「お祭りに行こうか」
夕方五時を回った頃。夏の夜はなかなか降りてこない。外はまだ明るくて、縁側につるした風鈴を見ながら、のんびりした声で暁生さんが言った。
七月の終わりには近所の神社でお祭りがある。大きくはないけど、この町には、こんなに人がいるのだなぁ、となんだか不思議に思われるほど賑わう。
暁生さんは止まった風鈴に触れた。リンリンと涼やかに響く。返事を待っているのだろう。
困った。お祭りは苦手だ。お祭り、というよりも、人が多くいるような場所が好きではない。いろんな人の息遣いが混ざり合った空間で、私は何故だか不機嫌な人の波長と合ってしまい、たいてい嫌な思いをする。楽しいと思えたことがなかった。
どうしよう。
断ろうか。でも。
たとえば、私のために連れて行ってあげようという匂いがしたら悩まなかっただろう。暁生さんからはそういう雰囲気をまったく感じない。大人が子どもの好みそうな遊びに連れ出し喜ばせてあげよう、というものではなく、夏といえば夏祭りだから行ってみる? という誘いのように感じられた。
暁生さんはもう一度風鈴を鳴らし「行こうよ」とつぶやいた。
私は行くことにした。
「浴衣着に帰るだろう?」
浴衣は持っていない。小学生の頃にきていたピンクのは小さくなって着られないだろう。
「母さんと姉さんの力作のお披露目だな」
「……何の話?」
「そういえば虹子には秘密だったっけ。入院中、二人で虹子の浴衣を作っていたんだよ」
祖母は手芸が趣味だった。毎週日曜日になるとカルチャースクールへ通っていた。
「自分の物より人の物を作る方がやる気が出るわ」
そう言いながら、あれこれと作ってくれた。具体的に言うなら、小学校の頃に持っていた手提げ袋や体操着入れ。「可愛いね」と話したことがないようなクラスメイトまでが傍に寄ってきて褒めてくれた。私の自慢だった。
夏になればいつか私の浴衣を作りたい、と繰り返し言っていたことは覚えている。それを祖母は入院中に、不器用で細かいことの嫌いな母と一緒に作っていた? そんな話初耳だ。あのおしゃべりな母が私に何も言わなかったことが意外だ。
「完成してたはずだよ。夏になったらビックリさせようって秘密にしたまま……」
死んじゃったからさ。と。なんてことないように淡々と言った。
「たぶん箪笥のこやしになったままだ。このまま永遠になかったことにするのは可哀想だろう?」
本当にその浴衣があるのなら見てみたい。
小さくうなずくと、暁生さんは出かける仕度を始めた。
暁生さんの家着は白のTシャツとGパンと決まっている。そのどちらも水彩やアクリル、油絵具のシミがある。思いついた勢いに任せて絵を描き、飛ばしてしまうのだ。
「汚れてしまうとわかりきっているなら、汚れが目立たない黒とか紺にすればいいじゃない」
ずっと昔、母が言っていた。当時は、最もだと思った。でも、今は違う。無造作についたはずのそれらは、まるで好んでつけたように見えるから。汚れさえも暁生さんの織りなす世界のように感じられた。自分の世界に包まれているとき、暁生さんは生き生きして見える。だから、黒や紺では駄目なのだ。ハッキリと、飛んだ絵具が見えるように白生地でなければいけない。
「おまたせ。準備はいい?」
ボーダーTシャツとウエスタン調の薄い水色のカーゴパンツに着替えた暁生さんは、どう見ても大学生にしか見えない。年齢を重ねたからといって老けていくわけではないのだ。それがいいことなのか、悪いことなのかはわからない。少なくとも、暁生さん自身は自分の容姿をよく思ってはいないようだ。美術教師という職業柄、もうちょっと威厳がほしいかも、とこぼしている。生徒に先生扱いされないので困っているらしい。
そういえば、妊娠騒動の件はどうなったのだろう。安易に触れてはいけないような気がしたので聞けずにいる。暁生さんは普通に勤めているし(高校も夏休みだけど、美術部の指導や、その他の庶務をこなす為に出かけている。よく教師になれば休みがいっぱいあっていい、と言われたりするがそれは幻想だ。人が噂するより教師は遥かに忙しい)、おそらく無事に鎮圧したのだろうと思われた。
外に出ると綺麗な夕焼け空が広がっていた。
私たちは片道二十分の道のりを歩いて向かうことにした。
夏の夕暮れは気持ちがいい。昼間にお日様をたらふく吸い込んだ空気は柔らかくて爽快だ。干した布団みたいに空気だってふわふわになる。
暁生さんは私の一歩前を歩く。一定のリズムで、とんとんとん、と。会話もなく、ただ歩く。その背中をみながら、私も歩く。どこまでも歩いて行けそうな気がする。どこまでも歩いていきたくなる。こんな風に変わらないリズムで生きていけたらどれほどいいだろう。
だけど、空はどんどん夜の色が濃くなっていく。
「少し急ごうか。姉さんが待ちくたびれてるかも」
暁生さんが言った。
「そうだね」
それから少しだけ歩調を早めて目的地へ急いだ。
家に行くと予想通り連絡を受けていた母が準備万端で待ち構えていた。
「ただいま」
「おかえり。随分遅かったわね」
「歩いてきたからね」
母はこの暑いのによくやるわ、と嘆くようなポーズで言った。
「気持ちよかったよ。夕方は歩きやすい。お母さんも運動がてら歩いたら? 太ってきたっていってたじゃない」
「暑い中歩くぐらいなら太った方がまし」
そんな理屈あるのか?
