蜜と蝶

PREV | NEXT | TOP

   夏 越 祓 10    

 
 額を合わせても彩未は俯いて目を合わせてくれない。長いまつ毛が瞬きすると揺れる。泣いていたのでしんなりと濡れていた。頬に触れるとしっとりと柔らかくて気持ちがいい。両手で包み込むようにして軽くつねったり撫でたりした。しばらくすると真っ赤だった顔は治まったが、ぽとりぽとりとまた涙をこぼし始めた。
――誤解が解けて納得してくれたんじゃないの? どうして泣くの?
 涙の理由がよくわからない。どうしていいか戸惑っていると、
「柊夜様は絶対わかってないと思う」
 と言った。
「栞祢さんの名前を出すことが彩未にとって嫌なこだってわかったよ? だからもう言わない。約束する。ちゃんとわかってるよ? 」
「……どうして嫌なのかわかってない」
「比べられてるように感じるからでしょう? けど私は比べるつもりは本当になかったよ? 」
 彩未は顔をあげた。彩未の瞳は黒ではない。色素が薄いらしく吸い込まれそうな淡い茶色をしている。その目が私を捕えて見つめている。
「そんなつもりがなければ許されるの? 悪気がなければ悪くないの?  それを言われた方は比べられたと感じる。どうしてそれをわかってくれないの? 辛い…」
 わかってくれないの? ――そう言われてもわかりようがなかった。私は本当に彩未と栞祢さんを比べてなどいない。むしろ、どうして比べられたと感じるのか疑問だ。彩未がそんな風に感じていたと聞かされて衝撃だった。私はいつも彩未のことを考えていたし、彩未のために行動していた。他の誰かの方がいいだなんて一度たりとも思ったことはないし比べたこともない。だが彩未にとっては違った。
「私はそんなに彩未に辛い思いをさせていたの? 」
「…柊夜様は私にたくさんの贈り物をくださいました。いろんな場所へ連れて行っても下さいました。でも私の気持ちをわかろうとはしてくれない。ずっと寂しかった」
 彩未はそんな風に感じてたの? 彩未のためを思っていた気持ちは全然伝わってなかった?
――ひとりよがり。
 兄や夕凪に言われた言葉が蘇ってくる。二人に言われてしまった時も打ちのめされたが、それでも第三者だ。知らないこともある。勘違いしていることだって。しかし当事者である彩未に言われると堪える。
「それならそうとどうして言ってくれなかったの? 」
「言おうとしても聞いてくれなかった! 」
「いつ言おうとした? そんな素振り見せたことなかったじゃないか」
「そんなことない! 」
 彩未は再び両手で顔を覆って泣きだした。ものすごく感情的になっているのはわかる。こんな風な彩未を見るのは初めてだ。ほとんど絶叫だ。叫びまくっている。悲痛な声は私の心臓を貫くには十分だった。 たまらない気持ちになって、
「彩未……ごめんね」
 告げると、彩未は一瞬泣きやんだが、すぐに目の色が変わり私を睨みつ近くにあった枕を投げつけてきた。
「悪いと思ってないくせに! 謝ればいいと思ってる! もう騙されないっ」
 それから立ち上がって出て行こうとする。当然私は止めた。彩未は暴れた。泣き声は更に増し癇癪を起している。両手首を拘束して落ち着かせようとするが「キー」と頭のてっぺんから出すような悲鳴をあげて拒否した。「あー」と意味のない音を叫びながら、離せとばかりに両手を揺さぶる。
「彩ちゃん。落ち着いて。ね? どうしてそんなに叫ぶの? 」
 だけど私の言葉は全く聞き入れない。「うるさい」と信じられないぐらい乱暴な言葉を放った。完全にキレている。
「彩未。やめなさい」
 夕凪だった。いつの間に入ってきたのか。私から引き離すように彩未を抱き上げた。彩未は夕凪の顔を見るとたちまち「びえぇ」と三歳児のように泣きついた。夕凪は慣れた様子であやす。
「客間に連れて行ってあげなさい」
 声がした。兄だ。栞祢さんもいた。栞祢さんは扉を出た。夕凪はその後に続く。彩未の泣き声が遠のいていく。連れて行かれる。引きとめなくてはいけない。私は立ちあがろうとした。だが体がだるくて動けない。それに誰かが肩を掴んでいる。見上げると心配げな兄の顔があった。
「また熱が上がっている。寝ろ」
「でも彩未が…連れ戻さないと」
 また朝比奈に帰るかもしれない。今引きとめないと、二度と会えない気がする。
「あんな癇癪持ちの我儘な甘ったれがそんなにいいのか? 他にもっとましなのがいくらでもいるだろう? 」
 兄は呆れたような憐れんでいるような顔で言った。
「私は彩未が好きなんです。彩未がいい。あの子でないとダメなんです」
「……そうは言うがお前たちは少しも分かりあえていないじゃないか」
「……」
「夕凪から今回の一連の話を聞いた。正直呆れた。お前も彩未も互いを思いやることが出来ない。どちらも一方通行だ。相手の立場に立って物を見るという発想がない。悪いところがよく似ている。合わせ鏡のようだ。きっとまた同じことを繰り返す。これ以上傷つけあう前に別れた方が無難だ」
「別れるなんて絶対に出来ない。別れるくらいなら死にます」
