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しぐれごこち 16

 
 個展が終わってからは、また静かな日々がはじまった。
 ただ、暁生さんはぼーっとしている(普段からどちらかというとぼーっとしているけど)。ほったらかしにしておくと、ふわふわどこかへいなくなってしまいそうだった。あれほど毎日描いていた絵だって描かない。
「なんだか、すごく疲れた。充実感と虚しさがいっしょくたになってる感じ」
 と、アトリエに近寄ることさえなく、始終ソファに寝っ転がってダラダラしている。
 なんとなくだけど、その気持ちがわかるような気がした。絵を描くことと、描いた絵を人に観てもらうことは別だ。自分で好きに絵を描く。自由に表現する。それは自分自身と向き合う作業だ。だけど、それを人に観てもらうのはコミュニケーションだ。観た人は絵から受けた印象に感銘したり、或いは反発したり、色々思いを巡らせる。絵を通して、会話する。個展の間、非言語のコミュニケーションを絶えず活発にしていたのだと思う。その中には暁生さんの感覚に強く共鳴する人がいただろう。深いところで手を繋ぎ喜びあうような。それは幸運なことで、表現してよかったと感じる瞬間だろうと思われた。それが「充実感」の正体ではないだろうか。そして、同時に、分かってもらえたことで空っぽになる。満足し、何もなくなるのではないだろうか。言いたいことを言って、理解されてしまったら、わかってもらったし、もういいや、という気持ちになる。それが「空虚」に繋がるのではないか。と推測した。そのような経験は滅多に出来ないもので、だからなかなか現実に戻ってこれないのも無理はないなぁと思う。しばらく、ゆっくり休む時間が必要だ。だけど、人は生きている限り、考え、想い、祈る。きっとまた、描き出すだろう。と、素直に信じ切れたので、絵を描かないでいることはさほど心配しなかった。ただ、ご飯を一杯食べさせた。去年、一昨年も、終わった後、ぼーっとなって、祖母は暁生さんの気力を取り戻すために、ご飯をたくさん食べさせたと言っていたのを思い出したから。私もご飯を作って一生懸命食べさせた。
 そして一週間ほど経過すると、ようやく暁生さんは日常を取り戻しつつあった(絵はまだ描かないけど)。
「ここのところ、虹子に家事をまかせっきりだったし、お詫びに映画を見に行こうか」
「いいよ、別に。居候させてもらっているし」
「居候なんて思ってないよ」
 ドキリとした。言い方がつっけんどんに聞こえたから。怒っているとも思える。でも、
「『ヒックとドラゴン』か『トイ・ストーリー』か『借りぐらしのアリエッティ』か『踊る大捜査線』、『魔法使いの弟子』、それから『カラフル』ももうしてるな」
 携帯電話の画面を覗き見る暁生さんは普通だった。たぶん、声が上擦ったとか、そんな感じだったのだろう。温和な話し方をする人が、ちょっと違った声音を出すと、必要以上に冷たく聞こえる。
「なんかアニメが多いね」
「夏休みだからだろうなぁ。どれにする?」
 もう見ることは決定らしい。
「レビュー評価を参照すると、『ヒックとドラゴン』と『トイ・ストーリー』と『カラフル』が高いな」
「うん。こないだパソコン見てたら『トイ・ストーリー』はかなり泣けるって書いてあった。『カラフル』は原作読んだことあるけど、よかった。この作品は暁生さん向きかもしれない。『絵を描く少年』が主人公なんだ」
「僕は立派なおじさんだけどねぇ」
 しみじみ言うので、
「全然説得力ないけどねぇ」
 と私もしみじみ返した。
 そして、結局『ヒックとドラゴン』を観ることにした。決め手は3Dだ。ヒックとドラゴンの空を飛ぶシーンは3Dで見ると爽快だ、とテレビの女子アナウンサーが言っていたのを思い出し、私も暁生さんもまだ3D映画は未経験だったので、どれほどすごいのか見てやろうということになった。
 ネットでチケットを予約する(大変便利)。大まかだけど場所まで指定できる。最後尾を予約する。六時四十分上映のKの十六と十七が取れた。結構真ん中のようだ。いい場所だ。
 四時頃家を出てぶらぶらして、ちょっと早めに夕ご飯を食べて、映画を見る。という計画を立てる。
