家を出るとすっかり夜だった。明るい夜だ。
カラカラと鳴る下駄の音は心地よい。でも浴衣は歩きにくい。簡単に着崩れたりはしないとわかっていても、どうしても一歩が小さくなる。ちょこちょこ歩いていると、浮足立っているような気がして、すると本当に気持ちも浮かれてくる。
「お母さんもくればよかったのにね」
私は言った。
母にベビーカステラとチョコバナナを買ってくるように頼まれて送り出されたのだが、ベビーカステラはともかくチョコバナナなど持って帰る途中で溶けてしまう。食べたいなら一緒に行こうよと誘ったけど、見たいテレビがあるからと断られた。そんなの録画すればいいではないか、と当然反論したが、録画したらいつでも見られると安心して見なくなるから生で見ないといけないによ、と返された。なんでも、好きな男優が夏ドラマの番宣を兼ねて出演するらしい。ミーハーの母らしいな、と諦めた。
「姉さんは昔からテレビ大好きだから」
「そんなに昔から?」
「生き甲斐だと思う。だから邪魔したらいけないなって、子どもの頃からテレビのチャンネル権は姉さんのものだったんだ。いつも姉さんが羨ましかったな。熱中できるものがあるというのは人生を楽しくさせる」
そういう暁生さんも楽しそうだった。
せっかくのお祭りなのにね、とか、テレビなんて何が面白いんだろうね? などけして言わない。昔を思い出して懐かしんでいるように見える。暁生さんにも絵があるけど、暁生さんが絵を見つけたのは中学に入ってからだ。それまでは、きっと今みたいに楽しんでいた母の姿を眩しく見ていたのだろう。
私は暁生さんのこういう姿勢を尊敬している。私にはない上品さだ。できるなら、楽しんでいる人の姿を見て、いいなぁと思う気持ちを真っ直ぐに持ちたいと願う。暁生さんが母を見ていたように。だけど、それが難しい。人が大切にしていることを大切にするというのは、考えるよりもずっと困難だ。羨ましさと嫉妬心は表裏をなし、意地悪に馬鹿にしたくなる気持ちが生まれてしまう。自分が楽しいと感じないことは否定して嘲る。私の中にはそういった感情が確かに存在していた。だけど暁生さんの傍にいると不思議と消えてしまう。大丈夫だよ、と。焦らなくても、怖がらなくても、大丈夫。言葉で、そう言われたわけではないのに、背中を撫でてもらったような安心感をもらえる。それがどこからくるものなのか、いつも不思議に感じられた。
「賑わっているなぁ」
暁生さんが言った。
お宮さんまでまだ五十メートルほどあるが私たちは立ち止まった。ずらりと出店が並んでいて、人で溢れかえっていたから。
「賑わいすぎなぐらいだよ」
通りを眺める。右から、屋台を覗く人、お宮さんに向かい歩く人、お宮さんから戻ってくる人、屋台を覗く人、と誰に誘導されているわけでもないのに、みんな巧い具合に秩序を保っている。今からここに入っていくのかぁ、と思うとそわそわする。
私たちはしばらくの間、人の流れを見つめていたが、
「行こうか」
先に暁生さんが言った。こうしていても仕方ない。ベビーカステラを買って帰らなくてはならない。うなずくと、一緒に一歩を踏み出す。通りへ入ってしまえば、意外と窮屈さはなかった。ゆっくりではあるけれど前に進んでいる。その流れに身を任せるだけでよかった。
綿菓子、かき氷、箸まき、焼きそば、イカ焼き、トウモロコシ、フランクフルト。いろんな匂いが混ざり合っているのに不思議と美味しく感じられる。
「チョコバナナ売ってるよ。結構しっかりコーティングされてるから持って帰れるかも」
暁生さんの視線を追う。言う通り、がちがちにコーティングされている。
「ピンクや白はわかるけど青って一体何味なんだろう?」
並べられたカラフルなチョコバナナ。見た目は綺麗だけれど、青いチョコだけはどうしても味の想像がつかなかった。
「青梅とか?」
「青梅味のチョコ? それって甘いの? 酸っぱいの?」
「甘酸っぱいんじゃない? ……ちょっとうまいこと言った気がする」
暁生さんは嬉しそうに自画自賛した。昔から、笑いの沸点が低い。私は何と答えればいいか固まっていると「買ってみる?」と聞かれた。浴衣とお揃いになるし丁度いいじゃない、とさらにつまらないことを言う。だからつい「いらない」と答えた。
「じゃあ、代わりにりんご飴にしよう」
チョコバナナの代わりにりんご飴? 全然別物ではないか、と思った。だけど、よくよく考えると、同じ果物でコーティングしているのが飴かチョコか。発想は似ている。充分代替になるかもしれない。それを瞬時にぱっと思い浮かべるとは、暁生さんはすごいなぁと思った。けれど、
「やっぱり、りんご飴だよ。りんご飴には歴史がある。僕が小さい頃にはチョコバナナなんて売ってなかったんだから。お祭りと言えばりんご飴。伝統は大事にしないと」
と一人ごちているのを聞いて、もしかしたら単純にりんご飴が好きなだけかもしれないと思いなおした。私が「すごい!」と感動したことが無意識だったり、たまたまだったりと、暁生さんには案外そういうところがある。昔からそうだったので、今回もそうかもしれない。確かめてがっかりするのは悲しいので、黙っていることにした。
最初に見つけたお店で買おう、と暁生さんは妙なこだわりをみせたので、私たちは注意深く、見落とさないよう、一軒目のりんご飴屋を探した。
不可思議な現象だが、探しているときほど見つからない。この時もそうで、りんご飴の屋台など定番中の定番で、ないはずないのに、通りの半分を過ぎても見つけられなかった。
