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しぐれごこち 19

 
 暁生さんと日下部さんは母と私が作った料理を黙々と食べた。
「ちゃんと食べなきゃだめよ。どんな時でも、ご飯は食べなきゃダメ」
 母はいつもの口癖を言って聞かせ、二人はそれを素直に聞き入れて、全部平らげた。こういうところが母のすごいところだと思う。台所に逃げ帰って、ただ眺めていることしか出来ない私とは全然違う。
 食べ終わると、今度は
「お家の人が心配しているだろうし、帰りましょう。あなたはあなたの現実と向き合って、戦わないといけない」
 母の言う言葉は厳しいものだった。だけど、日下部さんは頷いて「ご迷惑おかけしました」と頭を下げた。それから、暁生さんの車に、母と日下部さんが乗り、日下部さんを送って、母を送って、暁生さんが戻ってくる。という道順で出かけて行った。その間、私は家で留守番をする。
 誰もいなくなった家は静まり返っていた。ふーっと息を吐く。自分が緊張していたのだと知る。私では太刀打ちできない現実を傍で垣間見て、ただ固まっていた。そのことを情けなく思う。それから、せめて出来ることをしようと、食事の後片づけに取り掛かる。
 綺麗に食べ終えられた食器を洗うのは気分がいい。いつもなら。でも今日は違った。少しずつ働き始めた感情と頭が、これまで味わったことのない何かを突きつけ始めていた。先程から少しずつ私の体を蝕み浸食していたけれど、静かな部屋に響く水の音に煽られるようにして、今、強く込み上げてきている。
『もし、お母さんがいなければ、どうなっていたのだろう?』
 日下部さんのお腹の子が暁生さんの子どもではないことは本当だった。でも、
――暁生さんは、ひょっとして日下部さんを好きなのではないだろうか。
 日下部さんのとんでもない提案に、うなずきかけていた。あれは、日下部さんを好きだから。好きな女の子が困っている。なんとかしてあげたい。そういうことではないのか。だとしたら、全て辻褄が合う気がした。
 そして、思い出されたのは暁生さんの部屋にあった求人広告雑誌だ。もしかして、暁生さんは、日下部さんが言いださなくても、自分からそう切り出すつもりだったのではないか。彼女のために学校をやめて、問題にならない身になって、彼女と一緒になろうと考えていた?
 もしそうだったとして、暁生さんの人生だ。暁生さんが決めたことなら応援するべきだ。と、賢い私は言う。だけど、気持ちがついていかなかった。
 ばっかじゃないの―― 心の真ん中に出来た大きな淀みからそんな声が聞こえてくる。三十八の男が、十七の女の子を好きになり、仕事を辞めて、その身を捧げる? なんだそれ。今どきそんなのドラマだって流行らない。利用されているだけ。いいように扱われているのだ。そのような愚かな人だったのか。
 そんな風に思ってはいけない。恋愛は自由だ。年の差カップルなどいくらでもいるではないか。何度も何度もそう思った。生まれた激情を鎮めようと、最もな正論を唱えた。だけど、無理だった。
 洗い終えた食器を片っ端から投げつけたい衝動にかられる。粉々に壊してしまいたい。その気持ちを、わずかに残っている理性が思いとどめる。そんなことをしても意味はない。と、ギリギリのところで堪えて、代わりにソファに行ってクッションで顔を押さえこんで叫んでみる。叫べば叫ぶほど、苛立ちは募る。
 何がこれほどショックなのだろう。どうしてこんなに悲しいのだろう。よくわからない。自分でもよくわからなかった。だけど、もうここにはいたくない。母には八月が終わったら戻っておいでと言われていたけれど、明日帰ろう。もう日付は変わっている。あと数時間の辛抱だ。そして二度とここには来ない。暁生さんとは関わらない。それでいい。きっと、それで解決するはずだ。 
 私は部屋に戻ろうと立ち上がった。だけど、
「ただいま」
 タイミング悪く暁生さんが戻ってきた。もういつもの、私が大好きだった暁生さんの顔をしていて、
「ああ、虹子。今日はごめんね」
「何が?」
 自分でも驚くほど素っ気ない声が出た。
「映画、一緒に行けなくて。面白かった?」
「別に」
 嫌な態度をとってはいけないと思うほど、激情が込み上げてくる。だけど暁生さんは
「そっか。じゃあ、今度は、もっと面白い映画を見に行こう」
 そう言ってへらっと笑った。私はカッとなる。暁生さんが、私の機嫌をとっているからだ。どうして私の機嫌をとるのか。何も悪いことなどしていないなら、私のこんな態度に毅然としてつき離せばいい。やましいことがあるから、そうやって機嫌をとるのだ。私はもう我慢できなくなって、
