蜜と蝶
夏 越 祓 08
朝比奈の屋敷だった。渡り廊下に立っている『私』が見える。自分の姿を他人のように眺めるなどおかしな光景だが驚かなかった。これは夢だ。夢だとわかる夢など奇妙だが間違いない。だからここではなんでもありなのだ。納得できていた。
夢の中の私は突っ立って何をしているのかといえば、じっと庭を見つめている。視線の先には彩未がいた。宴で最初に彩未を見た日の記憶が夢になって浮上してきているのだとすぐにわかった。
――それにしてもなんて寂しい顔をしているのだ。
空を見つめている彩未の横顔は凍りつくほど寂しい。悲しいことを少しも隠さない表情。本音の顔だ。きっとこの顔は誰にも見せないだろうと思われた。それを見てしまった。だから責任をとらなくてはいけない。義務感。変な話だけどあの時私はそう感じた。使命感が沸き起こった。だがそれをすぐに打ち消した。相手は蜜だし、関係ない。一瞬同情めいた感覚に陥っただけだ。あんな顔を見れば誰だってどうにかしてやりたい気になる。衝動にすぎない。忘れていく感情だと自分に言い聞かせた。
だがそれからも私は宴の度に彩未の姿を探すようになった。
あの悲しい顔を見つめてたまらない気持ちになった。この子が泣いていると悲しい。この子にこんな顔をさせてしまっていることが辛くてたまらない。それは一過性の同情などではない。次第に分かり始めた。可哀相とか憐れに感じるとか他人事として見ているわけではない。自分の身が張り裂けるような痛烈な悲しみを感じている。でも私は何もしなかった。ただ見ているだけ。「この子が幸せになればいいなぁ」と願うようになってはいたが、具体的に何かすることはなかった。
だけど。
あの日。彩未が夕凪といるところを見た。初めて笑っている姿だ目撃した。楽しげな微笑んで……瞬間に頭に血が上った。楽しげにしているのに腹が立った。幸せになればいいと願っていたはずが嬉しそうな顔を見てどうにかなりそうだった。それでようやく理解した。私は自分がこの子を幸せにしたいのだ。他の人間の手によって幸せになる姿など見たくない。その役目は私の物だ。誰にも譲れない。
その後、幸運にも彩未は私のところへ来てくれた。
嬉しかった。幸せだった。絶対に失いたくないと思った。そのためには彩未を幸せに出来るのは私なのだと証明しなけれればいけない。誰にも奪われないように私以上に彩未を幸せに出来る者はいないと思わせなければいけない。認められたら彩未はずっとここにいてくれる。必死になった。彩未のために考えつくことは全てした。喜びそうなものを贈ったり、行きたいところに連れて行き、常に彩未のことを想っていた。これだけしているのだから大丈夫だと思った。でも、彩未はいなくなった。誰かに奪われたわけじゃない。彩未本人の意思で去って行った。どうして? 私は何を間違えた?
――冷たい。
額にひやりとした感触。誰かの手だ。気持ちがいい。目を開けると心配げな顔があった。
「熱は下がったみたいですが気分はどうですか? 」
――彩未。
声を出そうとしたが喉が痛くて躊躇われた。彩未は今度は私の喉に触れた。
「扁桃腺が腫れて高熱が出てました」
痛みは炎症の後遺症だ。喉がイガイガする。
朝比奈に行った帰り雨に打たれたが、家に着いても乾かさずにそのまま寝入ったせいで風邪を引いたのだ。彩未は兄からの知らせを受けて心配して様子を見にきてくれたらしい。
「風邪がうつるかもしれない」
――だから傍に近寄らない方がいいよ。
そう続けなければならない。だが私の看病のために戻ってきたなら、必要がなくなれば朝比奈に帰ってしまう。怖くて最後まで自分の言葉では言えない。彩未の手は私の喉に触れたままだったから、震えているのが伝わったと思う。
「ここにいます」
風邪を引いた時は心細くなるでしょう。私はそうでしたから。彩未は言った。それから今度は丁寧に私の髪を撫でた。幼い子どもにするような仕草だ。こそばゆい。だけど、そうしている彩未の表情は寂しげだった。手を伸ばす。頬に触れたかったけど躊躇われた。彩未は私を見つめたまま動かなかったのでもう一度試みる。手の甲でそっと触れる。
「彩未……」
言葉にすると胸の奥からじわりとした温もりが滲んできた。
「戻ってきて? 」
何も言ってくれない。
「私のこともう嫌い? 」
彩未は首を振った。
「じゃあ、戻ってきてくれる? 」