話しながら廊下を歩き、リビングへ入る。
衣紋掛けに吊るされた浴衣が目に飛び込んでくる。
凛とした青の地の色に、桜と七宝の古典柄の絵。静かな浴衣だった。
「これが……」
予想外だった。
びっくりして、次の言葉が出てこない。
祖母も母も可愛らしいものを好む。だから、きっとピンクか白、あるいは黄色の女の子っぽいものなのだろうと想像していた。まさか青色でくるとは夢にも思わない。
私の反応に気づいたのか、母がいたずらっぽく「生地は暁生が選んだのよ」と告げた。
誰かのために何かをした――暁生さんがそういうことを言われるのが嫌な性分なのを知っていて、母はわざと言ったのだろう。暁生さんに視線をなげると、
「三時間近く決めかねていたからさ。それより早く着て見せて」
早口にそっけない返答がくる。
「はいはい。じゃ、虹子、そっちの部屋で着替えましょう。暁生叔父さんが待ちくたびれる前にね」
やっぱり二人は姉弟なのだなぁ、とこんな時に思う。
部屋を移動し、姿身の前に立って、さっそく着付けをしてもらう。
お腹を締め付けられると圧迫感に背筋がピンと伸びていく。洋服とは全く勝手が違うけれど、DNAに刻まれた記憶なのか妙に落ち着いた。
「ちっとも気付かなかった」
後ろで帯を着付けている母に言った。
「内緒にしてたんだもの。おばあちゃんと約束したからね。夏になったらビックリさせようって」
母は知っていたはずだ。この浴衣を祖母が直接私に手渡すことがないことを。それでも完成してすぐに私に言わなかった。夏が来たら驚かそうと約束したから。希望だったかもしれない。実現できることを願った。結局祖母は亡くなってしまったけど。
「はい。おしまい。どう? きつめに締めたけど苦しくない?」
「うん、大丈夫」
「ちょっと回って見せて」
着付けにおかしなところがないかチェックしてもらう。一周して、母の正面に向かい合うと、「完璧」と笑った。そして、今度はじっと浴衣を見つめた。眼差しには、しっとりとした感情が含まれていた。何かを懐かしむような。感傷的なもの。
果たせずに宙に浮いたままの約束。
夏が来ても黙ったままでいたのは母の祖母への愛着だったのではないか。ふと、そう思った。最後に交わした約束を一人で成就させてしまうことに躊躇いを感じていた。母にとって、浴衣を私に手渡すことは、祖母と二人でしたかった大切な行事だったに違いない。
私は浴衣を受けとってよかったのだろうか。
暁生さんはどうしてこの浴衣のことを私に教えたのだろう。母が言わないのなら、素知らぬふりをしていることも出来たはずなのに。
「暁生。入ってきていいわよ」
待ち構えていたのか、すぐに襖が開く。
「ああ、よく似合っている」
「着てみたら直しが必要になるかもしれないって思ってたけど、さすが母さんだわ。綻びとつない。いい仕事してくれてる」
母は心底嬉しそうに自慢げに言った。
2010/10/19