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しぐれごこち 20

 
 小学校の時だった。グループに分かれて新聞を作る。授業時間だけでは間に合わなくて、放課後も残って作る。すると、隣のグループで喧嘩が始まった。喧嘩といっても、言い争いというのではなく、大島くんという男の子を他のメンバーが一方的に責め立てていた。
「いっつも用事があるって先に帰るなんておかしい」
「そうよ。さぼってるんじゃないの」
 特に宮本さんと名田さんという女の子二人が矢継ぎ早に詰め寄っている。
 男子は協力的ではない。いつも先に帰る。それは今回の新聞作りに関してだけではなく、過去のグループ学習の時にも起きていた。注意しても聞いてもらえない。期限までに仕上がらなかったらマズいという不安はないのか。それとも女子がしてくれると思っているのか。勝手だなぁ、と思う。男子の担当分はほおっておこうか、と話すけれど、そんなこと先生には通用しない。叱られるのが怖くて、結局、男子の分もする羽目になる。それが、いよいよ爆発したのかと思われた。
 ただ、その相手が大島くんであることに私は驚いていた。大島くんとは、以前、同じグループになったことがあるけれど、一緒に放課後残ってくれる、数少ない真面目な男子だったから(そのことを他の男子は馬鹿にしている)。
「本当に用事があるんだよ」
 大島くんは小さな声で、絞り出すように言った。
「用事って何? 毎日ある用事って何なの?」
 宮本さんが厳しい口調で言う。大島くんは俯いた。
「言えないのは嘘だからでしょう!」
「サボるだけじゃなく、嘘までつくなんて、サイテー」
 容赦なく責め立てる言葉に体は冷えていく。私に向けられた感情ではないのに、ぐさぐさと心臓を突き刺す。ここから逃げ出したいと思った。見ていたくないし、聞いていたくない。どこか遠くへ逃げ出したかった。それなのに体が動かない。
 大島くんは黙ったまま、責められ続けていた。だけど、
「お母さんが入院してるんだ」
 さっきよりもずっと小さな声だったのに、教室の隅から隅まで響き渡るように感じられる。言葉にも質量がある。発する大きさに関係なく、強い衝撃をもたらす。
「もうすぐ手術があって、」
 真実を口にした大島くんに、それまで冷淡な態度を向けていた宮本さんと名田さんは黙った。大島くんは泣いていた。唇を噛んで、むせび泣いていた。そこへ、先生がやって来て顛末を聞きだした。説明したのは宮本さんだ。新聞作りを手伝ってくれない。言っても用事があると帰ってしまう。毎日毎日用事があるなんて変だと思った。用事というのは何なのか。本当なのか。聞きだした。それで、大島くんのお母さんが入院していることを知った。大島くんには妹がいる。早く帰って面倒を見なければならない。用事が嘘ではないと分かった。
「それなら、早く言ってくれればよかったのに。ちゃんと理由があるなら、納得してました」
 宮本さんの言うことは最もだと思った。私は不思議だったのだ。どうしてちゃんとした理由があるのに、大島くんはなかなか言わなかったのか。言えば、みんな納得するし、そしたら堂々と家に帰れるではないか。それでも居残って新聞を作れ、なんて言われなかったと思う。だけど、
「本当のことでも、言いたくないことがあるんだよ」
 先生は静かな声で言った。私はその言葉が意味するところがよくわからなかった。だけど、有無を言わさない強さがあった。おそらく、宮本さんも、名田さんも、そこにいた子たち全員が感じただろう。そして、大島くんは帰宅を許されて教室を出て行った。
 その日、家に帰って、放課後の出来事を母に話した。すると母も先生と同じようなことを言った。「知らない振りをしてあげるのがいいこともあるのよ」と。
「それじゃあ、もし嘘ついてたら?」
 用事があるという言葉をそのまま鵜呑みにしたけど、本当はサボってただけ、という可能性だってある。知らない振りをして騙され続けるなんて馬鹿みたいだ。と。私の疑問に母は、
「嘘をついていなかったら? 今日みたいなことが起きるよ」
 と聞き返してきた。
「その子は『用事がある』と言っていたんでしょう? それを信じないで、追い詰めて、最後まで聞きだしてしまった。『お母さんが入院している』って知って、あんたたちは納得したでしょうよ。でも、その子はそのことを言いたくなかったから『用事がある』ってぼやかしていたのよ。きっとその子は不安だったんだと思う。母親が入院している。色々考えるよね。もしかして死んじゃうんじゃないかとかね。そうやって不安に思ってることをぺらぺら人に話したくないはずだよ。言えばよかったのに、なんて当事者じゃないから思うだけ。相手を傷つけてまで、自分が納得したい? 言いたくないことを、聞かないでいてあげられる能力は、とても大事なのよ」
 そうか。なんでも言って、何でも話して、というのがいいことではないのか。言葉にするだけで、傷ついてしまう事実、というのが存在するのか。そんなこと考えたこともなかった。私自身が、そのような事実を持っていないから、思ってもみない。でも、そういうことがあるのか。
「まぁでも、相手に寄るけどねぇ。だから日頃の行いが大事なのよ。いつも真面目な人が、何かを誤魔化しているときは、そのまま黙っていてあげる。いつも適当な人には、時にちゃんと話すことも必要。出来事や行動だけじゃなく、それをしている人がどういう人なのかを見極めるのも大事よ。臨機応変でないとね」
「難しいねぇ」
「そうよ。人間関係は一筋縄じゃいかないんだから」
 母の言葉に、私は「そうかー」とうなずいた。母は笑った。私があまりにもしみじみうなずいたので、面白いと笑っていた。

