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しぐれごこち 08

 
 高速道路が混雑していて(大きな事故が起きたらしい。傍を通り過ぎる時、ボンネットが大破した車が見えた)、着いたのは午後二時を回っていた。六時間、我慢すればいいだけだ。ついていると思った。
 祖父母の家は一階が定食屋、二階が居住スペースになっている。お店と家の出入り口は別にあり、奥で一つに繋がっていた。今の時間はおそらくお店の後片付け中で、祖父母は店にいるだろうと思われたから、お店側から入ることにする。自動ドアではなく、ガラガラガラと音を鳴らし横に開く扉は年季を感じさせた。
「ただいま」
 父が元気よく言う。すぐに祖母が気付いて目を細めた。
「御無沙汰しております」
 母のかしこまった声。祖母は「よくきてくれたねぇ」と告げた。それから私を見て、「大きくなって、元気してた?」と言う。「うん。元気だったよ。おばあちゃんも元気そうでよかった」恒例の挨拶だ。
「さぁさぁ、上がって」
 二階へ上がるように薦められ、父は張り切って奥へ入っていく。靴を脱いで、居住スペースへの階段を昇りながら「姉さん、愛子、着いたぞ」と叫んだ。昇り切ると、
「いらっしゃい」
 嬉しそうな愛子ちゃんに、嬉しそうな父が手土産を渡す。愛子ちゃんは益々嬉しそうな顔をして「ありがとう。叔父さんのお土産、いつも楽しみにしてるんだよ」と告げた。
「そんなに喜んでもらえると、買ってきた甲斐があるなぁ」
 その言葉に私の胸は痛んだ。物喜びしない子。私は常々言われていた。虹子は何を買ってきても嬉しがらないなぁ。普通、子どもならもっと喜ぶと思うけどなぁ。父はつまらなそうに口にした。せっかく買ってきてくれたのに、失礼なことをしている。私はなるべく笑顔を作って見せるようになった。だけど、私の表現では足りないらしく、父は満足していない様子だった。
「疲れたでしょう。入って」
 伯母と愛子ちゃんは父を挟み込むようにして進んでいく。取り残されないよう、母と私も後に続いた。
 居間に入って、真ん中に父と伯母と愛子ちゃんが、母と私は申し訳ない感じで隅っこに座った。父は私たちの様子に気づかないのか、伯母と愛子ちゃんの話を熱心に聞いていた。
「愛子、成績があがったのよ。高校も志望校へ進学できるって先生に太鼓判押されたわ」
「へぇー、すごいじゃないか」
「叔父さんに誉めてもらおうと思って、頑張ったんだ」
 久々に会ったのだから、話が盛り上がるのは当然だ。だけど、愛子ちゃんの話を聞く父は家で見せる顔とは違って見える。心底嬉しそうだ。父は私の成績を気にしたことはない。私も話さないけど。ああ、こんな風に子どもの成績について嬉しがる人なのだと初めて知る。まるでこれこそが本物の家族だ、と言われているみたいに和気あいあいと見えた。 
 チラリと母を見る。
「下で後片づけの手伝いをしようか」
 母の提案に私は従った。
 たった今しがた昇ってきたばかりの階段を下りていく。母の後ろ背中を見つめながら、ごめんなさいという気持ちでいっぱいになる。私が、もっと父と仲が良ければ、あのいたたまれないような空気を改善できたのかもしれない。父も、私が愛子ちゃんのように天真爛漫に懐いたら、きっと可愛がってくれて、この家に来ても、私と母の存在を忘れてしまうことはないかもしれない。
 階下に降りて、「お手伝いします」と母が申し出ると、祖父母は悲しそうな顔をした。伯母の態度のことをわかっているのだ。伯母と父の関係性は祖父母の子育ての結果だから、口を挟めない。ただ、母に、すまなそうな顔をする。母も私も少しだけ気持ちが慰められる。
「やっぱりプロが使う炊事場は違って見えるねぇ」
 私は明るい声を出す。本当は家の台所と対した違いはない。ここの方が使い込まれているけど、特別な器具があるわけではなかった。
「そうかい?」
 そんなことみんなわかっていたに違いないけど、祖母が頼りない笑顔を浮かべて言った。
「うん、おいしいものが作られていそう」
「じゃあ、今日は虹子のために、おばあちゃんが美味しい物を作ろうかな」
「本当?」
「何が食べたい?」
「親子丼」
 よし、じゃあそうしよう。と祖母は言ってくれた。母は「義母さんだってお疲れなのよ」と遠慮するように言ったけど、祖父が「可愛い孫娘に、たまには手料理を食べてもらいたいだけだから」と笑っていた。可愛い孫。なんだかこそばゆかった。
 
