蜜と蝶
夏 越 祓 07
彩未が最初に覚えた言葉は私の名前だった。「う」が上手に言えずに「ゆなぎ」だったが。懐いてくれているなとは思っていたが、まさか私の名前を真っ先に言うとは正直驚いた。それが理由と言うわけでもないが、私は彩未が可愛くてしかたなかった。家が隣というのもあり、時間がある限り彩未の面倒を見ていた。彩未は体が弱く、家からほとんど出れなかったので遊び相手もいない。だからますます私に懐いた。可愛がり過ぎた結果、彩未の家に行ったら最後、私を離さなかった。彩未が起きている間に帰ろうとすると後ろを追いかけてきて「ゆなぎー、ゆなぎー」とおいおい泣くのだ。
「そんな我儘いったらもう来てくれないわよ? ちゃんとお見送りしなさい」
彩未の母親が言うがまったく泣きやまない。「仕方ない子ね」とため息をつきながら抱き上げようとするがそれさえも拒んで玄関先に座り込んで「びえぇ」と泣き続ける。そんな大声で泣いていたらまた喉が腫れて熱がでるだろうに…。
「彩未。いい加減にしなさい」
母親は叱りつけたが当然逆効果だ。あまりにも泣くので過呼吸になり肩があがっている。
「ごめんなさいね…ほっといていいからね。甘やかすと癖になるから」
母親の言葉に傷ついたのかもっと泣きだした。
「ゆなぎー」
「……」
これだけ呼び止められてほおっておけるわけがない。手を出すと彩未はぐずりながらも立ちあがったので抱きあげてやる。
「お話してあげるから、ねんねするんだよ? 」
彩未はあっさり泣きやんでうなずいた。今泣いたカラスがもう笑った。まさにその通りで、鼻歌まじりに「ねんねね〜」と繰り返している。自分が寝るのだと理解しているのか怪しいが、ご機嫌な彩未を連れて寝室に行く。寝具に横にして掛け布団をかけて彩未の好きな浦島太郎(正確には乙姫様が好きらしい)の話をする。寝付きがいいので乙姫様が登場する前に眠りに落ちた。安心しきって眠る彩未の顔はあどけなく愛くるしかった。だが、一度そうすると癖になるというのは本当で、以降、私が彩未の家を出るのは彩未を寝かしつけてからとなった……。
それはしばらく続いたが、彩未が三歳を迎える頃にはおさまった。私に飽きたというわけではない。自由に歩けるようになると、今度は自ら私の家にやってくるようになったのだ。朝早くからきて私が手習いに行くのを見送って、帰ってくる頃また家の前でじっと待っている。遊んでくれると思っているのだろう。無邪気に信じているので無視できない。結局面倒をみることになる。私とて友人と遊びたいのに……と思ったりもするのだが、彩未の嬉しそうな顔を見るのは好きだったので優先した。それに似たような立場の拓帆がいてくれたのも大きかった。拓帆は栞祢の兄だ。栞祢は六歳で、手習いを始めたばかりだったが大人しい性格のため周囲に馴染めずに家に帰ってきても誰とも遊ばない。優しい気質の拓帆は栞祢を心配した。自分一人だけ遊びに行く気にはなれず家にいて栞祢の面倒をみていた。私は彩未を連れて拓帆宅を訪れる。
彩未は栞祢の顔を見ると「ねーしゃま」と飛びついていく。 拓帆にはまったく懐かないが(拓帆が抱き上げると大泣きする)栞祢には大変懐ついたし、栞祢もまた彩未を可愛がった。それまで自分が最年少だったので小さな子供に出会ったことがなくお姉さんになったようで嬉しかったのだろう。
自分より弱い者を見るとしっかりするというのは事実のようで彩未を庇護してやらねばならないという気持ちが芽吹いた。栞祢にとっていい兆候だった。一度など熱を出した彩未のために家から結構な距離にある畑へ人参を取りに行った(栞祢は人参嫌いで、食べさせるために「これは薬だ」と言って聞かせられていたため、彩未にも効くと思っての行動だ)。家から出歩かない栞祢が一人きりでそんな遠くまで行くなど周囲を驚かせた。
それにしても栞祢のことは「姉様」なのに何故私は「兄様」ではなく名前を呼び捨てなのか。彩未はどうも私を年上とは認識していない気がする…。
「あやちゃん、今日はどんなあそびする? 」
「だっこ」
だっこは遊びではないだろう…。そんな噛み合わない会話を拓帆と二人で見つめるのが日課だった。
――あの頃は平和だったな。
文が届いた翌日。彩未を柊夜の元へ送って行く道中でのことだった。思い出されるのは昔の出来事ばかりで、さながら娘を嫁にやる父親の心境だ。考えてみれば彩未が柊夜の元へ行った時は彩未は正気ではなかったし、強引に連れて行かれたようなものだ。だが今回は違う。彩未の意志で戻るのだ。その差は大きい。
彩未の私に対する感情が恋心ではないことはわかっていたし、いつか誰かが彩未を連れていくだろうと覚悟はしていた。それを寂しいとは感じるが納得もする――私の心が導き出した答えだった。事実、彩未に幸せになってほしいと思うがそこ止まりだ。この子が幸せになるための協力はいくらでもできると思えたが、私の手で幸せにしたいとは思えなかった。その役目は私ではないと不思議と確信していた。だがその相手がどうしてよりによって蝶なのか。それも本家の次男坊。ろくな噂を聞かない。わざわざ難しい相手を選ばずとも他にいるだろうと思えてならない。そうでなくとも彩未は人付き合いが下手なのだ。案の定意志の疎通がうまくいかず誤解とすれ違い続けて泣かされて帰って来た。だがそれでも彩未は柊夜の元へ戻ると言う。彩未の幸せはあの男の傍にあるのか……。
柊夜の家に着いても彩未は最後の一歩を踏み出せずに門先を見つめたままで動かなかった。ここまできて何を戸惑う必要があるのだと言ってしまいたいが、当人にとっては思うところがあるのだろう。声をかけると神妙な顔をして私を振り返った。
「入らないの? 」
「……」
「柊夜が好きなんだろう? だったら自分の気持ちは伝えなければいけないよ。彩未は何も言わず悲しいからって朝比奈に帰って来た。柊夜が話を聞いてくれなかったというが、聞いてくれなくても言うべきことを言う強さを持たなければいけない。相手の言葉を遮ってでも自分の気持ちを伝えることも大事だ。聞いてくれるのを待っているだけではいつまでたっても何も変わらない。彩未が最初にここに残ると言った時『自分の気持ちを言えるようになる』と私と約束したよね? でも結局それが出来ずに逃げ帰って来た。でもそれで後悔していたんだろう? だったらもう逃げたらいけない」
彩未はじっと私を見つめていた。
「夕凪……」
私の名を呼ぶ彩未は幼い頃のままだった。だがもうあの頃とは違う。いつまでも子どものままではいられない。それぞれの道を歩んで行かなければならない。
「ほら、柊夜が待ってる」
彩未の背を押してやると一歩歩みを進めた。小さな声で「ありがとう」と聞こえた。玄関に入って行く後ろ姿を見つめながら、この子の未来が明るいものでありますようにと祈った。
2010/7/4
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