蜜 と 蝶
―蜜03―
意図が読めない。歌えない蜜を傍に置きたがる? 目的があるのだろうけれど、考え付かない。からかっているにしては随分と性質が悪い。
「前にも言ったと思いますが、私は歌えないんです」
「知っていると言っただろう? 」
そうだろうか? 理解しているならどうしてそんなことを言うの?
「本当に、歌えないんです」
もう一度念を押すと「わかっている」とすぐに答えがある。ならば、
「だったら、どうしてそんなことを言うのですか? 歌えない蜜など蝶にとって価値はないでしょう? 私はあなたの役には立てない。それとも私が貴方の元へ向かうことで何か得があるのですか? 」
「君はこの間も『得』と言ったが、それはどうして? 」
「だってそう教えられてきたもの。朝比奈と呉羽は利害関係にある。呉羽が何かをするときは必ず利益があるからだって。だから心を許してはいけないと教えられてます」
男は苦々しい顔をした。素直に答えてしまったけど、呉羽を前に失礼なことを言った。気まずい。早くこの場を去りたい。逃げ出してしまおうか。右足を擦るようにして後退させる。芝生を踏む音がかすかに聞こえる。けど、
「待って。逃げないでくれ…」
掴まれた腕は力任せではなかったが簡単に振りほどけなかった。
――恐い。
この蝶が。
見つめられると気が遠くなる。甘やかな空気を漂わせて誘う蝶だ。惑わされてはいけない。ろくなことにならない。心を開いてはいけない。
「私と来れば一生大切にしてあげるから」
うっとりする声だ。思考を停止させて身を任せたくなるような。だが相手は蝶だ。傍にいては危険。
「……そんなことできるはずない」
「どうして? 」
「どうしてって…」
本気で理解できないという顔をされて私は黙った。私が言っている事の方がおかしい。わからないことを言わないでくれ、と男の目は言っていた。
風が吹き始めた。春先だというのにまだ冷たい。寒の戻りで、昨日から気温が下がった。身震いする。
「蜜が蝶の元へ行くことは禁じられている。宴以外で会ってはいけないし歌ってはいけない。決まりです」
「私は君に歌ってほしいわけじゃないと言っているだろう? それに、君は歌えない」
……。
「私と来れば、もう悲しい思いをせずにすむよ。歌えないことで負い目を感じることもない。悪い話ではないだろう? 」
歌えないなら蝶の傍にいても喉を潰され心配はない。その通りだ。私が蜜になれないことを同情しているの? 憐れんでいる? だからこんな申し出を? 歌えない蜜に優しくしていい気分に浸りたいの? 目的はそういうこと?
「違う。君をバカにしているわけじゃないんだ。言葉が過ぎた…」
私の考えていることがわかったのか慌てて付け足した。そして、私の頬に手を当てた。「泣かないで」と呟きながら目元を拭う。知らぬ間に涙が零れていた。
「私は歌いたいの。だから毎日練習してるのに…。でも、どうしても歌えない。だから、苦しいの」
近頃では「歌いたい」と言葉にして述べることも出来なくなっていた。もしかしたらこのまま歌えないかもしれない。練習しても意味はないのかもしれない。そんな不安がついてまわった。無理に歌わなくてもいいじゃないか。夕凪はそういってくれた。彼なりの慰めと優しさだ。感謝した。でも、私は、
「歌えなくていいと言われても嬉しくないの。私は蜜になりたい…」
歌いたい。私の歌を蜜として食べてもらいたい。願い続けてきた想いが涙と一緒に溢れてとめられなかった。
「ならば、私を愛しなさい」
男は言った。
「蜜は蝶のために歌うものだ。私に蜜を食べてほしいと真剣になりなさい。君が私のためだけに歌うというのなら私が食べてあげるから。私を愛して歌うといい」
「愛す……って、」
そんなことを突然言われても困る。だけど、彼は笑った。
「私が君を愛してあげるから、私の愛をほしがればいい。出来るね? 」
その笑みは妖艶だった。
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―蝶03―
突然泣き出すから慌てた。
彼女がそれほど歌いたがっているとは思わなかった。歌わないですむと言えば喜んでくれると思ったが甘かった。無神経なことを言った。蜜にとっての歌は、私が考えるよりもずっと重要なものらしい。そんなに歌いたいのか。可愛らしい泣き顔を見ながら、愛おしさはこみ上げてくる。ならば方法がなくはない。
私専用に用意された部屋に彩未を抱きかかえて戻った。座敷に腰を下ろしても横抱きにしていると抵抗してくる。だが離すつもりがないとわかると諦めたのか大人しくなった。膝の上に座って私を見つめている。そんな風に見つめられると誘われてる気になる。無自覚なのだろうけど。
「最初に断っておくが、私はいつもこんなことをしているわけじゃない。……他の蜜にはこんな真似は絶対にしない。君は特別だ。いいね? 」
私の言葉に不可思議な顔をする。これから起きることを理解していないのだから当然か。
「今から君を抱く」
雰囲気のない宣告だ。
「――え? 」
「本当はこういう形ではなく、もっとちゃんと君が私を好きになってからしたかったけど……君は歌いたいのだろう? 」
「……歌いたいですけど、」
「だったら私に抱かれなさい」
蝶には禁じ手が存在する。蜜を歌わせるために伽をすることだ。
蝶にとって蜜は「食料」だ。食べ物を抱くなど気持ちが悪い行為だ。甘い囁きで惑わすことをしても手を出すことはしない。蝶の格が上がれば尚更その意識は強まる。己の美貌だけでいかに蜜を歌わせるか。それが蝶としての矜持だ。だがうまく蜜を得られない蝶も存在する。歌ってもらえぬ蝶は蜜を抱く。呉羽の者は体内に羽を宿しているが、それから作った媚薬を蜜に注ぐ。すると蜜は声をあげる。啼かせることで無理やり喉を開かせる。快楽に溺れた蜜は求められるままに歌う。啼きながら歌うのだ――遥か昔にはそういうことがあった。だが現在ではなくなった。呉羽と朝比奈の間に協定が結ばたから。月一で宴が開かれるようになってからはどんな蝶でも蜜にありつける。必要がないのなら戯れでも蜜を抱くなんてことはない。逆に、蜜から言い寄られることがあるが誘い乗る蝶はいないまずいない。元来の蝶は気位が高いのだ。
「君の喉を無理やり開かせる。少し痛いかもしれないが、必ず歌えるようになる。私を信じて? 」
「でも、あの…」
「私のこと嫌い? 」
柔らかな唇を奪う。長めに重ね合わせてみたが強い抵抗はなかった。ただ、抱いている体が硬直しているのがわかる。緊張しているのが初々しくて可愛い。ゆっくりと唇を離すと、不安に揺れる眼差しとぶつかった。だが、拒絶の色は浮かんでいない。
「嫌じゃないね? 」
彩未は頬を朱に染めたが、何も言わなかった。
「いい子だね」
もう一度、今度はさっきより深く口付けた。唇を舐めると体が震える。舌先を口内に進める。私の鎖骨に軽く触れていた彩未の手に力が込められたが構わずに続けた。逃げるように引っ込めていた彼女の舌を捉えて舐めあげると小さな声が漏れた。解放すると何かを訴えるような涙目。官能的だ。彩未の喉を開かすのが目的だが、自分の欲望も煽られていく。こんな形で彼女を奪うことになるのは予想外だが、そんなことはもうどうでもよかった。ただ、彼女がほしい。歌声も彼女自身も何もかも全部私のものにする。その機会が目の前にあるのに躊躇するなど愚かだろう。
2010/3/15
2010/6/9 加筆修正