蜜と蝶
夏 越 祓 04
朝比奈からの帰り雨が降ってきた。頬を撫でるような柔らかでしっとりとした霧雨だ。夏至を過ぎたばかりでまだ日は長い。それでも呉羽に着く頃には闇夜が迫ってきていた。馬を引きながら歩いてきたから時間がかかったのだ。乗ってくれば良いのだが、気力がない。落馬して骨でも折ったらそれこそ見るに堪えないので引いて歩いてきた。
その間も、考えるのは夕凪の言葉だ。
『お前は自分の傲慢さを認めるべきだ』
失礼な奴だ。あの男は彩未と私のことを反対している。私を疎んでいる。故意に嫌なことを言ったのだ。気にすることはない。私は悪くない。何度も唱えるが晴れない。心が打ちのめされた。理論武装し理屈をつけても無意味だ。傷ついた気持ちはなくならない。
それからもう一つ。『彩未は怒られたのが気に食わなくて帰ったわけじゃない』と言っていた。怒ったことが理由ではないなら何が気に障って「帰る」など言ったのだ。考えても思いつかない。彩未は幸せそうだった。不満を言ったこともない。そりゃそうだ。私は出来る限りのことはしていた。彩未に強いていたのは「一人で外出しない」というそれだけだ。それも「外出するな」と言っているわけじゃない。行きたいところがあるなら私が連れて行ってあげるから、と申し出ているのだ。それさえ守ってくれたら、後は好きなようにさせていた。ここの暮らしに満足していたはずだ。わからない。理解できない。彩未の気まぐれとしか思えない。
歩きにくい山道が終わり、整備された道に入る。呉羽の敷地内に入ったのだ。
肉体の疲れは限界に近かった。歩いてきてよかったかもしれない。これだけ疲れていれば眠れる。全てを忘れて寝ってしまいたい。それが逃避であってもかまわない。だが、こういう時に限って普段会わない人物に出くわすもので……。
「馬の散歩でもしてるのか。それなら晴れた昼間にしろ。風邪をひくぞ」
兄だった。差していた傘を半分傾けてくれた。
こんな外れで兄こそ何をしているのか。聞くと昨夜、兄の屋敷に迷い込んだ猫がいて弱っていたので介抱していたが、夕方過ぎから姿をくらましてしまった。元々野良猫だったし放ってほいても問題はないが栞祢さんが気にしているから探して歩いているうちにここまできたそうだ。
「まだ子猫だったし、雨も降ってきたからな」
呉羽の当主が野良猫を探して歩き回っているとは……こんなことが大老会にでも知れたら大問題に発展しかねない。もっと自分の立場をわきまえたらどうか。だが兄はわき道を灯で照らしながら言った。
「そうなったら、お前に当主の座を譲って私は隠居するよ」
「バカなことを言わないでください」
「そうでもないぞ……おお、いた」
兄は傘を私に押しつけてぬかるみにはまり泥だらけになっている子猫を拾い上げた。
「まったく、こんなところまでよく来たもんだ。栞祢が心配している。帰るぞ」
子猫は大人しく兄の腕におさまって小さく啼いた。
栞祢さんが心配しているのは本当だろうが、兄もまた気にしていたのだろう。昔から動物好きだった。厳密には動物の方が兄を好きで懐いてくるので仕方なく構っているうちに情が沸いてしまうのだ。
「それでお前はこんなところで何をしているんだ? 」
子猫の顎を撫でながら言った。気持ちよさそうな声を上げるが撫でるのをやめるともっとしてくれとばかりに兄の人差し指を引っ掻いた。加減してじゃれているらしく痛くはないみたいだ。なかなか賢い子猫だ。
質問の答え方に悩む。兄と彩未は相性が悪い。会うと言い争いになる。概ね兄が悪い。他の人間には寛容なのに彩未にだけ敵対心を出す。最近では暴言を吐くことは無くなったが「彩未が朝比奈に帰った」と告げると喜ぶに違いない。いずれバレるにせよ今はそんなこと聞きたくない。黙っていると兄が口を開いた。
「そういえばお前のところのバカ蜜はなかなか度胸があるな。それは認めてやる」
「なんですか、いきなり」
兄の方から彩未の話を持ち出してくるとは思わなかった。バカ蜜と言うのはやめてくれと言っているのにそこは相変わらずだが……。
「昨日、栞祢のところに料理の作り方を教えてくれと来たそうだ。一人で買い物までしてきたと栞祢が驚いていた。私も感心したぞ。栞祢はここにきて三年以上経つのに、未だに一人で出歩けない。その点、お前のところのバカ蜜は立派なものだ」
それで大喧嘩して彩未は朝比奈に帰りましたと言えば兄はどんな顔をするだろう。……いやそれよりも、