「おかしいなぁ。どうしてないんだろう?」
「今の子どもは、柔らかい物を食べすぎて顎が弱いらしいから、りんご飴なんて固い物は好まれないのかもしれないよ」
私が言うと、暁生さんは「りんご飴のないお祭りなんてお祭りとは認めない」と落胆とも憤りともつかない複雑な表情をした。
「仕方ないよ。時代の流れだから」
慰めの言葉を述べながら、人の流れに沿って先に進む。
「もう僕はお祭りには来ないよ。虹子」
そこまでこだわることなのだろうか。大袈裟だなぁと思うけど、暁生さんは本気だろう。まるで駄々っ子だ。体が大きく知能がある分、子どもより性質が悪いかもしれない。それでもしょんぼりしているこの叔父をどうにかしてやりたい気持ちになって、私は祈るようにりんご飴屋を探し続けた。その願いが通じたのか、お宮さんの入り口のすぐ隣に見つけた。
「暁生さん、あったよ!」
「ああ、よかったぁ」
心の底から安堵した声。
「お宮さんへのお賽銭ははずんだほうがいいと思うよ」
私が心の中で必死にお祈りしていたことなど知らない暁生さんは一瞬きょとんとした顔をしたけれど、「そうだねぇ」と述べた。
りんご飴屋には小学生が四人いた。どれを買うかわいわいと楽しそうにしている。私たちは邪魔にならないよう、屋台とお宮さんの入り口の間にある小さなスペースで、彼らが買い終わるのを待つことにした。
「人気あるじゃないか、りんご飴」
暁生さんは満足気で鼻歌でも歌いだしそうだった。幸せな人だなぁと思う。
「立ち止まるな。だから進まないんだ」
「ほら、前見てとっとと歩け。邪魔だ」
それは突然だった。赤ら顔の年の頃、四十ぐらいだろうか? 二人組の男性が口々に、りんご飴屋の前にいた小学生に言った。男たちの言うように、屋台の前にたむろする小学生は注意力散漫で、通行の妨害になっている部分はあった。お祭りの熱に浮かされて
周囲の状況など見えていない。だけど、けして通れないわけではない。お祭りのときなんてこういうものだと思う。それなのに男たちは煽ったのだ。それは子どもに礼儀を教えるための注意というよりも、自分たちが歩きにくいから文句を言っているだけのように感じられた。
嫌だな、と思った。
大人の不用意さというか、野蛮さというか。前に進まないのなんてお祭りの醍醐味みたいなもので、そういうのも込みで楽しむものなのに、怒りを感じて、あまつ感情を言葉にして、主張するのは当然のことのように振る舞う。「道に広がるな」というのは正しいことかもしれないけれど、正しいことだからって好き勝手言っていいわけではない。酔っ払って気持ちが大きくなっているのだろう。こういう人は苦手だ。見ていると悲しくなる。
言われている小学生たちは一瞬の出来事だったし、りんご飴に夢中で聞いてはいなかったけど、一人だけ、その罵声に反応した男の子がいた。ガハハハっと笑いながら去っていく男たちの後ろ姿を神妙な顔つきで見送っている。
――ああ、
それまで楽しい気持ちで華やいでいたのに、突然、他人の不快な感情が割り込んできて、無防備だったがために、一瞬で真っ黒に塗られてしまう。良い気分でいればいるほど、突き落される奈落は深い。夢見心地のところへ、冷や水を浴びせられ、ひどくガッカリして、その後の全てがつまらないことになってしまう。そんな不器用さ。男たちの去っていく姿を見つめ、無言で立ちつくす男の子からは、どうしようもない悲しみが溢れていた。
「しょうちゃん、どうしたの? 買わないの?」
じっとしているその男の子――しょうちゃん――に気付いた一人が声をかけたが、しょうちゃんはぎこちなく笑って、「ほしくなくなったから」と呟いた。「そっか」と何も知らないその子は言って、やがて小学生たちは通りの中へ消えていった。
せめてあの男の子が、何を言われても気にしないタイプの子だったらよかったのに。なんだよー、嫌な奴! と思って、すぐに気持ちを切り替えられるような子だったら。そしたらまだ救われた。けれど、違った。明らかに傷ついていた。あの男たちの不用意な言葉に傷つけられていた。
どうしてこんな悲しいことが起きるのだろう。
だけど、それは言葉にしてはいけない悲しみだった。たとえば、あの男たちってひどいよね、と一言言えば、そらぞらしくなってしまうから。何も出来なかったのに、わかったようなことを言えば、あの男の子が味わった気持ちを軽んじてしまうから。ただ黙って、起きたことを覚えている。それが唯一出来ることだった。
「虹子」
暁生さんを見る。寂しそうだった。きっと、今繰り広げられた出来事を、暁生さんもわかったのだと思う。そして、やはり、どうしようもなくて、黙っているしか出来ないのだと、大人になっても、こういうことに対処する術はないのだと、心許ない表情が告げていた。
「赤と青があるよ。どっちにする?」
情けない顔のままで暁生さんは言った。私が答えずにいると
「青にしたら? 浴衣とお揃いになるよ」
またそんなくだらないこと言って。だけど私は「そうだね」と笑った。すると暁生さんも力なく笑った。笑うことで少しでも元気になれるように笑った。
「好きなのとっていいよ」
お店の人に言われて、私は右から三つ目の最も歪な形を選んだ。悲しみを固めたような真っ青なりんご飴。これを齧ってこなごなにしてしまえば、何もかもなかったことになればいいのに。だけど今度の願いは聞き入れてはもらえないだろう。それでも私は祈った。さっきよりもずっと真剣に。
2010/10/22