「ねぇ、誰かいるよ」
夏の夜が明るいといっても、九時を過ぎればある程度暗くなる。また、その影は、門前でじっとしていたから、最初は気付かなかった。だけど、もぞもぞと動いたので驚いた。注意深く見ると人だ。なんだ人か、とほっとして「誰かいる」と言葉にした。だけど、近づくにつれ明瞭になるその人物の背格好に私たちの足は無意識に早まる。肩ぐらいまで伸ばした髪とワンピースを着ている女の子だったから。
どうして暁生さんの家を知っているのだろう。
どうして暁生さんの家にやってくるのだろう。
ああ、無事でよかった。ということより、私の心を占領していたのはそんな問いだった。
「こんばんは」
近すぎず、でも走り去ってしまわれない、絶妙な位置に近寄った母が話しかける。その人は突然現れた親子連れに声を掛けられ戸惑った様子だったけれど、
「杉原先生はもうすぐ帰ってくるから、中で待ってましょう。皆、心配している」
「あ……」
母の説明は必要最低限だった。でも、私たちが暁生さんの関係者であること、自分がいなくなったことで周囲の人を心配させていること、をその人に伝えるには十分だった。更に、
「冷えるといけないから、中に入りましょう」
と、付けたすと、その人ははっとなって自分のお腹に両手をあてて俯いた。それから小さな声で「はい」と短く答えた。
母とその人は一緒に玄関に入っていく。私はその後を追う。先に入った母が玄関の灯りを付けた。明るい場所で、改めてその人を見る。薄いピンクのワンピースを着ている。髪は黒。色は白く、化粧っけはない。瑞々しく清楚というか、どことなく品を感じる。大人びた人だなと思った。
「すみません。お邪魔します」
そう言って、靴を丁寧にそろえて玄関をあがる。きちんとしつけされた人の仕草だった。きっと、いいところのお嬢さんなのだろう。両親はちゃんとした人で、行儀作法を厳しく教えられた。些細な動作から十分伝わってくる。だから私は混乱した。もっとチャラチャラとした女の子を想像していたから。
――この人が?
正直、ピンとこない。妊娠する、ということは、そういう行為をした、ということだ。だけど彼女からはちっともそのような匂いはしなかった。聖母マリアがキリストを受胎したように、彼女もまたそうなのだと言われても信じてしまいそうな雰囲気だ。
居間のソファに座ってもらって、母が暁生さんに連絡を入れる。もう近くまで帰って来ているらしく、お茶を出しながら「あと五分ぐらいで戻ってくるから」と伝え、
「お腹空いてない?」
と言った。その人はびっくりした顔で母を見た。私だって驚いた。食事の心配よりまず聞くべきことが他にあるだろう。だけど、よく考えてみればその人と私たちはあまりにも関係が薄かった。少し事情を知っているからと、根掘り葉掘り聞くべきではないし、わかったようなことを言うべきではない。その点、お腹が空いているかどうかなら、いかなる人にでも適応する。
「今何ヶ月目なの?」
「……四ヶ月です」
「つわりは?」
「あまりないんです」
「そう、じゃあ、普通にご飯食べられるわね。それはいいわ。私はこの子を産んだ時、ものすごく辛くて大変だったのよ」
母は私を見て笑った。その人も小さく笑う。
「ちょうどね、夕飯の買い物をしてきたところなの。仕度するから待ってて。腹が減っては戦はできぬっていうからね」
最後の台詞はちょっと違うのではないだろうか、と思ったけれど、母は本当に台所でご飯の支度を始めた。私はどうすればいいかわからず、居間と台所の中間地点でその人と母をかわるがわる見つめていた。
静かな空間に、シューっと水が流れる音がして、それが止まると、ジャ、ジャとお米を研ぐ音が響く。しばらくしてその音も止むと、
「虹子、これ、お釜にセットして」
母に指示されて手持無沙汰だった私は従った。終わると今度は大根と人参と油揚げを渡されて「これでお味噌汁作って」と言われた。毎朝、朝食にはお味噌汁を作る。夏休みの間、私が欠かさずしていたことだ。お味噌汁作りは慣れてた。だけど、二人とも台所へ入ってしまっていいのだろうか?