「……柊夜様は栞祢姉様がお好きなのでしょう? 私は栞祢姉様の代わりなのでしょう? そんなのは辛い」
表情は固かった。冗談を言っているわけではない。眼差しは真剣だった。予想外すぎて反応出来ずにいると彩未は俯いた。沈黙を肯定だと解釈したのだと思い慌てて訂正した。私が好きなのは彩未だ。栞祢さんではない。どこから私が栞祢さんを好きだと出てきたのかわからない。
「どうして私が栞祢さんを好きだなんて思ってるの? 」
「だって柊夜様はいつも言う。『どうして彩未は栞祢さんのように出来ないの? 』って言う。栞祢姉様のことがお好きだから栞祢姉様ようになってほしいんでしょう? 」
彩未は声を上げて泣き出した。これまでもよく泣いていたけどじっと堪えるようにして涙を零すだけで、こんな風に感情を露わにして泣きじゃくることはなかったから吃驚した。反射的に飛び起きて抱きしめると彩未は嫌がらなかったけどますます大声で泣いた。「私が好きなのは彩未だよ。栞祢さんじゃないよ」と言っても「嘘だ。信じない」と否定した。本人が言っているのにどうして否定するのか…。
「どうしてそんな風に解釈するの? 確かに私は何度か栞祢さんのように大人しく家にいてほしいと言ったことはあるけれど、栞祢さんが好きだから栞祢さんの真似をしてほしいと思って言ってるわけじゃない。曲解もいいところだ。それにそもそも彩未が私との約束を破って一人で出歩いたのが悪いんでしょう? 約束を守っていたら私はそんなこと言わなかった」
「してない! 約束なんてしてないの 」
意味がわからない。約束をしてない? そんなわけない。だって、
「私は何度も言ってたよね? 一人で出歩かないように言ったでしょう? 約束したじゃないか? どうしてそんな嘘つくの? 」
「嘘なんてついてない。私は一度もわかったなんて言ってない。約束するなんて言ってないの」
彩未は叫ぶように言った。……。確かに「約束します」と言われたことはない気がする。だけどそれならそれで、
「じゃあ、どうしてそう言わないの? 約束なんてしてないって一度も言わなかったじゃないか」
「何度も言おうとしました。でもいっつもとっても怖い顔して『だってじゃない』って怒って聞いてくれなかった! 柊夜様は私の話はちっとも聞いてくれない。私のことを見てくれない。栞祢姉様のようになれとしか言わない」
とんでもない誤解だ。
「私は栞祢さんのようになれなんて言ってない」
「言った」
「言ってない。栞祢さんのように家にいなさいと言っただけだ」
「同じことだ」
「全然違うでしょう? 」
「違わない」
「違う」
「違わないの! 比べられたくない」
「比べてない」
「比べた。それで栞祢姉様の方がいいって言った」
「そんなこと一言も言ってないでしょう? 彩未の勝手な解釈だ」
「勝手じゃない」
そこまで言うと再び大声で泣き出した。
「泣いてもだめだ。彩未が悪い。私は彩未が好きだと言ってる。ずっとそう言ってる。それを疑って、よりにもよって私が栞祢さんを好きだと言い出すなんて考えられない」
「私は悪くない。栞祢姉様と比べる柊夜様が悪い。比べられたくない。私だけを見ていてほしい」
「見てるでしょう? 私が好きなのは彩未だけだ」
「じゃあどうして栞祢姉様と比べるの? 」
「だから、比べてないって言ってるでしょう? ただ彩未は栞祢さんを慕っているから、栞祢さんはしていると言えば自分もしようと考えるんじゃないかと思って言っただけだ。栞祢さんのようになってほしいなんて思ってるわけじゃない」
「柊夜様にそんなつもりはなくても、私には比べられてるように聞こえる。そう言われるのは嫌だ」
――……。
「彩未、栞祢さんに焼き餅やいてるの? 」
ふと思った。何度も違うと言っているのに聞き入れず、やけにこだわる。でもそれは嫉妬しているのであれば合点がいく。彩未は真っ赤な顔をしていた。
「違います……」
否定はするが実に頼りない。何よりその赤い顔が図星の証拠だ。そうとわかれば、
「私が悪かった。無神経だった。もう言わない。だから許して? 」
彩未は何も言わなかった。私は彩未を膝上に抱きよせた。抵抗せずに大人しく抱かれた。そのまま額を合わせる。彩未は赤い顔でふてくされたように押し黙っていた。
2010/7/7
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