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しぐれごこち 22

 
 一体何がどうなっているのだろう。
 静まりきった夜を進んで行く。深夜、遅い時間だ。貸し切り状態の道路をぐんぐん進む。暁生さんの運転する車の助手席で流れ去る風景を見つめながら、私は困惑していた。状況の転換についていけない。
 それはほんの数十分前のことだった。
「虹子。起きて」
 と私を呼ぶ声とドアのノックで目が覚める。私はベッドで横になっていた。両膝は抱え込んだまま、赤ん坊が母親の胎内で丸まっているみたいなポーズだ。そのような不自然な格好で眠りこんでいたらしい。
「虹子、入るよ」
 返事をしない私に、業を煮やしたのか、声の主は部屋に入ってくる。暁生さんだ。こんな風に許可なく私の部屋に押し入ってくるなど初めてで、私は少なからず動揺する。
「ああ、なんだ、起きていたのか」
 暁生さんはそんなことお構いなしに、いきなり「ドライブに行こう」と言い出した。
「ドライブ?」
 時計を見る。深夜二時前。こんな夜遅くにドライブ? というか、そんなのんきにドライブに行くような状況だったろうか? 私はまだ覚醒しきっていない頭でぼんやりと状況を振り返る。
 結局、夕方、暁生さんが戻ってからも、私は話をすることが出来なかった。言おうと思えば思うほど、体が固まる。言いかけてはやめて、そわそわする。明らかに不自然だったと思う。そんな私を気遣うように、
「そういえばさ、二十四時間テレビの募金、今年はいくら集まったんだろうね」
 とか
「明日は今年一番の夏日になるって」
 と、当たり障りのない話題を暁生さんが話してくれるけど、「うん」とか「そうか」と返すのが精いっぱいだった。
 それから、夕食の後、暁生さんは久しぶりに「絵を描く」と言った。それは「いつもの日常に帰る合図」のようにも感じられ、私もまたこれまでのように暁生さんが作品をつくる姿を、後ろから見つめたらいいのだと思った。だけど、私の口から出たのは「じゃあ、私は部屋に戻る」という言葉だ。何故、そのようなことを言ったのか、自分でもよくわからない。ただ、暁生さんはそれに対して「そうか。おやすみ」としか言わず、私も「うん」と答えて、部屋に戻った。
 一人きりになると、自分の不甲斐なさにたまらなくなった。ベッドの上で体を小さくして三角座りをし、膝に両目を押し潰すようにくっつけると涙が滲む。抱え込んだ膝を更にぐっと胸元に引き寄せて自分の体を抱きしめる。そうしているうちに、 横になって眠ってしまったのだろう。そのまま朝を迎えるはずだった。ところが、暁生さんに起こされ、「ドライブに行こう」と言われた。
 こんな真夜中に、眠っている私を起こしてまで、ドライブに行こうとするなんて、普段の暁生さんらしくないように思われたし、また、予想もしなかった展開に、私はひたすら混乱する。だけど、暁生さんはいつになく強引に思えるような俊敏さで私を連れ出し、助手席に座らせた。よく見ると暁生さんは家着のままだ。外出するときは必ず着替える(絵具がいっぱいついているのでみっともないから)のに。暁生さんも思いつきで、勢いに任せて行動している、ということだろうか。
「よし、出発」
 と元気に暁生さんが言い、エンジン音が鳴る。私はこれこそが夢なのかもしれないと疑って、こっそり頬を抓ってみるが、何も起きない。車は先へ先へ進んで行く。
 チラリと暁生さんを見る。私の視線に気付いているはずだけど、何も言わず運転に集中している。私は視線を窓の外へ戻す。
 一体何がどうなっているのだろう。もう一度、私は心の中で呟く。なんだか昨日から私の予想しないことばかりが起きている。現状を支配する権利は私にはない。自分の思う通りにならないのは、自分以外の存在がいるということを強く意識させる。私にも私の想いがあるように、暁生さんにも暁生さんの想いがある。そしてそのために、私をドライブに連れ出したのだろう。
 車内に流れる音楽はサザンオールスターズだ。暁生さんが最も好きなミュージシャンは山下達郎なのだけれど、私が知らないと言うと「サザンなら知ってるだろう?」と言って、以来、暁生さんの車のBGMはサザンになっている。特徴的な歌声が、心地よく耳に届く。音楽は人を慰めると言うけれど、本当だなぁと感じられた。

