翌日、十四日はお寺さんに来てもらいお経を読んでもらう。
驚いたのは、住職と母が同級生だったことだ。お経が終わり、お茶を飲んでいる時、母は、気安い感じで、
「あの悪ガキの佐々木くんが、今じゃ神仏にお仕えする身なんてねぇ。お坊さんや、医者や、先生って小さい頃は偉い人なんだなぁって思ってたけど、自分の知り合いから出ると、途端に権威を感じなくなるわね」
私の知り合いにお坊さんも医者もいないけど暁生さんは先生だ。なるほど、私は先生に対して「偉い人」というイメージはあまりない。先生だって普通の人間で、失敗もすれば間違いもある、と知っている。暁生さんがふわふわしているから影響を受けているのか。
「杉原さんには敵わないなぁ」
母の言葉に、住職さんは困ったような、懐かしいような、顔をした。母を杉原さんと呼ぶ。母にも子どもの頃があった。当たり前だけど、不思議だった。
住職にもっと子どもの頃の母のことを聞いみようかと思ったけど、お盆の忙しい最中、あまり引きとめて長居をしてもらうのも申し訳ないし、ろくな話が聞けそうになかったのでやめておいた(こんなこと言ったら母は絶対怒るから秘密だけど)。
十五日はお墓参りに行った。
杉原の墓は家から一時間行った場所にあり、近くには暁生さんが来週個展を行うモールがある。ちょうど午後一で軽い打ち合わせがあるらしく、暁生さんはお墓参りの後に寄ることにしていた。だから、暁生さんの車と、父の車と二台で向う。
お墓は比較的綺麗だった。暁生さんはお墓参りが趣味みたいな人で(お墓参りした後、気持ちがスッキリするのがいいらしい。私も度々便乗する)、月に一度は来ているから、どうしようもないほど汚れていたりはしない。短時間で掃除もお参りも済んだので、少し時間は早いけど、みんなでモールに寄ってお昼を食べる。食べ終わった頃、タイミング良く暁生さんの打ち合わせの相手からメールが送られてきた。少し早いが着いたから、そっちが来たら電話くれ、という内容で、すぐに電話して落ち合うことになる。私は両親と先に戻っているつもりだったので、お店を出て「じゃあ」と別れようとしたら、「一緒においでよ。そんなに時間はかからないし、急ぐ用事はないだろう?」と言ってくれた。どうしようか一瞬迷ったけど、モールの中に本屋があることを思い出す。読書感想文用の本をまだ決めていない。時間潰しにちょうどいい。私は暁生さんと残ることにした。
両親と暁生さんと別れ本屋へ向かう。エスカレーターを上がり、二階。本屋は一番端だ。服屋、雑貨屋、メガネ屋、帽子屋、靴屋を抜けて辿りつき、本屋へ一歩踏み入れると落ち着く。お洒落に興味がないわけではないけど苦手だ。店員さんに「何かお探しですか?」と近寄ってこられると心臓が跳ね上がる。「これ流行りなんですよねぇ」とか「似合うと思いますよー」とか営業トークをどう交わせばいいのか困惑するから。その点、本屋は自由に見て周れる。
まず新書コーナーに近寄る。やはり本屋と言えば発売直後の話題作が平積みされている光景だ。図書館との大きな違い。最近はお笑い芸人さんの本が多い。コントや漫才は物語に似ているから書けるのかなぁと推測する。その理屈でいうなら、お笑い芸人さんの中でも、落語家さんが最も書けそうな気がした。
それから日本作家の棚を見に行く。ここの本屋は男性作家、女性作家とそれぞれ別れてある。単行本はカバーが美しく目を引く物が多い。ただし、高価だ。それに寝転がって読むには重い。文庫本なら仰向きになって顔の前に持ってきてもそれほど力はいらないけど、単行本は手首が痛くなる。かといって、うつぶせで読むと肩がこる。それでも私は、お金があれば全ての本を新品の単行本で読みたいと望んでいる。本を読むときは、そこに書かれてある文字に、気持ちをあぶりだされ、一頁ごとに自分の魂の一部が重ねられていく気がする。図書館のような場所で、多くの人に貸りられている本は、読まれた人の数だけ、本の中に、その人たちの感情が落としこまれている。目には見えないけれど分厚くなっているように感じられた。重みを感じながら、誰が何を思ったのかと想像し、また、自分の気持ちを更に重ねていく行為は、それはそれで面白いことではあった。でも、まっさらな本に、自分の気持ちだけを丁寧に落とし込んでいく作業の方が好きだった。
近所の本屋さんと違って、あまりこないので、どこに何が置いてあるかよくわからず、店内をぐるぐるしていると、『日本語特集』という特集コーナーに行きついた。「美しい日本語」「声に出して読みたい日本語」「擬音語擬態語辞書」なんてものが並べられてある。どれも結構の厚さがある中、一冊だけ、比較的薄い本が目について手にとってみる。現在ではあまり使われなくなった日本語を紹介してある本だ。パラパラとめくっていくと、
「虹子。お待たせ」
背後から声を掛けられ、驚きのあまり体が揺れた。
「ごめん。驚かせた」
「……うん、大丈夫。もう終わったの?」
「ああ、絵の配置をどうするか決めるだけだったから。ここには何度かきたことがあるし、イメージは出来てたんだ。先方も僕の意見をそのまま採用するのでいいって言ってくれたから」
「そうなんだ。じゃあ、帰ろう」
「いいの? 見るんだったらまだ見ていていいよ」
暁生さんはそう言ってくれたけど、本屋にいると時間を忘れてしまう。何時間かかるかわからないので、読書感想文用の本は、一人の時にじっくりと探すことにして帰ることにした。
