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しぐれごこち 23

 
「忘れ物はない?」
「うん、ない」
「まぁ、あってもたいした距離じゃないけどねぇ」
 玄関扉の鍵をかける暁生さんの後姿を眺める。
 九月一日。午後二時前。私たちは家を出る。暁生さんは外出予定があり、私は帰る。一緒に家を出られたことに内心ほっとする。夏の間、どちらかがこの家を出る時の挨拶は「いってらっしゃい」と「いってきます」だったけれど、今日は違う。「これまでと異なる」ということが「おしまい」と突きつけられたようで(実際そうなのだけど)嫌だったから。
「よし、じゃあ行こう」
 振り向いた暁生さんは笑顔で言った。駅まで一緒だ。一歩前を暁生さんが、その後ろを私が歩く。
「九月になってもちっとも涼しくないねぇ」
 暁生さんは振り返ることなく言う。
「うん。どんどん暑くなってる気がする」
 見慣れた背中に私も答える。
「そういえば、結局、買った花火やらなかったな」
「ああ、本当だ。すっかり忘れてた」
「このままとっておいて、冬になったら、またあの海に行ってするっていうのはどう? 冬の海で花火なんて風流だろう?」
「いいね。でも湿気たりしないかなぁ」
「どうだろう? 大丈夫なんじゃない?」
 そんな他愛のない話を途切れることなくし続ける。二日前、ろくに話もできなかったことが嘘みたいに、私も暁生さんもおしゃべりだ。だけど、あの時とは別の意味で今日もおかしい。
「そうそう。小坂くんからライブ情報のメール来たよ。平日の夜だけど、行くだろう?」
「行きたい! でもお母さん許してくれるかなぁ」
「僕からもお願いしてみた方がいいっぽい?」
「暁生さんじゃ、頼りにならないっぽい」
「失礼だな。僕はこれでも立派な大人だ」
「立派な大人は、自分で立派とは言わないよ」
 そうして私たちは笑いあう。バカみたいに楽しそうに笑う。この時間がずっと続けばいいのに、と思う。けれど、いつもの半分ぐらいに感じられるほど早く駅に着く。持ってくれていたボストンバッグ(私の着替えが入っている)を受け取る。
「ありがとう」
「どういたしまして。それじゃ、また」
 暁生さんはそれだけ言うと、改札に向かって歩きはじめる。まったく名残を惜しむ気はないらしく、ごくごく普通のことのように別れて行く。暁生さんも私と同じ気持ちなのか。と解釈する。だから、親しき仲にも礼儀あり、というけれど、私も「またね」とだけ言って、自分の家に向かって歩き出す。
 海から戻ってきてから、私たちの関係は良好だった。
 昨夜もアトリエで一緒に過ごした。ホットコーヒーを飲むのも、暁生さんが時々思い出したように後ろのソファで寝そべる私を振り返り、「退屈じゃない?」と聞いてくるのも、夏休みが始まった頃と変わらない。だけど、変わってしまったこともある。もう、戻れないこともある。何もかもが同じではない。
 そして、考える。
 十四歳の夏休み。叔父と過ごした夏。この日々が、私にもたらしたものは何だったのだろうか、と。暁生さんが私にくれたものは何だったろうか、と。
 夏休みが始まる前、私には他人がいなかった。嫌だな、と思う人はいたし、いいな、と思う人はいたけれど、どこかで私は一線を引いていた。自覚はなかったけれど、全てが遠い世界の出来事のように見えていた。自分一人だけの殻。そこは身を裂くような孤独を感じることもなく、その代わり人と心通わせることもない場所だった。致命的に傷ついたり傷つけたりすることなく、ままごとみたいに生きてきた。人の切実な痛み。私では太刀打ちできない傷。下手をすればそれをえぐってしまうこと。それを知らずに生きていた私は、幸せな子どもだった。そう出来ていたのは、甘やかされていたからだ。守られていたのだなと思う。優しくされていたのだなと思う。それを感じることなく生きていた自分を振り返ると恥ずかしくて叫び出したい。だけど、きっと、こんなのは序の口で、私には見えていないことがまだまだたくさんあるだろう。私に注がれているものが、この世界には山のようにあるだろう。私は、それを知っていかなければならないと思う。たとえばそれは、自分の鈍感さを自覚することであり、或いは残酷さを認めることでもある。未熟で、情けない自分を知るのは恐ろしい。でも、私は、そうする。いつか私も自分の人生を好きだと言いたいから、世界に問いかけていく。
 歩き慣れた道。姿勢を正して、少しだけ目線を上げて進む。

