかい明りの残像が連なり、一つの線のように見えた。私は更に首をもたげて、空を仰ぐ。夏の夜は、明るい。群青の澄んだ空を見ていると、何故だか胸が鳴る。この、切ない感じ。きゅっと心臓を掴まれたような、痛みが混ざった優しい悲しみに身を任せる。
 私は母の子どもでよかった。未完成で、未完全で、弱さを見せてくる、あなたの娘でいられてよかった。と、思う。
 いつか、父に対しても、そんな風に思える日がくるだろうか?
 それとも、この微妙な関係のままなのだろうか?
 わからない。今はまだ。だけど、どうなるかわからない、と思えていることにささやかな光を見つける。答えを出してしまわずに、グレーのままでいると、時々、抱えきれず、投げ出したくなる。白黒つけてしまいたい衝動に飲み込まれてしまう。それでも、まだ、曖昧なままでいようと思う。いつか、と願いを込めて。
「来た! 虹子! 来たよ。料金所。お金、お金」
 突然、母が騒ぎ出す。
 二つ目の料金所だ。ここを過ぎれば、家まで後わずか。私は、慌てて財布を開ける。
「まずい。千円札がもうないよ。一万円でもいい?」
「うそー。それって料金所のおじさんに嫌がられるんじゃないの? というか、料金所に寄せて停車させるのすっごい難しいのよ」
 母はまた、パニックになりつつあった。
 私は近づいてきた料金所の看板を見つめる。『普通車五百円』――小銭を確認すると、ちょうど五百円硬貨があった。
「五百円あったよ。一万円出さなくていいよ」
「さすが虹子、でかした」
 大袈裟だなぁ、と思う。
 母は怖いのだろう、私の方を見ず、前だけ見つめて、左手を私にむけて出してきた。手のひらの上に、五百円を置く。ぎゅっと握りしめて、料金所の赤いボックスに沿うように車を止める。やや離れているので、窓を全開にしてめい一杯手を伸ばして硬貨を渡す。料金所のおじさんが
「お気をつけて」
「ありがとうございます」
 窓を閉める。大仕事終えたような溜息をつきながら、
「なんか腕が釣りそう。というか、今の人、顔、笑ってたよね?」
 私は噴き出した。
「あんたまで笑う事ないでしょう」
「だって格好悪すぎるよ」
 たまらず声をあげて笑う。母は「何よぉ」とやっぱり女子高生のようにふてくされた。




2010/11/5

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