 四十分程度走ると橋が見えてくる。渡って一キロぐらい走ると暁生さんが個展をしたモールがあり、その先には杉原のお墓がある。もしかして夜中にお墓参りにでも行くのか。私の心拍数はあがる。けれど、暁生さんは橋には上がらず、その下を真っ直ぐ進む。だけど道は行き止まりだった。Uの字になった道なりを進み反対車線に入る。それから五メートル程度走らせて車を橋の真下に止めた。
 暁生さんは車を降りるので、私も慌てて着いていく。
「こんなところに車止めていいの? 駐禁とられたりしないの?」
 不安になって言うと、
「だって、この辺、パーキングないしねぇ。今の時間なら大丈夫だよ」
 車道から歩道に出る。少し歩くと、浜辺がある。海だ。私たちが歩くコンクリートの道は防波堤に繋がっている。進むごとに海の匂いが濃くなっていく。磯の香りは奇妙に懐かしく感じられた。
「次は、洋介の妹ぉ」
 割り込んできた大声にびっくりする。砂浜に集団がいたのは知っていたけれど、こんな夜更けに集まるなんて、暴走族の集会なのかもと怪しんでいた。見ていて絡まれるのが怖くて、知らないふりをしていたのに、叫ぶ声に思わず視線を注ぐ。
「なんかねるとんっぽいことしてるねぇ」
「ねるとん?」
 何それ、と私が尋ねると
「コンパみたいなもんだよ」
 と説明してくれた後で「虹子はねるとん知らないのか。そうだよなぁ、生まれてなかったもんなぁ、ジェネレーションギャップだなぁ」とぶつぶつ言った。
 それにしても、コンパだとして、「洋介の妹」って言っていた気がする。兄妹で恋人を求める場所に来ている? 私は一人っ子だけど、仮に自分に兄がいたとして、兄に恋人が出来る瞬間を見たいとは思わないし、自分に恋人が出来る瞬間も見られたくない気がした。世の中には、様々な考えの人がいるのだなとちょっと感嘆する。
「虹子もそのうちするのかなぁ」
 暁生さんが言う。
「しないよ」
 私は即答した。
「そんなすかさず否定しなくても、先のことはわからないじゃないか」
 暁生さんは笑った。
 歩みを進めると、やがて集団の声も聞こえなくなった。
 防波堤の先端までくると、暁生さんは海に足を投げ出すようにして腰かけた。私も隣に座る。コンクリートはひんやりしていた。
「この場所いいだろう。隠れ家なんだ」
「めちゃくちゃ野ざらしだけどねぇ」
 お気に入りの場所というならわかるけど、「隠れ家」は何か違うんじゃないかと私は皮肉ってみる。暁生さんは「まぁ、そうだけどさ」と言って声を出した笑う。それで、私は「あっ」と思う。いつのまにか、普通に話している自分に。一度そうして話してしまうと、完全に肩の力が抜ける。
 すぐ下に海。この辺ならまだ浅瀬だろうけど、夜が濃い時間で、明りはほとんどない。どこまでも深く感じられた。暁生さんは、足を投げ出したまま、上半身をごろんと倒す。私も同じように寝そべる。星はあまり見えない。
『どうして突然ドライブに行こうなんて言ったの?』
 聞きたかった。だけど、言葉にするには野暮ったい気がして飲み込む。ようやく取り戻しつつある、居心地のいい空気に水を差す真似はしたくない。理由など大切ではない。暁生さんは私と仲良くしようとしてくれていて、私もまた暁生さんと仲良くしたいと思っている。それだけで十分だと思い直す。
「やっぱり夏の海はいいよね。この時間帯は特に」
「うん。夜に海に来たの初めてだけど、いいね」
 夜の匂いと海の匂いが混ざり合うと苦しいぐらい切なさを感じる。それは、暁生さんの絵を見ていると感じるものと似ている。わけもなく泣きたくなって、きゅっと心臓が高鳴る。
 私たちはしばらく防波堤に寝そべって空を仰いだ。

