蜜と蝶
蝶 と 蝶 11
――道を違えた。
朝椰の言葉がこびりついた離れない。今もまた、宴の最中だというのに蜜を食らう気にもならず、誰にも部屋に入らせず考えている。ずっと。
違えてしまった……。
ここに来るときもそうだ。朝比奈には本家・御三家……と順に行列をつくり向かう。その際、環は私に挨拶するために傍に寄ってくる。鈍臭いのかなかなか探し出せない。いつだって私の方が先にキョロキョロしている環を見つける。だが声をかけたことはない。気づくまで待つ。やっと見つけ出したとき、パッと顔を綻ばせて近寄ってくる。そして嬉しそうに「ご機嫌麗しゅう、草寿様」と微笑むのだ。それは、それは、嬉しそうだった。何がそんなに嬉しいのだ? と聞きたいくらい。だが、今日はこなかった。鴇塔の両親の傍にいるのを見た。私のことを探す素振りはなかった。もう、ないのだ。今度環が探すのは私ではない。
――これから先、環の傍に私以外の男が立ってしまう。
別に環と婚約破棄をするぐらいたいしたことない。そう考えていたのに、他の男のものになると思うと息苦しい。胸が、痛い。無数の刺が心臓を貫いて、呼吸するたびに血を流す。嫌だ。駄目だ。そんなこと、あってはならない。環は私のものだ。ずっとそうだったのだ。環には私。彼女自身、それを願っていた。私だってそうだ。どんな女を抱こうとも、最後には環を嫁にすると決めていた。先延ばしにしていたのは環を嫌っていたからじゃない。疎んでいたのは雁字搦めの未来だ。彼女を受け入れることは、重責を担う未来を受け入れることだったから。少しでも自由でいたかった。出来るだけ長く。家の為に人生を捧げる。ギリギリ間際まで遠ざけたかった。それまで自分を最優先しても罰は当たらないだろうと思っていた。環を嫌っていたわけじゃない。けして、嫌ってなどいなかった。
――取り戻さなければ。
そうだ。まだ、間に合う。幸い、環に新しい相手はいない。鴇塔も私との復縁を望むだろう。悪い話ではない。環が他の男を選んでしまう前に手を打てばいい。大丈夫。どうにかなる。みっとみないがそんなこと言ってられない。座敷に横になり目をつぶる。頭を空っぽにして、瞑想する。これからやらなければならないことを、整理していく。だが、
――環?
声がした。ような気がする。幻聴? 思いつめすぎてついに幻聴まで聞こえ出したか? ここは本家・御三家専用の離れだ。環がいるはずない。だけど、やはり聴こえてくる。廊下からだ。笑い飛ばしてしまうにはハッキリしすぎている。何より、環一人ではなく、誰か男の声もする。だから、念のため確認してみることにした。空耳ならそれでいい。誰も見ていないのだし。そっと襖を開けて、
――……。
『男の人と手を繋いで歩いたのはじめてよ』
『そう? じゃあ、これからきっと出てくるよ。環を大事にして、手を引いて歩いてくれる男がきっと出てくる。その時に緊張しないように練習だと思えばいいだろ? 』
『出てくるかな……』
『出てくるよ。出てこなかったら……私がなってあげるから』
『あなた蜜じゃない』
『問題ないだろう。呉羽本家のご兄弟様のお相手は両方蜜だ』
『ふふ。それもそうね』
環と男――確か夕凪とかいう歌がうまいので評判の蜜だ――が廊下を歩いていく。楽しそうに笑って。それも手まで繋いでいる。おまけに環の目は腫れていた。泣いていた? どうして泣いた? 男と二人きりの部屋にいて泣くなんて……それは、
――バカな。
環はそんな女じゃない。蝶は蜜など相手にしない。普通は、しない。だが今見たばかりの光景はどうみても……。血が沸く。カッとなって、何も考えられなくなる。
――やめてくれ。
嬉しそうにしてた。仲睦まじく。まるで恋人同士のような。私以外の男といるなどそんなことあってはならない。連れ戻さなければ。引き離して、わからせなければいけない。恥を知れ。蜜なんかと恋仲になるなど。蝶としての矜持はないのか。お前は仮にも私の婚約者だった女だ。それがなんだ。連れ戻して、目を覚まさせてやる。だから、追いかけた。