「馬鹿なことを言うんじゃない」
 兄は激高した。その顔が滲む。
「泣くんじゃない。お前まで子ども返りしたら収拾がつかんだろうが」
 そんなことを言われても涙は勝手に溢れてくる。服の袖を噛むようにして抑えるが嗚咽はこぼれた。それを見て兄は苦々しい顔をした。
「はっきり言ってお前と彩未の組み合わせは最悪だ。よくまぁこの二人が結びついたものだと思う。それを改善するにはよほどの努力がいる。お前には耳の痛い話だろう。それでも聞く気があるなら話してやる。どうする? 」
 それで彩未が戻ってきてくれるなら、私はうなずいた。兄はもったいぶるように大きなため息をついてから話し始めた。
「まず最大の問題点はお前が彩未の話をきいてやれないことだ。これに関してはお前が悪いわけじゃない…言うなれば相性が悪いんだ」
「どういう意味ですか? 」
 相性とかそんな曖昧な言い方をされても納得できない。
「彩未は甘ったれだ。気持ちを汲んでもらうことに慣れて、自分から主張する経験がほとんどない。言うにしても『どうしたの? 言ってごらん? 』とこちらが手を差し伸べてじっくり聞いてやらないと言えない。だがお前は真逆だ。自己主張が強い。言いたいことは言う。自分がそうだから人も言うと思っている。『言えない』ということを理解しない。まずそこが大きく違う点だ」
「……」
「それが顕著にでたの今回の件だ。『一人で出歩かない』という約束。お前は告げたことで『約束した』と思っていた。だが彩未は違う。『約束する』と言ってないから約束していないと思っていた。彩未はその見解の違いを把握していたがそれをお前に伝えることが出来なかった。言おうとしたがその度に『だってじゃない』と怒って聞いてくれなかったと言っている」
 確かに。彩未は私が「約束を破った」と怒ると「だって」と言いかける。素直に謝らず言い訳しようとしていると思って「だってじゃない」ときつく遮った。
「ですがそんな重要なことなら言ってくれたらいいのに……そしたら私だって理解した」
「だからそれが彩未には出来ないのだ。お前なら『だってじゃない』と遮られても分かってもらわねばならないことなら強引に言う。だが彩未は違う。遮られると萎縮してしまう。お前はそういう彩未の性格を把握して向き合ってやらねばならなかったのだ。それが出来なかった。理解してやらなかった。だが、まぁ、お前だけが悪いわけじゃないだろう。すぐに諦めた彩未にも非はある。聞いてもらえないからと黙るのではなく、それでも伝えようと努力する必要はあった。それが歩み寄りというものだ。だがお前たちはお互いにそれが出来なかった。だから溝は埋まらない」
「……」
「すれ違ったまま話が進めば当然摩擦は酷くなる。『約束している』お前の言い分と、『約束していない』彩未の言い分が噛み合うはずがない。お前が彩未の言っていることを理解できないのも仕方なかった。だが『約束していない』という状況に立って彩未の言動を振り返ってみろ。納得出来るんじゃないか? 」
「……約束していなかったのなら、私が怒った理由は理不尽です」
「そうだ。してない約束を盾にどうして怒られなくちゃいけないのか? と思う。更に栞祢を引き合いに出した。どうして比べられねばならないのかと思うだろうな」
「約束していないのであれば、その通りです。『栞祢さんは出来るのにどうして彩未は出来ない? 』という言葉を『比べている』と解釈したのも理解できます…」
「そうだろう。彩未が憤慨して家を出て行くのも納得できるだろう」
「でも私は――」
 言いかけたが兄は右手を私の口の前に持ってきて止めた。
「でもじゃないんだ、柊夜。『でも私は』と言っている以上はわかり合うことはできない。相手がどうなのか、それだけを考え寄り添う。理解を示す。理解していることを相手に理解してもらう。その後で、自分の気持ちを伝える。それが順番だ。人を思いやるというのはそういうことだ。お前はそれがない。『私はこう』ということを先に主張したがるからうまくいかない。まず聞く。順番を間違えるな」
「……」
「お前がそうやって理解を示せば、心ある相手なら応えてくれる。お前の言い分も聞こうとしてくれる。お前が聞いているのに、聞いてくれない相手ならその程度の人間だと割り切ればいい。相手にする必要はない」
 そうなのだろうか。私はどう答えればいいかわからずに兄の顔を見つめた。兄は少しだけ困った顔をした。
「お前が彩未と一緒にいたいならそれをしなければならない。出来ないのであれば、誰か別の、気持ちを汲むなんて面倒なことせず、言いたいことをちゃんと言ってくれる相手を見つけるしかない。私はそっちの方がいいと思うぞ。人の性格は簡単にはかわらない。無理しても疲れるだけだ」
 でも私は、
「彩未とずっと一緒にいたい」
 それは絶対変わらない気持ちだった。



2010/7/9

PREV | NEXT | TOP
Copyright (c) アナログ電波塔 All rights reserved.