「そろそろ帰ろうか」
「そうだね」
 暁生さんの言葉に、私もうなずく。だけど暁生さんは寝そべったまま起き上がらない。気配で分かる。そして、私も。
 規則正しい生活をしていたのに、夏休みの最後になって、徹夜だ。リズムを乱してしまい、元に戻すのが大変そうだ、と現実的なことを考える脳と、この非日常な場所で見ている光景に魅せられている心とがせめぎ合っている。
 今なら、と。思う。今なら、私は、暁生さんに言おうとしていたことがすんなりと言える気がした。というよりも、今を逃すと、永遠に言えない気がする。
 私は一呼吸する。だけど、
「本当はね、」
 先に口を開いたのは暁生さんだった。一度言葉を切って黙る。何かを伝えようとしていると感じられた。そして、それもきっと、今しか聞けないような気がする。私が言いたいことを言うか、暁生さんの言いたいことを聴くか。私は、自分が話すことを諦めて、暁生さんの言葉を選んだ。それに届くよう、目を閉じる。一層濃くなった暗闇に漂いながら、暁生さんの言葉を待つ。
「僕は、自分の人生を、それほど嫌いじゃないんだ」
 思ってもみない台詞だった。だけど、暁生さんの言葉は、これまで聞いたどんな言葉よりも凛然としている。
「夕べは、あんな風に言ったけど、本当は、自分の人生、そんなに嫌いじゃない」
 強がりでも、誤魔化しているわけでもない。本当に暁生さんはそう思っているのだろうと感じられた。そして、それは私がこれまで感じていたことと合致していた。いつも思ってきた。暁生さんの傍にいると、「この人は幸せな人だなぁ」と感じる。煌びやかな羨望を浴びるようなものではなく、お風呂に入った時に心の底から「ああ、気持ちいい」と思えるような、ああいう類の感覚に似ている。私を安心させてくれる。だからこそ、暁生さんの体のことを知り混乱した。隠していただけで、本当は寂しくてたまらなかったのか、と。私の目は節穴だったのか、と。けれど、やっぱり、こうしていると、暁生さんをどうしても、どうやっても、不幸だとは思えない。
 暁生さんは、自分の体のことで苦しんだだろうけれど、そして、今も、そのことを思うと苦しくなるのだろうけれど、ちっとも不幸せではない。苦しみがあるから幸せではない。どちらか一方しか存在できない。私はそう思ってきたけれど、幸、不幸というのはそんなに単純なものではなくて、苦しみと幸せは相反するものではなくて、ちゃんと共存できる。そう言われている気がした。
「人は生まれてくる前に青写真を描いてくるって話があるんだ。自分の人生で何が起きるか全部知った上で、この人生を選びますって決めて生まれてくるらしい。そんな話を随分昔に聞いた。僕は、この人生を選んできたのか、と思ったら、選んだ気がした。だから不幸なんかではないんだ」
 暁生さんは今度はハッキリと口にした。
 私は自分の浅はかさを恥じる。暁生さんの話を聞いてから、頭の片隅に常に存在していた言葉がある。「暁生さんは一人じゃないよ。私やお母さんがいる」と、そう言えば少しでも慰められるのではないか。この世界に連れ戻すことが出来るのではないか。だから、折りを見て言おうとしていた。今まさに、そのようなことを言おうとしていた。だけど、そんな言葉は露ほども必要ではない。
――ああ、
 蘇ってきたのは、個展で出会った小坂さんのことだ。あの時、漠然と二人は似ていると感じたけど、それが、今、強く結びついた気がした。そして、そのことが、私の中に強く芽吹いていく。
 ずっと、疑問だったことがある。「友達を作れ」と言う言葉や、「恋人」或いは「家族」を持ちたいと願う気持ち。誰かを求め、大切な人を見つけ、身近に感じることで助けられる。それは一つの事実だと感じるけど、見つけられなかったらどうするのだろうか、と。特定の誰か、を見つけない限り、人生を寂しがって過ごすことになるのか。もし、そうだとしたら、と考えると恐ろしかった。見つけられる気がしない。怖くてたまらなかった。皆、それをしているのに、私は出来ないかもしれない。そしたら、永遠に寂しいと思い続けて生きるしかないのか。
 だけど、暁生さんも、小坂さんも「特定の誰かを求めること」ではない別の道を歩き生きている。誰かの存在によって寂しさを埋めるのではなく、自分自身を表現し、そのことで世界に問いかけて生きてきた。この人たちは逃げなかったのだなぁと感じられた。
「うん」
 短く返す。暁生さんは黙る。
 きっと、おそらく、友だちがいて、恋人がいて、家族を持って、「大切な人」が自分を救い守ってくれる人生が、幸せなのだと思う。でも、それが手に入らないからといって、幸せではないなんて、そんな単純なものではない。暁生さんが言ったように、暁生さんは不幸ではない。
 十四歳で、世界から弾き飛ばされたと感じた。その後で、どうにかして世界と繋がろうと誰かに寄り掛かったりすることなく、遠い場所から、じっとこの世界を見つめた。長い時間をかけて眺め続け、自分の内側に、世界を落としこんでいった。心は寂しいまま、寂しさと付き合ってきた。辛さも、孤独も、嫌悪されるような感情のすべてと正面から向き合い、自分自身で折り合いをつけた。そうして手に入れた自分の人生を、悪くない言える。悲しくて強い人だと思った。そして、私はこの叔父がとてつもなく好きなのだと。そうやって生きてきた、この人のことが、とても。
「暁生叔父さん」
 私は呼びかける。
「夜が明けてきた」
 そうだね、と暁生さんは言った。




2010/12/18

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