「暁生さんは、あの人のことが好きなの?」
 私の言葉に、暁生さんは固まった。違うと言ってくれることを期待していたのに。
「暁生さんは、あの人のことが好きなんでしょう? だからあの人に一緒に子どもを育てて欲しいって言われて、否定しなかったんでしょう? お母さんがいなかったらうなずいていたんじゃないの?」
 半ばやけになってまくしたてた。何もかもぶち壊す。これ以上言ったら、全部が壊れる。と、思ったけれど、一層壊してしまいたかった。すべて、跡形もなく。だから私は言ってやった。
「いい年して馬鹿じゃないの。みっともないと思わないの?」
 暁生さんの目にくっきりと悲しみの色が浮かんだ。私は何をしているのだろう。こんなこと言って何になるのだろう。そう、思うけど、止まらない。
「十七の女の子を好きになるなんて、どうかしてる」
「違うよ」
 暁生さんはようやく否定した。だけど、その声は弱々しく、辛そうに見えた。そんな顔で否定されたってちっとも信じられない。
「嘘ばっかり。暁生さんの部屋にあった求人広告の雑誌。あれもあの人のためなんでしょう? 仕事を辞めて、教師じゃなくなれば、一緒になれるもんね。だから新しい職を探してたんじゃないの?」
 声が震えていた。悲しい、というより、悔しい。何が、とか、どうして、とか、何一つ説明できないけれど。そんな私に、暁生さんも泣きそうな顔をしていた。私はきっと暁生さんを傷つけているのだ。私も傷ついているけれど、同時に、暁生さんを傷つけている。そのことが更に悲しくさせる。だけどどうしようもなかたった。持て余した感情を、八つ当たりみたいにぶつけるしか。
「何か勘違いさせてしまったのなら謝る。だけど僕は虹子が考えているような感情を日下部さんに持っているわけじゃないよ」
「嘘だ。じゃあ、どうしてあの時すぐに否定しなかったの。あんな突拍子のない話。普通『そんなこと出来ない』って言うはずだ。でも黙ってた。迷ったからでしょう?」
「……確かに、僕はあの時迷っていた」
「ほらやっぱり。やっぱりそうじゃない。あの人のことが好きだからでしょう、だから、」
「違う!」
 大きな声。聞いたことがないほど激しく強い。私の体は揺れた。暁生さんに声を荒げられたのは初めてだった。それだけ暁生さんを追い詰め怒らせるようなことを言っている。涙が滲んで視界がぼやける。瞬きをすると一瞬だけ明瞭になるけれど、すぐにまたぼやける。歪んでぼんやり見える姿から、それでも視線だけは外さなかった。怯んでは負けだと思った。
「ごめん。大きな声を出して。でも、本当に違うから」
 暁生さんは大きなため息を吐いた。深い深いため息だ。聞き分けのない子どもに手を焼いて困り果てているように見える。それが私を苛立たせる。
「僕が迷っていたのは、けして彼女を好きだからじゃないんだ。それは本当だ」
「じゃあ、どうして迷っていたの?」
「それは……」
 暁生さんは言いかけて言葉を飲み込む。私は次の言葉を待った。だけど、暁生さんは、なかなか話しださない。重たい沈黙だ。暁生さんはおしゃべりな人ではないから、二人でいる時、お互いに黙っていることの方が多く、静かな時間が続く。それは優しく心地良く、私を安心させる時間だった。でも今は違う。静寂は不気味さを漂わせ、私の体を切り裂くように感じられた。けれど、今、私が何か先に言葉を発すれば、きっと永遠に、暁生さんは言葉を飲み込むだろう。何故だかそう思えて、私はひたすらに待った。そして、ようやく、覚悟を決めたように暁生さんが口を開く。
「僕は、子どもが作れない体なんだ」
 暁生さんは笑っていた。力なく。
「無精子病といって、子種がない。僕は自分の子どもを持つことはないんだ」
 私はただ、暁生さんがあの人を好きではないとわかればよかった。そんなことないよと笑い飛ばして安心させてほしかった。だけど思うようにならず、話はとんでもない方向へ進もうとしている。私の心臓は急激に速まっていく。
「僕が十四歳の時だった。下半身に強い痛みを感じたんだ。だけどそのことを母さんに言うことを躊躇った。恥ずかしくて。父さんが生きてくれていたら言っていたかもしれない。でも、母さんには、どうしても言えなくて。最初はじっと耐えていたんだ。でも、痛みは全然引かなくて、それどころか激痛を伴いようになり、変色しはじめて、もう恥ずかしいなんて言っていられなくなった。睾丸炎を患っていた。その後、病気は完治したけれど、病院に行くのが遅すぎた。精子を作る機能が失われていた。『無精子病です』と医師に言われた時、何のことかよくわからなかった。けど時間が経過すると、少しずつ理解し始めて。冬の朝だった。寒さで目が覚めて、ふっと、思ったんだ。