 お店の片づけが終わり、二階に上がると、父と伯母と愛子ちゃんはテレビを見ていた。クイズ番組の再放送だ。
『問い。戦国時代一の美女と謳われていたのは誰か』
「お市の方だな」
 父が言う。しばらくして、正解が告げられた。
「叔父さんすごーい」
 愛子ちゃんが誉めたたえた。父はまんざらでもない顔をした。テーブルには缶ビールが二本。予想はしていたけど、やっぱりな、と呆れた。茶番なやりとりに心は冷えていく。こんな風に煽てられている父が間抜け見えて仕方ない。
「そんなもの答えられたからって自慢にもならんわ」
 祖父が三人の空間へ割って入って陣取った。
「ひどいよ。おじいちゃん。叔父さんに失礼だよ」
 愛子ちゃんが言う。
 大事な叔父を庇う姪。美談だ。実に健気で可愛い。と、口を開けば揶揄する言葉が出てくるだろう。そんな自分がたまらなく惨めな存在に思えるので無言を貫き通す。家に帰るまで、心を失わせてしまえばいい。今日だけ。あと、数時間だけ。大丈夫。大丈夫。たぶん。
「夕飯は虹子が親子丼を食べたいって言うからそうしたよ」
 祖母が場を取り繕うようににこにこ言うと、
「えー、せっかく叔父さんが来たのに、外に食べに行こうよ」
 と愛子ちゃんが言った。愛子ちゃんにしてみれば、いつも食べている物ではなく違う物を食べたい。ということだろう。私が祖母の料理を滅多に食べられないのと真逆なのだ。利害が一致しないのは仕方ない。
「そうよ。お母さんだって、休みたいでしょう。外に食べに行きましょう」
 伯母も同意した。その言い方が当てつけのように感じられた。こういうことになるから、母は遠慮しなさいと言ったのかもしれない。自分の浅はかさを恥じた。
 どうしよう。心臓がきゅっと縮む。「私は何でもいいよ」と言おうか。そうしたら、私のために張り切ってくれている祖母を落胆させてしまうかもしれない。何と言えばいいか言葉が見当たらなかった。だけど、
「俺も久々に母さんの親子丼が食べたい」
 父の一言で、事態はあっさり収拾した。伯母も愛子ちゃんも父がそう言うなら、と簡単に従った。ほっとした。だけど、嫌な感じだ、と体が冷えた。

 それから、少し休んだ後、祖母と母と私が台所で夕飯の支度をした。 
 後ろから、父と伯母と愛子ちゃんの楽しげな声が聞こえてくる。祖父はきっと新聞を広げてだんまりを決め込んでいるのだろう。ここにくると、父と伯母と愛子ちゃんが話をして、祖母と母と私が話をして、祖父は黙ったきりだから。いつもの光景だ。
「叔父さん、肩もんであげるよ。運転して疲れたでしょう」
 酔っ払っていい気分の父は、元から機嫌がよかったけど、更にご機嫌になり、
「愛子は気が効くなぁ。虹子なんてちっともしてくれない」
「私が叔父さんの娘だったら、毎日してあげるよ」
「優しいなぁ」
 父が言っていることは全部本当だ。私は肩叩きなんてしたことがない。これからもしない。絶対しない。今、心に固く誓った。
 台所に三人が立つと狭い。私はテーブルの上にまな板を置いて、お味噌汁に入れるお揚げさんを細長く切る。終わるとネギ。最後は豆腐。普段料理をしないけど、今年の夏は暁生さんのところへ居候している。食事は暁生さんと共同だから、少しだけ覚えた。
 もし、と私は考える。
 もし、両親が離婚して、母に引き取られたとしたら、私も愛子ちゃんのように、暁生さんに父親を求めるだろうか。父を恋しく思い出し、それを叔父である暁生さんに投影させるだろうか。
 しないだろうなぁ、と思う。きっと、そんなことはしないだろう。
「虹子、お味噌といてくれる?」
 母から渡されたお玉を持って鍋の前に立ち、父と伯母と愛子ちゃんの笑い声を聞きながら、菜箸でぐるぐるとお味噌を溶かした。
 ほどなくして夕飯が完成する。
 とろとろの親子丼は食欲をそそる。美味しい物を食べると元気になる。
 母にお味噌汁をテーブルに運ぶように指示されたので、お盆に載せて持ちたところに、愛子ちゃんがやってくる。
「出来たの? じゃあ、私が持って行くよ」
 愛子ちゃんのこういうところが好きではない。調子が良い。
「いいよ。もうこれ持って行くだけだし」
 私は断ったけど、愛子ちゃんは強引だった。お盆を奪うよう自分の方へ寄せようとする。そんなことしたら零れる、と私は手を離した。 
 祖母と母が親子丼を運んで行く、私は茫然と愛子ちゃんの背中を見つめていたけど我に返って二人の後をついていく。居間に行くと愛子ちゃんがお味噌汁を配膳していた。父はそれを誉めていた。
――こういう人だよなぁ。
 目の前にあることだけを見て、そのまま解釈する。単純でわかりやすい。たぶん、悪い人ではないのだ。愛子ちゃんのようにアピールしていけば、私のことも褒めてくれるだろう。お味噌汁の具を切っり、お味噌を溶かしたのは私だよ。そう言えば、そうか〜と笑ってくれるだろう。だけど、私はしない。張り合っても、むなしくなることを知っている。
「おばあちゃん、私が持つよ」
 愛子ちゃんが祖母のお盆を受け取り、乗っていた丼を三つ、父と伯母と自分の前に置いた。父は「うまそうだな」と感想を述べる。「そうでしょう」と愛子ちゃんが言う。私はなんだかなぁ、と思う。
 夕食の時間は、苦痛でしかなく、馬鹿みたいに笑う父と伯母と愛子ちゃんの声だけが頭にこだまして、せっかくの親子丼を味わうことが出来なかった。




2010/11/2

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