「どれだけ飛び出してくるんだろうね」
「結構飛び出すっぽい。あのメガネ精密機械らしいから。僕が子どもの頃の3Dはセロハンメガネだったのに、科学の進歩はすごいなぁ」
 期待しすぎてがっかりするのは嫌だから、期待しないでおこうと思ったけど、『精密機械』という言葉に、否応なく期待は高まる。どれほど高性能なのだろうか。今後、映画は3Dになっていくのだろうか。ただし、私はあまり三半規官が強くないので、酔う可能性がある。それが心配だ。
「晩御飯は何食べようか? 和食、中華、洋食」
「うーん……」
「映画館でホットドッグ買って食べるってのもありかな」
「ああ、それいいね。映画館で食べるホットドッグってなんか美味しそうなんだよね。お腹一杯で行っても、隣の人が食べてたら食べたくなる」
「分かる、分かる。あとポップコーン」
「キャラメル味ね」
「僕は塩だな。じゃあ、ハーフ&ハーフにしよう」
 そうやって、映画の期待や夕ご飯何を食べるかを話してのんびりしていると時間はあっという間に過ぎていく。ぼちぼち行く準備しようか、とどちらともなく支度を始めていたら電話が鳴った。それが、ジリと一度鳴って、変な空白の後、ジリリリリリリリっとけたたましく響く、あんまり心臓に良くない鳴り方だった。同じ電話で、同じ呼び出し音なのに、時々、何故だか違って聞こえることがある。そして、こういう嫌な鳴り方の時は嫌な知らせだったりする。
 暁生さんが出て対応する。私はその姿を少し離れた場所から見つめる。
「日下部さんが? はい。……そうですか。わかりました。これからそちらへ向かいます」
 暁生さんは一度した約束を簡単に破る人ではない。余程のことがあったのだろう。受話器を置いて振りかえった顔は蒼白だった。
「大丈夫?」
 大丈夫そうに見えない人に大丈夫と言って大丈夫になるわけではない。それでも「大丈夫?」と言葉をかけるのは何故なのか。自分でもわからなけれど言ってしまう。
「ああ、僕は平気。それより、学校へ行かないといけなくなった。日下部さんって女の子が今朝から行方不明なんだ」
 今朝から行方不明? 小さな子どもならわかるけれど、暁生さんが勤めているのは高校だ。高校生が朝からいなくなっただけで(今はまだ三時過ぎなのに)連絡網が回ってくるなどあるのか。 
「彼女は妊娠してる。まだ、安定期にも入っていないはずだ。何かあったら……」
「もしかして、その人って、暁生さんを父親だって言った人?」
 暁生さんは私の質問に対しては肯定も否定もせず、とにかく行ってくるから、と映画は母と観に行くように言って、
「発券機でこの番号と、僕の携帯番号を入力すれば出てくるから。わからなかったら劇場の人に聞いて。姉さんにもよろしく言っといて。それから、僕は帰りが遅くなるかもしれないし、もしかして一晩空けることになるかもしれないから、今日は家に帰った方がいい」
 一人で留守番ぐらいできるよ、と言い返したかったけど、暁生さんは私の返事を聞く前に慌ただしく出ていった。いつも、どんな時でも、私の言葉を遮ったりしない。じっと待って、聞いてくれるのに。それだけ動揺しているという証拠なのだろうと思われた。心底心配でたまらない感じに、私は奇妙な不快さを感じた。その日下部という女の子に振りまわされ過ぎなのではないか。その子のせいで暁生さんは迷惑かけられた。それなのに、血相を変えて飛んで行くなんて。お人よしすぎる。
――まさか、
 本当の本当は、暁生さんが父親なんてこと……。
 そう勘繰ってしまうほど、暁生さんの態度は奇異に思えた。普通に先生が生徒を心配している、という様子ではない。だけど、
――そんなはずない。
 頭を振って脳裏をかすめた考えを振りはらう。そんなことない。そんなことあるはずない。教え子を妊娠させるような真似するはずが。自分に対しておぞましい嫌悪感が走る。バカだ。最低だ。ちょっとでも疑うなんて。恥ずかしさと後ろめたさと申し訳なさで泣きたくなる。それなのに、情けないことに私の胸騒ぎは鳴りやまなかった。



2010/11/18

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