 ああ、僕は子どもをもつことはないのか。
 そしたら、体中の力が抜けた。何かもう全てがどうでも良く思えてきた。そんな風に感じるなんて大袈裟だ。子どもがいない人なんていくらでもいる。それに正常な精子を持っていても、子どもを残さない人だっている。別にどうってことない。自分に言い聞かせた。だけど、そういうことじゃなかった。理屈ではないんだ。子孫繁栄。それは生命の最大にして根本の願いだ。自然界でもそうだろう? オスは多くのメスに自分の子を産ませようとする。メスもまた優秀なオスの子を産もうとする。種を次へつなげていくために。大きな流れだ。だけど僕はその生命のサイクルから弾かれてしまったんだ。何も残せず、誰とも繋がれず、たった一人ほおりだされてしまった気がした。
 ちょうどその頃、絵を描き始めた。絵を描いている間は、何もかも忘れていられた。悲しい現実から目を背けていられた。描いて描いて描いて。無意識に、何かを残そうとしていたのかな。当時はそんなつもりは全然なかったけどね。やがて僕は美術の先生になった。このままこうして、好きな絵を描いて、教えて、そして死んでいくんだろう。って。
 そう思っていたら、突然、日下部さんがお腹の子を僕の子どもだと言ったんだ。彼女も切羽詰まっていたんだろう。両親からは相手の名前を言うように詰め寄られ、だけど、相手には黙っていろと強く言われてて、咄嗟に思いついたのが僕の名前だったそうだ。何故? って思ったよ。よりによってどうして僕なんだろう。皮肉だなぁと。そんなこと絶対にあるはずないのに。そして、僕は、自分の身の潔白を証明するためにみんなの前で『僕は、子どもの頃、睾丸炎を患い、無精子病になったので、子種がありません。彼女を妊娠させることは不可能です』と口にした。言った瞬間に、ドンっと腹のあたりに重たい衝撃がきた。もう大丈夫だと思っていたのに、全然大丈夫じゃなくて。やっぱり僕は一人ぽっちで、世界から爪弾きにされているのだと思った。そしたら、もう、ここにはいられない気がして。いや、別に、誰かに何かを言われたわけではないんだよ。だけど僕自身が。……要するに逃げ出したくなったんだ。それであの求人広告雑誌を買ってきた。誰も僕のことを知らないところへ行こうと。そんなことしたって、何一つ変わらないのに。
 でも、こんなことじゃいけないって。ちゃんと前を向いて生きないと。こだわり続けても事実が覆ることはないんだから。そう思って。そしたら今度は、彼女から、父親になってほしい。家族になろうと言われて、心が揺らいだ。血の繋がりはなくても、自分の子として育てる。神様が僕にくれたチャンスなのかもしれない。それで彼女も楽になって、僕も楽になれる。幸せな家族を作ればいいんじゃないか。だけど姉さんに『逃げた二人が一緒になって上手くいくはずない』って言われてはっとなった。そうだ、僕たちがやろうとしていることは、ちっとも現実的じゃない。地に足のつかない夢物語だ。そんな幻想で幸せを感じられるはずがないんだ。馬鹿だよねぇ」
 静かな声で、時々詰まりながら、慎重に、言葉にした。そして、最後に、
「僕がいつまでもふらふらして。それで虹子まで傷つけてしまった。本当に情けない。ごめん」
 と口にした後、もう遅いし寝よう、と言って、そのまま部屋に戻った。私は何も言えなくて、暁生さんの気配がなくなっても、しばらく突っ立っていた。
 どれぐらいそうしていただろうか。
 ふと我に返り部屋に戻る。階段を上がりきると、まず暁生さんの部屋がある。そこを足早に通り過ぎて自分の部屋に入る。ベッドに腰掛けると、暁生さんの部屋と私の部屋を仕切っている壁が正面に見える。
 『なんだ、そっか。暁生さんは、あの人を好きじゃなかったのか』
 懸念していたことは違った。そのことを確かめるために、壊したものなど知らない。滴り落ちる涙が止まらなくても。ぐしゃりと心は潰れていても。知らない。考えない。布団をひっかぶり、キツく目を閉じる。ギュッと強く。朝になっても、二度と開かなくていい。もうどうなってもいい。そう自分を呪いながら眠りに落ちてしまうのを待った。




2010/11/23
2010/12/1 加筆修正

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