蜜と蝶

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   夏 越 祓 05    

 
 馬の手綱を引きながら預かったままの傘を差しかける私と、泥だらけの子猫を抱えながら灯で足元を照らす兄と連携して歩く姿はさぞや奇異だと思う。だが兄は愉快そうだ。「お前とこんな風に連れだって歩くのも悪くない」と述べた。そんなこと言われるとは思ってもいなかったので「そうですね」と適当な相槌をしたが「お前もそう思うか」と納得した。
 変わったなと思う。
 兄は身内贔屓を差し引いても大層恵まれた容姿をしていたが、感情を出さないので冷たく感じられた。本来は優しい気質の人だが誤解され恐れられていたのだ。私はそれを歯がゆく思っていたが、当の本人はは呉羽当主としてそれぐらいの方がいいと思っていた節がある。それがこの三年で随分柔和な顔をするようになった。伴って当主としての名声は損なわれるどころか高まった。心の分からぬ者よりも、心の分かる者の方が信頼出来るものだ。
 しばらく行くと兄の家が見えてきた。門先に灯りがある。人が立っているのだ。それを見つけるや大人しかった子猫が啼き始め兄の腕から抜け出そうとした。どうやら門先へ向かいたいらしい。近づいていくと人影は栞祢さんだった。
「どうなされたのですか」
 兄の泥だらけの姿を見て栞祢さんは声をあげた。
「これがぬかるみにはまっていて助けるときに暴れて泥水を引っかけられた」
 手の中では子猫が更に暴れて栞祢さんの方へ前足を伸ばしていた。だが兄はけして離しはしなかった。
「こら。やめんか。そんな泥だらけで栞祢に近づこうとするんじゃない。汚れるだろうが。風呂に入った後だ」
 しかし子猫は諦める気はないらしく執拗に暴れて啼いた。
「そんなに栞祢がいいのか。お前を探して助け出したのは私だぞ」
「恩着せかましいこと言う人は嫌よね? 」
 栞祢さんが言うと子猫は同意するように懇親の力を込めた大声で啼いた。兄は複雑な顔をしたがそれについては何も言わず私を振り向いて「気をつけて帰れ」と告げると子猫と屋敷に入って行った。残った栞祢さんが私の見送りをしてくれる。傘と灯と馬の手綱とを一人きりで持てるかと心配してくれたが、雨はほとんど止みかけだったので灯だけを貸りることにした。
 それではと述べて一歩踏み出すと栞祢さんは思い出したように
「そういえば、昨夜の水無月はいかがでしたか? 」
 一瞬わからず奇妙な間が出来た。それから「水無月」というのが彩未が作っていた三角形の菓子であることを思い出した。
「ええ、初めてみる菓子だったので何かと思いました」
「ふふ。驚いたでしょう? 朝比奈ではああやって六月の終わりに厄祓いをするんです」
 厄祓い……あれにはそういう意味があったのか。
「とても美味しかったですよ」
 栞祢さんの顔を見ていると食べなかったとは言えず自然と言葉にしてしまった。私の嘘に栞祢さんは安堵したような笑みを洩らした。
「よかったです。昨日あやちゃんとっても頑張っていたんですよ。ここで一緒に作ったものを持って帰ったら? と言ったのですが『柊夜様と初めて過ごす夏越祓の夜だから一人でつくったものを食べてもらうの』と張り切ってました。残り半年の無病息災を願ってたくさん愛情をこめて作ったんでしょうね」
 栞祢さんがこんな風に自分から話題を提供してくることは極めて珍しい。こんな風に饒舌になるのも。初めてだ。それだけ彩未が懸命だったので気にしてくれていたのだと思った。
「ええ、帰宅すると嬉しそうに私の手を引いて台所へ連れて行ってくれました。ちょうど作り終わったところだったらしくまだ作業台に置かれた状態でしたが綺麗に並べてありました」
 その後、私が叱りつけなければ、栞祢さんに聞いた内容を彩未の口から聞けるはずだった。『今日は夏越祓の夜と言って朝比奈では盛大にお祝いするの。だからね、柊夜様の健康をお願いして作ったの』そう言って笑ってくれたのだろう。あの時、彩未は言葉を言いかけていたのだ。それを私が遮り怒った。
「柊夜様……どうかされました? 」
「いいえ、なんでもないです」
「……そうでございますか? 気をつけてお帰り下さいませ」
 あやちゃんによろしくと付け足して栞祢さんは見送ってくれた。私はうなずいて誰もいない家に向けて出発した。
 兄の家に戻るよりも帰宅した方が近い場所まで来ると止みかけた雨が再び降り始めた。それも何の嫌がらせなのかと思うほど強く打ちつけてくる。冷え切った心と体には堪えた。弱り目に祟り目とはこのことかと自嘲めいた笑いがこぼれる。何もかもがつまらなく思えていっそうここで横になり眠ってしまおうかと思った。そんな不穏に気付いたのか数歩後ろを大人しく引かれていた馬が鼻先で私の背を押した。生温かい鼻息が襟元にあたる。この馬は彩未が大変可愛がっている馬だった。駿馬ではないが愛嬌がある。私がいない日中はこの馬の世話に最も時間を費やすらしく、馬も彩未に懐いていた。そのせいか私と彩未がいたら彩未の言うことを聞く。「お前の主は私だ」と言っても知らぬ顔だ。
「励ましてくれているのか? 」
 馬は鼻息荒く吠えた。それは励ましと言うより叱咤のようだった。
 帰ると屋敷は真っ暗だ。当然だ。誰もいないのだ。彩未が来てから使用人には暇を出した。彩未が自分ですると言ったからだ。広さもあるし一人では大変だ。何もせずにのんびりしていたらいいと言っても、他にすることがないからやるんだと言い張った。だからまかせることにした。彩未は整理整頓は得意らしく常に綺麗に片付いていた。ただし、例外がある。彩未の部屋は物で溢れかえっていた。私が彩未にとあれこれ買ってきて置き場が無くなったのだ。
――だがそのどれも彩未がほしいものではなかった。
 何を間違ってしまったのか。
 彩未の部屋に入る。服、鞄、宝石。私が贈ったものが残されていた。彩未は出て行く時、一つも持っていかなかった。自分が着てきた服を着て、昨夜作った水無月だけをお重に詰めて帰って行った。
『贈り物などほしくはなかった』
 そう言われているみたいだ。
 事実、彩未が「ほしい」と物をねだったことは一度もない。言われる前に先回りして買い与えているからだと思っていい気になっていた。だが振り返ってみると彩未は装飾品を好んでつけることはなかった。出かける時も「こないだ買ったものを着けてみたら? 合うと思うよ」と言うと嬉しそうに身につけてはくれたが、夕凪が言ったようにそれは私が似合うと言ったから喜んでいただけで、彩未自身は興味がなかったように思う。少なくとも率先して着用はしていなかった。しっかりと見ていれば簡単に導き出せた。現に、私は今こうして理解している。だけどしなかった。喜んでくれていたから満足していると思っていた。彩未を理解していると信じていた。だが蓋を開けてみれば何一つわかっていない。今日まで彩未が好きな色さえ知らなかったのだ。大事にしようと思っていたし、実際に大切にしているつもりでいた。だけどちっともそうじゃなかった。惨めだった。
――彩未に会いたい。顔が見たい。
 だが叶わない。彩未は今、朝比奈にいる。愛想を尽かして出て行った。ここにはいない。いなくなった。ならばせめて夢でもいいから会いたい。そんな祈りを唱えながら昨夜彩未が泣きながら眠ったはずの寝具に横たわり瞼を閉じた。



2010/6/29

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