――夢。
 夢というか、過去の記憶だった。何故今、この記憶が呼び起こされるのか。頭の中で古い記憶と昨日の記憶を吟味して、似ているものを引っ張り出して、経験から解決策を見つけ出そうとしているのか。だけど、解決の糸口は見つからない。あの時は、私は加害者でも被害者でもなく傍観者で、そういうこともあるのかぁ、と思っていただけだ。
 それから、大島くんはどうなったんだっけ? 
 翌日、登校して来て、どんな態度だっけ? 
 そしてそれに対して、宮本さんや名田さんはどう接していたんだっけ? 
 最も知りたいところはぽっかりと欠落していた。苦々しさが増していく感覚に涙が出そうだ。 
 知らなかったことを知る。それはいいこととは限らない。知ることで損なわれるものがある。手に入れられるものばかりを見て、無頓着になりがちだけど、知ることで失うものがある。私はそのことを随分前に教えてもらっていたのに。どうしてそんな大事なことを忘れていたのだろう。
 デジタル時計は見ると八時三分を指している。
 遅くに眠っても、時間になると起きようとするのか。でも体は重だるい。眠りも浅かったし、時間も短いから仕方ないけれど。でも、これ以上眠る気にはならないし(眠れる気もしない)起き上がる。
 気持ちは案外落ち着いていた。寝ている間に、潜在意識とかいうのが問題を整理してくれて、目覚めたときには爽快になる。と本で読んだことがある。これがそういうことなのかと思われた。だけど、はたと思い直す。考えてみれば当然ではないか。昨夜、興奮して感情的にはなっていたけれど、私が受けたダメージなどほとんどない。傷ついたのは暁生さんの方だ。私が被害者面して悲しんでいるなんて厚かましい。
 両手で顔を擦ると腫れぼったい。泣いた上に、俯いて眠ってしまったのだ原因だろう。
 隣の部屋に続く壁を見つめる。それから扉に視線を移し、ベッドを降りて部屋を出る。なるべく何も考えないように体だけをロボットみたいに器用に動かして階段を下りて居間へ向かう。古い家だ。歩くとギシッギシッと軋む音が響くけれど、それが異様に大きく聞こえた。ひやひやしながら階段を降りきり、廊下を通り居間に着く。静まり返り夏だというのにひんやりしているように感じられた。
 居間の中央に置かれているソファまで歩いていって寝そべる。天井が見えた。木目の独特の模様。いつも過ごしている場所なのに、なんだか知らないものを見ているようだった。ほんの少し見方を変えるだけで、違った景色になる。私が信じていたものなど、危うい奇跡によって保たれていて、ともすればすぐに壊れてしまうのだと言われているみたいだった。
 そうしていると流れ始めるのは暁生さんの言葉だ。
『僕は生命のサイクルから弾かれてしまったんだ。何も残せず、誰とも繋がれず、たった一人ほおりだされてしまった気がした』
『言った瞬間に、ドンっと腹のあたりに重たい衝撃がきた。もう大丈夫だと思っていたのに、全然大丈夫じゃなくて。やっぱり僕は一人ぽっちで、世界から爪弾きにされているのだと思った』
 ああ、この人は、こんなにも孤独な人だったのか。と思った。
 世界との繋がりを感じる。それはとても難しいことだ。普通に生きていても難しい。私もうまく感じられない。だけど、きっと私の心が未熟なだけで、いつか、それを感じ取れるようになれる。と、どこか楽観していた。それは繋がっていると感じられないけれど、繋がっていないと感じることもないからだと思う。そして多くの人がそういう曖昧さで生きているのではないか。と、私は感じていた。
 でも、暁生さんは違う。
 「子どもを持てない」という事実を知った時、「世界と繋がっていない感覚」を味わったのだ。それは決定的なものだったに違いない。どこにも掴まれず、投げ出された。私の感じている孤独なんて足元にも及ばないような、ずっとずっと遠くへ弾かれた。そして未だにそこから戻ってこれずにいる。
 真実を口にした暁生さんの頼りない笑顔を思い出す。
 チラリと傍にあるテーブルを見る。テレビのリモコンが見える。手にとって電源スイッチを押す。アナウンサーやタレントが爽やかに微笑んでいる。チャンネルを変えても、どの局も、朝を始めている。私はまだ夜から抜け出せずにいるというのに、嘘みたいに朗らかな顔をして。電源ボタンを切る。静寂が訪れる。
 ソファから起き上がり、台所へ向かう。
 数時間前に洗って水切りかごに置いた食器。まだ少しだけ濡れているように感じられたので布巾で拭って食器棚に戻す。
 綺麗に片付いた台所を前に大きく息を吐く。
 手持ち鍋の蓋をあける。大根と人参と油揚げのお味噌汁。私が作ったものだ。ここにきてから、毎朝作る。正確には二日に一回だ。一日目はそのまま、二日目は卵を落として食べる。私はこのお味噌汁を食べてはいないけど、卵をいれようと思った。それから冷蔵庫に貼ってあるカレンダーを確認する。二十九日。月曜日だ。月水金はトーストとハムエッグと決めてあった(トーストでもお味噌汁だ)けど、お釜の蓋をあける。母が焚いてくれたものだ。そこそこの量が残っている。おにぎりを作るにはちょうどいい。今朝は、変則だけど、お味噌汁とおにぎりと卵焼きにしよう。そうしよう。そうしよう。と誰もいないのに口にして、待っていても空けそうにない私の夜を終わらせるためにも、朝食を作り始める。




2010/12/3

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