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しぐれごこち 17

 
 ざわついた気持ちを抱えたまま、助けを求めるように母に電話した。コールを鳴らすとすぐに受話器が上がり、いつもより高い声で「はい、本村です」という声がする。
「もしもし、お母さん。私」
「虹子? ……あんた、泣いてるの?」
 私だと分かると地声に戻ったけど、声音がおかしいことに気づいて焦っているのが分かる。それでほんの少しだけ自分を取り戻す。しゅんっと鼻をすすってから、なるべく普通の声を出してことの経緯を説明する。
「蒼白な顔をして慌てて出て行った。すごく真っ青で、倒れるんじゃないかと思った。あんなに心配するなんておかしいよ。普通じゃなかった」
「普通じゃなかったって……妊娠している子が、何の音沙汰なくいなくなったら、心配するわよ」
「でも、」
「なんだ、びっくりするじゃない。そんな暗い声で電話かけてきて、『暁生さんが……』って切り出すから暁生に何かあったのかと思ったわ。そりゃ、学校の先生なんだから、生徒に何かあったらすっとんでいくでしょうよ。暁生は先生で、自分の教え子を心配しているだけでしょう?」
 あっけらかんと言う。私の不安を打ち消す言葉だが、もやもやは消えていかない。母がちっとも真剣に取り合ってくれていないと感じたから。状況を受け止めて、「違うよ」と訂正されるのと、話をまともに聞くことなく、可能性を考えることなく訂正されるのは違う。
「だって、本当にあんなに慌ててる暁生さん見たことない。もしかして、」
――本当は暁生さんんが父親なんじゃないの?
 さすがにその発想は突飛だと思ったから、言うつもりはなかった。だけど、母の軽さに苛立ちがおさまらず、突きつけてやりたかった。もしそうだったらどうするの? そういうことだってあるかもしれないんだよ? そう思わせるぐらい暁生さんの態度は異様だったんだから、と。だけど、聴こえてきたのは笑い声だった。
「そんなことあるはずない。絶対にないから」
 母は態度を改めなかった。何故そんな「絶対」なんて言えるのだろう。自分の弟がそんなバカな真似をしないと信じているのか。それにしたってもう少し取り合ってくれてもいいのではないか。 
「もういい。馬鹿にして。お母さんに言うんじゃなかった」
「馬鹿になんてしてないわよ。ただ、ありえない話をするから。暁生の身の潔白はちゃんと証明されてるのよ」
「証明されてる?」
「そうよ」
「本当に、本当に、暁生さんが父親なんてことはないの?」
 と念を押すと、
「ない。あんたが心配しているようなことはないから安心しなさい」
 口調は相変わらず軽かった。だけど、と思いなおす。もしも適当にあしらっているのだったら、私の怒りに対して機嫌をとると思われた。これ以上面倒にならないように、ごめんごめんと謝るのではないか。だけど母は謝らない。何も悪いことはしていないし、言っていない。違うとわかりきっていることを、私が疑っているので、笑っている。本当のことを本当だと言っているのに私が怒っているから呆れている。
「そんな話、暁生の前で言うんじゃないわよ?」
 母は駄目押しのように釘を刺す。そんなバカみたいなこと言うんじゃないのよ。笑い話にもならないから。と言われているようだった。自分でも愚かなことを口走った自覚はあったけれど、そんな風に言われると、そこまでおかしなことではないと言いたくなる。だけど、これ以上言うと母は今度は怒りだしそうな気がして、ぶっきらぼうに「わかってるよ」とだけ返した。
 それから何事もなかったように、三十分後に駅で待ち合わせて映画を見に行こう、と言われる。私はまだ出かける気分まで回復していなかったので断ったけど、チケットがもったいないから来なさい、と強い口調で言われて、しぶしぶうなずいて行くことにした。