二人は庭に出た。一言二言話して男は去っていく。残された環は満開の紫陽花を慈しむようにそっと手を伸ばして花びらに触れていた。そういえば、先日、うちに来た時も紫陽花を貰って喜んでいた。職人に笑顔を向けていた。美しい笑みを浮かべていた。甦る記憶。嫌なことを思い出して苛立ちは増した。お前は私にだけ笑っていればいい。そうでなければならない。私が近づいていくと物音に気づいて振り返る。その目は驚愕に見開かれた。だがすぐに視線をはずされる。これまであれほど熱心に見つめてきたのに環の方から避けた。そんな些細な所作にも焦燥を感じおかしくなりそうだった。
「失礼します」
小さな声で告げて去っていこうとするが、
「あの蜜と何をしていた? 」
私の言葉に足をとめてこちらを見た。
「どういう意味ですか? 」
環は美しい顔を歪めて訝しげな表情をしていた。
「お前は潤んだ目をしていた。……あの男に啼かされたのかと聞いているんだ」
早口に答えてやると、環はますます奇妙な顔をした。それから、
「泣かされてなどいません」
違う。そういう意味ではない。通じなことにイラつきながら、もう一度、
「あの男に抱かれたのか」
露骨な表現で言ってやった。するとたちまち真っ赤な顔になって、
「私を愚弄する気ですかっ! 」
冷たい目で私を睨んでくる。
「別に愚弄などしていない。男と二人で部屋にいて泣きはらした目で出てきた。それはそういうことだろう? 」
「…何故そんな発想になるのか理解できません。ご自身が蜜をお抱きになるからといって、他の者も同様だとお思いなら、考えをお改めになられた方がよろしいと思います」
「私が蜜を抱いていると? ずいぶん知った風な口ぶりだな。あの蜜に吹き込まれたか。人の噂を風潮するなどはしたない真似をするものだな」
「夕凪はそんな人ではありません。私のことならまだしも、あの人を侮辱するのはおやめください」
「かばう気か。あんな蜜を」
「……お話がそれだけなら失礼いたします」
これ以上話す気はないと去っていこうとする。
「待て、私の質問に答えていない。あの蜜とはどういう関係だ。何もない男を手を繋いで歩いたりはしない」
「お答えする必要はないです。私がどこで誰と何をしようと草寿様に咎められる覚えはございません」
私には関係ないと? 冗談じゃない。もういい、面倒だ。もっと手っ取り早い方法がある。まどろっこしいことなどせず、この手にしてしまうことにしよう。環と私の周りに陣をはり、外界と遮断する。二人きり。誰にも邪魔されないように。
「……何をなさるのです。陣を解いてくださいませ。私は帰ります」
異変に気づき、張り巡らされた陣を叩き、解くように懇願してくるが、勿論聞き入れるわけにはいかない。私が微笑むと、環は恐ろしいものでも見るように息を飲んだ。
「お前は私のものだ。他の男になど渡さない」
一歩ずつ近づくと、環は後ずさったがすぐに行き止まりだ。私が張った陣は環の力では破ることは出来ない。目には見えないが確かにある壁際まで追い詰めていく。
「抵抗するな。大人しくしていれば優しくてやる。拒否するなら容赦はしない」
「な、にを……散々私を否定してきたのはあなたでしょう。それを今更…」
「今更ね。ああそうだ。今更だ。今更私から離れるなんて許さない。私がどんなに無視しても懲りずに私を好きだと言い続けたのはお前だ。私がどんな態度をとろうと追いかけてきた。まっすぐに私を求めてきた。幼い頃からずっとな。そうだろう? それを今更やめるなんて許されるわけがないだろう? 」
「勝手な…」
「勝手? それはお前だろう。お前は私を好きでいなくてはいけない。そういう風に私に刻みつけてきたのだから」
「そんなの知りません。私は私を好きでいてくれる人のところへまいります。それはあなたではない」
「だから、そんなことはさせないと言ったろう? お前は私のものだ。誰にも渡さない」
「私は、あなたのものなどではありません。ここから出してください」
「お前は私のものだ。どこにも行かせない。永遠に、私が可愛がってやる。これから毎日、ずっとな」
「何を……」
「わからなくてもいいよ。体に教え込んであげるから。私なしではいられなくしてやる」
「やめ…」
環の悲鳴を飲み込むように、その柔らかい唇を塞いだ。
2010/5/11
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