「兄さんは栞祢さんが一人で出歩いてもいいのですか? 」
「どういう意味だ? 」
「一人で出歩かないように言っているのではないのですか? 兄さんがそう言ってるから栞祢さんは兄さんと一緒でないと外出しないのだとばかり思ってましたが……」
「まさか。私は栞祢に一度も「外に出るな」など言ったことはない。むしろ一人で出歩いてほしいぐらいだ。ここにきて随分経つのにあの子ま未だに慣れない。一人で買い物にも行けないなど不便だろう。もっと慣れてもらいたい」
意外な答えだった。
「一人で出歩いて平気なんですか? もし飢えた蝶に狙われたらとか心配じゃないんですか? 」
「狙われる時は家にいても外にいても狙われる。それに今は宴が開かれている。飢えた蝶などいない。そうだろう? それよりも私はあの子にここの生活を楽しんでもらいたい。いつまでもびくついていられるのは辛いもんだぞ」
「……」
「だが栞祢はいくら言っても家に籠ってばかりだ。よくそれでモメたな。私はただ栞祢に楽しい生活をしてもらいたい一心だったんだが、栞祢にとっては重圧だったらしい。ある日『私にはあなたの望むような振る舞いは出来ません。そんなに言うなら活発な子を傍に置けばよろしいじゃないですか。私は帰ります』と言われた。あの大人しい子がそんなことを言うなんてよほど腹にすえかねたのだろう。驚いたよ。だが冷静に考えれば最もだ。人には性格というものがある。私はあの子にそれを変えろと強要していたんだ。そんなつもりはなかったが、言われた栞祢にとっては気分がいいものではない。それで初めて私の想いは独りよがりだったのだと気付いた。まったく今思うととんでもないことを言っていた。栞祢なりにここでの生活を楽しんでいたのに私は自分の価値観を押し付けた。あの子にとってみたら責められた気分だったのだろう。むごいことをしていた」
――私の想いは独りよがり
その言葉が頭にこびりついた。今日、二度目だ。だが、私は納得できなかった。
「兄さんは栞祢さんのためを思って言っていたのでしょう? その気持ちをわからないで怒る栞祢さんにも問題があると思いますが…」
「それは違うぞ。相手のためを思っていたからって何もかもが許されるわけじゃないだろう? 」
「ならば相手は自分が気に入る好意だけを受け取り、気に入らないものは怒ることになるます。それは勝手というものではないですか? 」
「……まぁ、確かにそういう見方をすれば勝手だ。だが、する方だって勝手にしているわけだろう? 頼まれたわけじゃなくしたくてしているんだからお互い様だ」
「ですが、」
「柊夜」
兄は制するように言った。
「一体どうしたんだ。やけに絡むな。あのバカ蜜と何かあったな」
「……そんなことは…」
「まぁ、話したくなければ聞かないが……お前のような考えでは誰ともうまくはいかんぞ。見返りを求めることがいけないとは言わない。だがお前のは見返りとは違う。『自分はこれだけしているのだから全部感謝して従え』と言っている。お前の方に思いやりがないのに、相手にそれを求めるのは無茶というものだ」
「……」
「自分がどれだけしているかではなく、相手がどれだけしてくれているか考えてみろ。そうしたらそんなことを言えなくなる。あのバカ蜜はとてつもない犠牲を払ってくれているだろう? 」
「彩未がですか」
「そうだ。考えてみろ。これはバカ蜜だけではなく栞祢にも言えることだが……あの子たちはたった一人で、他に誰一人頼る者もいない中、ここへ来た。親や友人と別れてそれまでの生活を全部捨ててだ。それは並大抵の覚悟ではない。だがそのことで恨みを言ったことがあるか? 恩着せがましいことを言ったことは? 」
「……ないです」
「そうだろう? その犠牲を考えればどんなに尽くしても足りない。せめて私だけは何があっても味方でいてやらなくてはならない。なのにその私がああしろこうしろと言って追い詰めた。これを過ちと言わず何という? それでもお前はまだ自分は相手のためを思っていたのだからそれを理解しない相手が悪いというのか? 」
「……」
「だから私は栞祢に無理強いすることをやめた。だが不思議なものだな、バカ蜜が一人でちょろちょろするをの見て思うところがあったのか、出掛けてみる気になったらしい。変わる時はそうやって自然と変わるものだ」
2010/6/28
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