「見張ってなくていいの?」
私は小声で言った。衝動的に自殺とかしないだろうか。と内心不安に思っていたから。ほおっておくのは危険ではないだろうか。と。だけど母は「必要ないわ。母は強いのよ。ほら、早く作って」と私をせかした。どう見てもあの人は強そうには見えないけどなぁ、と心配しながら、渡された包丁で人参を切る。そして、ときどきチラっと居間を見る。俯いて大人しく座っている姿を見つめてほっとして、また切る。そうしていると、玄関口から音がする。暁生さんが帰ってきたのだ。「ただいま」も何も言わず、ドタドタと真っ直ぐに居間に進んできて、その人を見つけると、
「日下部さん。今まで何処にいたの? 随分探したんだよ。体は? どこか痛んだりしない? 一体何があったの?」
まくしたてるように言った。普段、のんびりしている分、その姿に殊更違和を感じた。そんな風に勢いづかれては、相手を委縮させることぐらいわかりそうなのに。動揺して、自分の感情をコントロール出来ないのだろうと思われた。それほど、心配している。
私は母を見た。冷蔵庫からお茶を取り出しコップへ次いでいる。それを持って暁生さんの傍によって、
「暁生。落ち着きなさい」
「ああ、姉さん」
ようやく、私たち(というか、母)の存在に気づいて、コップを受け取ると一息に飲み干す。その間、その人――日下部さんは黙ったままだ。母は暁生さんが飲みほしたコップを受け取ると何も言わずに台所へ戻って来てまた料理を始めた。暁生さんは大きく肩で息を吸って、日下部さんの前に座った。それから改めて、
「ご両親には連絡してあるから」
「御迷惑をおかけしてすみません」
「それはいいんだ。そんなことは。僕は君を責めているわけではない。それよりどうして黙って家を出たりしたの? 心配する。何かあった?」
聞いてはいけないのだろうけれど、二人の会話に耳をそばだててしまう。そんな私に母が、
「手を動かしなさい。手伝わないなら、二階に上がってなさい」
と告げた。料理なんてしている場合ではない、あっちの状況がどうなってるかの方が重要だ、と思ったけれど、手伝わないなら本気で私は二階に追いやられるだろう。途中だった人参を短冊切りにする。母は卵焼きを焼いていた。
「昨日。彼の家のご両親が来たんです……それで、中絶するように何度も頼まれました」
人参が終わったので次は大根だ。皮むきローラーでまず皮をむく。年季が入ったローラーは端の方が錆びていて切れ味が鈍く、ところどころつっかえる。
「私の将来のためにそうした方がいい。と繰り返し言われて。子どもを産んで育てる。それがどれほど大変なことか。私が考えている以上にずっと厳しいもので、悔やむことがあるかもしれない。そうなっては生まれてくる子も可哀相だ。今は医療技術も発達しているし、体の負担を考えれば早いうちに決断した方がいい。費用はすべて負担するので、中絶してほしいと、」
皮を剥き終わると、次は満月切りにしていく。なるべく同じ厚みになるように丁寧に切っていく。
「彼のご両親に説得を受けている間、私の両親は何も言いませんでした。面と向かっては言わないけど、きっと彼の両親と同じ意見なんだと思います」
「彼は?」
「……会ってません。彼はいま大学受験の大事な時だから、刺激しないようにと彼の両親に連絡しないようにお願いされてます」
満月切りが終わったので、今度はそれを重ねて短冊切りをしていく。最初はいいけれど、端に行くと滑って手を切りそうになるから注意が必要だ。
「だけど私は決断出来なくて、」
最後に油揚げを切る。手に油がついてぬるぬるする。終わると、材料を切っている間に昆布とかつお節で作っておいた白出汁に、大根と人参を入れて煮立たせる。頑張って薄めに切ったので十分程度で柔らかくなる。そこに揚げを入れてお味噌をとかす。ぐるぐると菜箸でとかしきる。完成だ。隣を見ると、母が鮭と卵焼きとノリと炊きたてのご飯を二人分、お盆に乗せて運ぼうとしていた。私も食器棚からお客さん用のお椀と暁生さんのお椀を出す。お客さん用のお椀に先にお味噌汁をついでいると、
「先生。私とこの子を育ててくれませんか。血のつながりはなくても、一緒に育てれば、それは家族でしょう? そしたら、先生にも家族が出来る」
静かだった空間に、思い出したように声が響いた。だけど、それはとんでもない台詞だった。何故日下部さんの子どもを何の関係もない暁生さんが育てなければならないのか。意味がわからない。暁生さんは当然「そんなこと出来ないよ」とすぐさま言うと思った。だけど、何も聞こえてこない。それまでも暁生さんは黙り込んだままだったけど、それはかける言葉を見つけられないからだと思っていた。でも、今は違う。否定する言葉を言うべきだ。なのに相変わらず黙ったままだ。どうして? 何故無理だと言わないの? 私は不安になった。何が起きているのか。居間を覗く。日下部さんが真剣な眼差しで暁生さんを見つめている。彼女が冗談ではなく本気で願っているのだと知る。そして、暁生さんは、
「暁生」
声がした。母だった。それまで黙って料理の支度をし、二人のことには無関心なのかとさえ思えていたのに、ずけずけと微妙な空間に入って行く。
「夕飯、出来たから、食べなさい」
二人の前に、作った料理を並べていく。それから「虹子、お味噌汁まだ?」と呼ばれたので私は慌てて持っていく。母の傍に立ち渡すと、私の代わりに二人の前に配膳してくれた。終わったので台所へ戻るけれど、母はそこから動かない。私だけ一人、部外者みたいに台所から居間を覗き見る。
――どうなるんだろう。
重たい空気を破ったのは、やはり母だった。
「世の中には、血が繋がらなくても親子として素晴らしい関係を築ける人たちはいるわ。でもね、あなたたちは違う。逃げているだけでしょう。子どもを育てるって現実よ。絶対に逃げられない。何があってもね。今、現実から逃げようとしているあなたたちが一緒になってうまくいくはずない。私の目の黒いうちはそんなこと絶対させません」
淡々と言った。怒っても呆れてもいない。心の底から本当のことを言っている人の声だ。そして、こういう言葉は届く。真っ直ぐ心に。痛みと苦さをもって。暁生さんも日下部さんも俯いていた。
「さ、冷めないうちに食べなさい。食べたら家まで送って行くから」
母はやはり淡々と、だけど少しだけ優しい声で言った。
2010/11/22