 乗り気ではないといいつつ、出掛けてみると、映画は面白く、憂鬱な気持ちは一掃された。映画や小説の醍醐味は日常の出来事を忘れさせてくれることだろうなぁ、としみじみと痛感する。
 内容は、運動神経のない男の子ヒックと、幻のドラゴン・トゥースとの友情物語だ。根底にあるテーマは「失うものがあれば、得られるものもある」だと思う。何もかもがうまくいくことなどなく、それでも人生は素晴らしい。と、ラストが印象的だった。
 映画館を出て駅へ向かう道すがら、
「トゥース可愛かったね」
 私が言うと、
「水野美紀のシネマなんとかって紹介番組で『最初は可愛くないけど、徐々に可愛く見えてくる』って言ってたんだけど、最初から可愛く見えたよ。どちらかというと、人間のほうが可愛く見えなかった」
 母はディズニーやピクサーの描く人間がどうも好きではないらしい。昔からだ(ジブリの絵は好きらしい)。それにしてもドラゴンの方が可愛いと言うなんて、私は笑った。
 改札をくぐり、電車を待つ。八時半という時間のせいか、すぐにホームに列車がやってきた。乗車している間も、母はまだ映画について話を続けた。ヒックと父親は血縁関係にあるように見えないし、母親がよっぽど美人だったのよね。とか、ドラゴンのことをペットと表現するのはちょっとひっかかった。これって友情物語じゃないの? 友だちをペットと言っちゃっていいの? と細かいところにぶつぶつ言う。私は作品全体を通して伝わってくるものを味わう、という見方をするので、細部に感想を言う母の視点は面白い(時々難癖つけているようにも感じられるけど)。同じ映画を観ても、受けとめかたは全然違うのだなぁと不思議に思う。
 やがて最寄り駅に着く。改札を抜けて外に出ると、夜の匂いがした。
 私の家と暁生さんの家は駅を挟んで逆方向にある。暁生さんには家に帰るように言われていたし、きっと家に連れて帰られるのだろうなぁ、と思っていた。でも、私の予想に反し、母が暁生さんの携帯電話にかけはじめた。なんだかんだ言いながら気にしているのだと知る。
「今、電話大丈夫? ……そう。……それで、ご飯は食べたの? なら、何か食べるもの用意しといてあげるから。うん。うん、じゃあね」
 電話を切ったのを見計らって、
「なんだって?」
「まだ見つかってないんだって。捜索願を出すにしても、いなくなってまだ一日も経過していないから警察は動いてくれない。学校でじっと待っていても仕方ないし、何事もなく家に帰ってくるかもしれないって、一旦解散となって、戻ってきている途中らしいわ。疲れているだろうから、暁生叔父さんのためにご飯を作って待ってよう」
 意外だった。疲れた暁生さんをそっとしておいた方がいい、と言うのかと思ったから。私の疑問に、
「疲れた時に、家に帰って明かりがついてたら、ほっとするでしょう?」
 母は答える。そういうものかな、と納得する。
 近所のスーパーへ向かう。買い物をしていると九時になる。通常なら父が帰宅する時間だけど、残業で遅くなるらしく、母はのんびりしていた。普段なら、帰りが遅いことに文句を言ったりするのに(それは飲んで帰ってきた場合だけど)、現金だなぁと思うけど、私にとってもありがたいから黙っておく。買い物袋を一つずつ持って夜道を歩く。考えてみれば、母とこうして二人きりで過ごすのは随分久しぶりな気がした。
「もうすぐ夏休みが終わるね」
「宿題は済んだの?」
「読書感想文以外はね」
「あら、偉いじゃない」
「まぁねぇ」
 私の得意げな返事に、母はわしゃわしゃと頭を撫でてきた。もう小さな子どもじゃないんだから、と思ったけど案外心地よくて私は黙って撫でられた。それから、
「夏休みが終わったら、私、家に帰るのよね。いつまで暁生さんの家にいていいの?」
 気になっていたことを告げた。夏休みの間、暁生さんのところで過ごす、ということは、夏休みが終われば家に戻る、ということだ。どのタイミングで家に戻るのだろう。明日から登校日、という日まで居ていいのだろうか。それともそろそろ帰った方がいいのだろうか。
「八月が終わったら帰ってきなさい」
 帰ってくる? ではなく、きなさい、と断定されたことに、私は少しだけほっとする。尋ねられたら私は答えを出せずにいただろうから。暁生さんとの生活は思っていたよりずっと心地よくて、なんだか離れがたい気持ちがあった。ただ、私がそう思っていても、暁生さんがどうかわからない。暁生さんに相談して、いついつ帰ったら? と言われたら邪魔だったのかもと色々考えてしまいそうだったから、母が言いきってくれて安堵した。
「ねぇ、前から聞こうと思ってたんだけど、どうして暁生さんの家で暮らすように言ったの?」
 私は尋ねる。一度も聞いたことはなかった。
「なんとなく、どうかなって思っただけ」
 やっぱりか。母は思いつきで何でも決める。
 私は足元にあった小石を蹴飛ばした。コンコンコンと転がって行く音が鳴る。
「でも、行ってよかったでしょう?」
「まぁ、楽しかったけど。けど、暁生さんはどうかわかんないじゃん。自由気ままな一人暮らしに邪魔が入ったって思ってるかも」
「そんなことないわよ」
 母はやけにハッキリと言い切ったけど、私は「ふーん」と素っ気なく返した。




2010/11/21

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