十六日。お盆の終わり。この日は送り火を焚く。
夕方過ぎに、母だけがやってきた。父は仕事の急なトラブルで昼すぎに会社へ呼び出されたらしい。まだ帰れそうになく、終わり次第、直接ここへ向かうからと連絡が来たそうだ。
「大変だね」
「不況だしねぇ」
暁生さんと母の会話を私はなんだか遠くの世界のことのように聞いていた。
それから、少し待ったが、結局三人で送り火をすることになった。会社のトラブルは父がいなければどうにもならないようだけど、送り火は父がいなくても焚くことが出来る。迎え火の時と同じように、門前で焙烙にオガラを積み上げて火をつける。炎が上がり、お輪の音が響き渡る。リーン、リーん、リーンと夕闇に溶ける。静かな静かな夕闇に。
勢いよく燃えていた炎は少しずつ弱まり、やがて燃え尽きていく。それは生命そのもののように感じられた。昔の人も、こうして亡くなった人と重ね合わせながら、火を見つめたのだろう。
「あ、いけない。消火用のお水用意するの忘れてた。虹子、コップにお水汲んで来て」
母に言われて私は素直に従った。足早に玄関を入り、廊下を突き抜け、台所でコップに水を入れ、同じ道を今度はゆっくりとお水をこぼさないように戻る。玄関を出て、「汲んできたよ」と声を出そうとして、はっと息を飲む。
母も暁生さんも、もうすっかり消えてしまった送り火の前にしゃがみこんだまま動かずにいる。会話もなく、ただ、灰になったオガラを見つめていた。その姿が小さな子どもに見えた。母親とはぐれて迷子になった子どもが、泣くのをじっとこらえて待っているような。
それで、ふっと思い出した。
あれは、祖母が入院し、三ヶ月経過したときだ。二月の、まだ寒い日だった。私は祖母と病室で二人きりになった。すると、
「夕子と暁生のことをお願いね」
突然、祖母が言った。何の脈絡もなく、本当に、唐突に。私はびっくりした。そして奇妙に感じた。最初、それは、もう立派な大人のことをまだ中学生の私に頼むなんて変だ、という違和感なのだと思った。だけど、
「夕子と暁生のこと、お願いね。他に頼める人、いないんだから」
――ああ、
「夕子」と言っているのが奇妙なのだ。祖母は私の前で母のことを、私の目線に立って「お母さん」と呼ぶ。それなのに、今は「夕子」と言っている。目の前にいる祖母は、私の祖母ではなく、母の――夕子のお母さんとして話しているのだ。
祖母は私の手を取り、ぎゅっと握って、もう一度
「お願いね」
と言った。私はうなずいた。本当は「縁起でもないこと言わないでよ」と言うべきだったのかもしれない。「そんなこと言わず、早く元気になってよ」と。だけど私はうなずいた。祖母の目が苦しくなるほど本気だったから。その本気さに、私は飲み込まれた。
それから二ヶ月後、祖母は亡くなった。母も暁生さんも悲しんでいたけど、葬儀が終わり、一日たち、二日たち、一週間すれば、普通の生活に戻った。大丈夫なのだと思った。母も暁生さんもそれぞれに生活している。だから大丈夫なのだと思っていた。だけど、私は何も分かっていなかった。
今、目の前にいる二人は、頼りない女の子と男の子に見える。親にとって子どもはいつまでも子ども、と言うけれど、それは子どもにとってもそうで、自分で食べていけるだけのお金を稼げても、一人で生活できても、子どもにとって親はいつまでも親なのだ。親と死別する。それは絶対的な庇護を失うことだ。もう誰も、守ってくれる人はいない。親だからといって、なんでも出来るわけではない。むしろ、出来ないことの方がはるかに多い。まして、年を重ねれば、子どもの方が器用に体を動かせる。だけど、そういうことではなくて、もっと深いところで、最後の砦みたいなものとして、存在している心強さ。それを失ったのだ。母も暁生さんも。
おばあゃん。
私は祈る。
おばあちゃん、私には何もできないよ。
頼まれていたけれど、二人にかける言葉をまったく思いつかない。ただ、静かな二人を、黙って見つめることぐらいしか。
私がバカみたいにただ突っ立っていると、
「おー、終わったのか。急いで駆け付けたんだけど」
場違いな明るい声。父だった。のんきな笑顔を浮かべている。
母と暁生さんは父の登場に半分現実に戻ってきたけど、半分はまだ動けないでいる。そんな二人にかまうことなく、「大変だったんだよ」「飲まず食わずで腹が減った」「今日はきっとビールがうまいはずだ」と一人で話している。返事がないのも気にしない。この微妙な空気にも怯むことない。そして、玄関前に立っている私を見て、
「虹子、なんだ。俺のために水汲んできてくれたのか。喉もからからなんだよ」
と笑った。
「違うよ。これは、消火用のお水なの」
「えー、なんだよ。違うのかよ」
父は残念がった。どうしてこの人はこうなんだろう。だけど不思議と嫌な気持ちにはならなかった。それどころかなんだか父が救世主のようにも感じられて、もしかしてこれはわざとなのだろうか? と思った。父はそんなに気の効くような人には見えないけど。でも、もしそうだとしたら、
「仕方ないな。じゃあ、これ飲んでいいよ。もう一杯汲んでくるから」
コップを渡すと、父は喉を鳴らして水を流し込んだ。まるでビールを飲んでいるように、美味しそうだ。それを見て母も暁生さんも笑っている。私はもう一度お水を汲みに行った。
2010/11/14