BACK INDEX NEXT

しぐれごこち 12

 
 絵に題名をつける。
 頼まれた日から、私の全神経はそのことに注がれていた。いい題名をつけようと気負い過ぎても、きっと思い浮かばないだろうから、絵の印象から思いついた言葉にしようと考えた。
 まず、最初に決まったのが、黒いべニア板の絵だ。漆黒の世界に置かれた箱から飛び出てくる賑やかな行列。輪郭だけに色がついていて、陽気な行進の内は静寂に包まれている。私は最初の印象通り「パレード」と名付けた。黒だから「夜のパレード」にしようかとも思ったけど、「夜の」とつけると限定的過ぎる気がしてやめた。もう、それが揺るぎない答えになる。パレードだけなら観る人が自由に想像できる空白が残っていると思うのでとどめた。
 次に、白色のべニア板の絵。原色の艶やかな花と鳥の影、下半分は眩い白がそのまま残っている。この絵には「裏と表」とつけた。花は美しい色が着けらているが影がない。鳥は影のみで実体がない。それが対照的に思えたから。
 それから、茶色のべニア板に黒のサインペンで描いた作品。ぱっと見た感じ、蝶と花が描かれてあるのだと思ったけれど、丁寧に見直すとビルの絵にも見える。視点を変えると入れ替わる様はロールシャッハテストみたいだ。私はこの絵に「秩序」とつけた。自然と人工物が混ざり合っているわけではなく、かといって競い合っているわけでもない。それぞれに存在している。共存、と迷ったのだけど、一緒にいるというより、それぞれの世界をもって、互いに潰しあわずにいる、というイメージの方が強いので、最終的に「秩序」にした。
 ここまでは、どうにか決まった。だけど、残る一枚はどうしてもしっくりくる言葉を思いつない。 
「穴が空きそうだね」
 題名のことを頼まれた日から三日後の夜。いつものようにアトリエで過ごす時間。私は問題の絵を眺めていた。すると、いつのまにか暁生さんが傍に立っていた。
「何か出るかと思って」
 ずっと眺めていれば、ふっと思いつくか、と。期待して見ている、と。私は口にしたけれど、半分嘘だ。私はこの絵が好きだった。ただ、観ていたかっただけ。というのもある。
 不思議な絵だ。眺めていると、涙が出そうになる。心の奥の、滅多に表には出てこない、だからまっさらで綺麗な場所から、シグナルが送られてくるような。私の内にある何かと、目の前にある風景が、強く共鳴して、涙を誘う。心臓がキリキリして、苦しくて、切ない。だけど、懐かしい。なんだろう。この感じ。ずっと昔から知っているような、初めて出会ったような。ごくごく稀に、包まれる感覚に似ている。すぐに日常の中に混ざって消えてしまうから、突き詰めて考える猶予は与えられず、何を意味するのかわからないまま、感情だけ揺さぶられる、あの感じ。ああ、私が感じていたものは、これだ、と。だけど、「これ」を言葉に置き換えることができない。はがゆい。掴み切れない感覚に戸惑いを感じた。
「難しいよ。この絵。他の三枚はつけたから、これだけは暁生さんがつけてよ」
「ダメダメ。虹子がつけてくれないと。まだ時間はあるから、じっくり考えて、この絵にふさわしいものを考えてくれよ」
「プレッシャーだなぁ」
 私の呟きに暁生さんは不敵な笑みを浮かべていた。