 家に帰ると、母がいて「おかえり」と出迎えてくれる。私は「ただいま」と返す。廊下を歩いて、リビングへ入る。母はテレビを見ていたらしく(大好きな二時間サスペンス)、テーブルには食べかけの夏みかんがある。
「先に洗濯物を入れてきなさい」
 と指示されて、大人しく従う。洗濯物を洗濯かごに入れているうちに、「ああ、帰ってきたんだなぁ」と実感していく。
 片づけてリビングへ戻り、母の傍に腰掛ける。夏みかんを半分分けてもらう。母は一粒剥いては食べるけれど、私は全部剥いてから食べる。うまく剥けず、汁がピュッと飛び出すのを、布巾で拭きながら剥いていく。
「あんな男、死んで当然よ。あの男がいたら私の人生めちゃくちゃになる。だから殺すしかなかった」
 犯人役の女優が断崖で叫ぶ。主人公は辛そうな顔をしながら、
「それでも殺人は犯罪です。殺していい理由にはならない」
 と言う。私は黙って画面を見つめた。
 エンディングが流れ始める頃には全部剥き終わり、汁でベタベタになった手を洗いに行く。戻ってくると、私の剥いたみかんを一粒母が口に入れていた。
「あーもう! せっかく剥いたのに」
 母は悪戯っ子のようなしてやったりという顔をする。大人げない。全部食べられてしまわないうちに、私も食べ始める。少し酸っぱいけれど、食べていると慣れる。口の中が果物特有の酸味で満ちていく。
「楽しかった?」
 母が言う。私は何と答えようか、と考える。私の中にまめぐるしく飛び交う感情をすぐさま言葉に表すのは困難で、
「まぁね。楽しかったかな」
 と、そっけなく告げた。そう言う方が伝わる気がした。母は「ふーん。そう」と何やら意味ありげな返事をした後、
「また行きたい?」
 だけど、私は、
「行かない」
 母は少し吃驚したみたいだった。でも、私は決めていた。今年の夏休みは特別だ。きっと、二度と味わえない。それだけのものをもらった。この日々を薄めてはならない気がした。また、もう一度、と欲張ってしまわないように。「もう、行かないんだ」と繰り返す。母は、どうして? 何かあった? とは言わなかった。ただ、静かに笑っていた。
「よし、じゃあ、夕飯の買い物に行ってこようかな。虹子も行く?」
「うん」
「今日はお父さん早く帰ってくるらしいし、張り切っちゃおうかな」
「へぇ、珍しく残業ないんだ」
「そうよ。定時にあがってくるって」
 定時。それはちょっと無理なのではないか。私が知っている限り、定時に終えて帰ってきたことはなかった。なんだかんだと帰れずに、早くとも七時ぐらいになる。それでも、
「じゃあ、今日は、私がお味噌汁作る。朝、毎日作ってたからうまく作れるようになったよ。暁生さんの太鼓判ももらった」
「あら、楽しみね。お父さんも喜ぶよ」
「うん、任せて」
 私は得意げに返事をした。
 胸の奥底からくる、泣きたくなるようなざわめきを感じる。また、今日から、日常がはじまる。だけどきっと、これまでと違った風景を私は知るだろう。気付かなかったこと。見えなかったもの。いいことも、嫌なことも、嬉しいことも、悲しいことも、すべてがごったがえす日々を、私は真正面から見据える。【完】



 
あとがきにかえて


2010/12/18

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