
氷の女
――覚えているのは冷たい手。ぞっとするほど冷たい。
「二十四度はないだろぉ〜。風邪引いてるんだぞ? 死ぬ気か?」
部屋に入ってくるなりクーラーのリモコンを調節しながら、洋介は飽きれたように言った。七月の終わり。夏風邪を引いたと告げると家に看病しにきてくれた。
付き合い始めて半年。夏を一緒に過ごすのは初めてだから知らないのだ。私は過度の冷房依存症だ。
「ご飯食べた?」
「昨日から何も食べてない……食欲なくて」
二十八度まであげられた室温を再び下げながら言った。
「だから、死ぬ気かって。熱いのか? 冷えピタ買って来たからほら。あと頼まれていた桃缶も。台所貸りるぞ」
しばらくすると白桃と桜桃、それからりんごがお皿に盛られて出てくる。
「……うさぎ」
「定番だろ? 風邪にはウサギ型のりんご」
人懐こそうな笑顔。ああ、ぬくぬくとした家庭で育ったのだなぁと思う。洋介のこのなんともいえない陽だまりみたいな雰囲気が好きだった。私が欲しかったものを持っている。とても焦がれた。
私の母は私を産んですぐに亡くなった。分娩室で生まれたばかりの私を抱くと、ホッとしたように微笑んでそのまま息を引き取ったそうだ。その後、私は父親に育てられた。愛されていたと思う。不器用で無骨な人だったから繊細なことには疎かったけど。だからウサギ型のりんごなんて望めるはずもない。風邪を引けば出されたのは桃缶だ。甘ったるい蜜はどう考えても体に悪いだろう。それでも、嬉しかった。今も体調を崩したり疲れたりすると無性に食べたくなる。
「そんなのドラマの中だけかと思ったよ」
「初めてか? それは光栄だな」
嬉しそうな顔につられて、洋介力作のウサギ型りんごにフォークをたてるとシャリっと甘酸っぱい音がする。口に運ぶとさっぱりした。ああ、確かに、りんごの方がずっと食べやすいやと思う。
もしも母が生きていたら、私にもこんな風に出してくれただろうか。
妙に感傷的な気分になり、しなくていい話をしてしまう。
生まれてすぐの記憶。光がチカチカして。ぼやけた世界。生臭い匂いとガチャガチャと音がした。息が出来ずに叫ぶと楽になったけど泣き止み方がわからなかった。もてあましていると、ふわりと抱かれた。何? わからない。でも不快じゃない。柔らかな感触。ポンポンと触れられている。優しくて安心した。
どれだけそうしていただろう。一瞬のような永遠のような。けれど。冷たくなっていく。どんどん温もりが失われていく。再び騒音に飲み込まれて、私はその安堵感から引き剥がされた。
「あれは母親の手だったと思う」
誰も信じてくれないけど。産まれたばかりの記憶など嘘だ。後から話を聞いて記憶を植え付けたに違いない。そう言われた。そうかもしれな。でも、そうじゃないかもしれない。わからない。ただ、私は覚えている。あの冷たさ。消えていく温もりを。
「冷たくなっていく手が母親との唯一の記憶なんだ」
クーラーを好きな理由。ひんやりとした空気に包まれると思い出すのだ。私にとっての母の記憶。生まれたばかりの私と、消えていく母とが、一瞬交差した体温。
「へぇ、そうか」
洋介は肯定も否定もせず私の髪を丁寧に撫でてくれた。その暖かな手にはまだ不慣れだけれど、いつかこの手が大事なものになればいいなと思った。
続編
Stick one's neck out
2009/10/21