 暁生さんの家の門前。焙烙にオガラを積み上げて火をつける。赤い炎が美しく立ちあがり、煙が昇り始めるとお輪を鳴らす――迎え火だ。オガラが燃える音とお輪が一定の間隔で鳴る音が夕闇に溶けていく。
 八月十三日。私が絵の題名を考えることに夢中になっているうちに世間はお盆を迎えていた。
 暁生さんと、母、それから父と私は迎え火を取り囲んでいる。毎年この日は父方の実家で過ごすが、今年は祖母の初盆だから、と暁生さんの家に両親も来ている。父の実家では、お供え物をして、お寺さんにお経を読んでもらうだけだから、迎え火を見たことがない(そもそもそういうものがあることを今日知った)。私にとって初めての経験だ。
 迎え火が終わると、家に入る。
 夕食は母の手作りだ(私も少しだけ手伝った)。ちらし寿司と、骨付き唐揚げ、素麺。祖母がよく作っていた料理。私はどれも好きで、「虹子のために作るわね」と私が遊びに行くと作ってくれる。だけど本当は、ちらし寿司が暁生さんの、骨付き唐揚げが母の、それぞれの好物であることを知っている。私に、と言いながら、半分は二人のためだったのだと思う。
「ちらし寿司、ちょっと酸っぱいでしょう? これでもかってほど砂糖を入れるのがポイントなんだけど、思いきれなくていつも失敗するから、今日こそはとたんまり入れてみたんだけど、まだ足りなかったわ」
 酸っぱいというほとではないけど、祖母の作ったものと比べると確かに甘みは足りないように思われた。
「そうか? これぐらいの酸っぱさがちらし寿司っぽくてうまい。料理の腕はお義母さんよりお前の方がうまいと思うぞ」
 父が言う。母はおそらく祖母の料理を懐かしんで、再現したかったのだ。だから、その誉め方はちょっとピントがずれているのではないだろうか。違うよ、違うよ、と私は思った。案の定、
「あなたは何を食べても美味しいって言うじゃない。質より量なんだから」
 と、母はちょっと憮然として言った。だけど、誉めたのに何故そのような顔をするのかわからない父は、
「何でもうまく思えるのは幸せなことだぞ」
「そういうことじゃないの!」
 母の機嫌をますます損ねる。父は、「なんだよぉ」とちょっと怯み、
「虹子、唐揚げ食べろ。うまいぞ」
 と、避難するように、私に話題を振ってくる。もう私は小さな子どもではないのだから、そんなこと言われなくても、食べたかったら食べるよ、と思ったけど、私まで冷たくするのはまずいかなぁ、とここは素直に従っておく。
「どうだ? うまいだろう?」
「うん、美味しいよ」
 父が作ったわけでもないに、自慢げな顔だ。この人の思考回路がどうなっているか、ちょっと理解できない。それは、私だけではないらしく、
「あなたが作ったわけでもないのに、何、自慢してるのよ」
「作ってはないけど、薦めたのは俺だからな」
「何それ」
 久々に見る痴話喧嘩だった。他所の家の両親がどのような喧嘩をするのかはわからないけれど、たぶん、きっと、うちの両親の喧嘩は超低次元に分類されるだろうと思われた(時々物凄い険悪なのもあるけど)。小さい頃は、こんなのでも、二人がやりあうのを世界の終りが来たように感じ、どうにかして取り成さなくてはとひやひやしたけど、今は放置する。こういうのはただじゃれ合っているだけだから、心配しなくていいとわかった。
 そんな二人を、暁生さんは「毎年、母さんと二人で過ごしていたから、今年は賑やかに感じるよ」と楽しげに見ている。その言葉で、毎年、私と母が父の実家で肩身を狭くしている間、暁生さんと祖母が二人きりで、迎え火を焚いているのだ。という事実に改めて気付く。祖母もそれほどおしゃべりではないし、暁生さんは全然だし、静かな時間だろう。父の実家には、祖父母と叔母と愛子ちゃん、それから私たち家族三人の計七人。それに対し、こちらは二人。不平等だ。それならば父だけ父の実家に帰って、母と私はこちらへ来てもいい気がする。そうすれば、私も母も嫌な気持ちにならずに済む。だけど、
――そういうわけにはいかないのだろうなぁ。
 合理的、という言葉は、家族関係に置いて意味をなさない。仮に、父や、父の実家が了解したとしても、祖母はそういうことに細かい人だった。母は本村の家に嫁いだのだから、本村の先祖をお迎えするのが筋、と言ったに違いない。だけど、来年、一人きりでお盆を過ごすことになる暁生さんを考えると、私一人ぐらい、こちらにきてもいいのではないかという気がする。来年はちょっと頑張ってみよう。と、思った。

「途端に静かになったね」
 あれから、父はお酒を飲んで、いつもにまして陽気になって(代わりに母が静かだった)、一人で話しまくり、気が済んだら帰って行った(自分の実家でも、母の実家でも、楽しそうなこの人は、実は凄いのではないか、と少しだけ思った)。そして、残された奇妙な寂しさ。母の友人で、まだ三歳児ぐらいの子どもがいる人が遊びに来た後、こういう感じになる。日常の音を取り戻しただけなのに、ひどく静かに感じるのだ。本当に、今日の父は何故だか饒舌だったから。
 私のつぶやきに、暁生さんは
「義兄さんの陽気さは人類を救うと思う」
 と言った。返答に困っているとさらに、
「でも、不器用な人でもあるよね」
 不器用というのがピンとこない。でも、暁生さんが嫌味を言っているわけでも、茶化しているわけでもなく、真剣に思っているのは伝わってくる。自分でも不思議なのだが、私はそのことを嬉しいと思った。父を苦手に感じているけれど、父に好意を示す暁生さんの言葉を嬉しい、と。私から見た父と、暁生さんから見た父は、きっと別人なのだ。そして、おそらく、母が父を見る目は、私ではなく暁生さんの眼差しに近いのだろう。
「さ、じゃあ、今日の作業、開始しますか」
 個展に出す絵は全て出来上がっているけど、それとは関係なく描く。どんな日でも絵を描く。毎日の日課だ。
 絵を描くとき、暁生さんはブラックコーヒーを飲む。カップは机の右奥に置くと場所まで決まってある。今日も例外はなく、淹れる。私の分も一緒に作ってくれる。その間に、私は先にアトリエに入り、ソファに陣取る。
 視線の先には、あの絵だ。
 私はまだ、題名をつけられずにいる。頼まれた日から、かれこれ五日経過するけど決まらない。朝焼け。夜明け。夜の青。光。白の浸食。草原の朝。いろいろ考えてはいるのだが、やはりしっくりこない。というよりも、もっとしっくりくるものがあるはずだ、という気持ちが消えない。私はそれを見つけなければならないような気がしていた。
「はい、どうぞ」
 絵を眺めていると、暁生さんが来て、コーヒーカップを渡される。夏でもホットコーヒー。すっかり慣れた。 「ありがとう」と両手で受け取る。カップの熱さが掌を伝わりじんじんしてくる。
「なかなか悩んでいるみたいだね」
「すっごく悩んでる」
「でも、決まっちゃう時は、あっさり決まるからねぇ。僕が虹子の名前を決めた時もそうだった。まだ時間はあるし、納得いくものを考えてください」
 そう言うと、暁生さんは机に向かう。私はそれを目で追って、しばらく暁生さんの背中を見つめた。




2010/11/11

BACK INDEX NEXT

Designed by TENKIYA