蜜と蝶

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   蝶 と 蝶  12   

 
「いや! 」
 重ねられた唇にぞっとして、強く噛むと解放された。
「抵抗するなと言ったはずだ」
 私が噛んだ下唇にはうっすらと血がにじんでいた。それが彼の怒りを煽り見たことないほど冷たい顔をした。この数十年、素っ気ない振る舞いはされてきたけれど、こんな目で見られたことはない。激しい怒気。怖い。逃げ出したかった。だけど体が竦んで動かない。
「私を拒むことは許さない」
――どうしてそんなこと言うの?
 私を拒み続けてきたのは彼の方だ。だから私は諦めることにした。やっとその決心をつけたのだ。それが、どうして突然こんなことを? 彼の何を刺激してしまったの? 心当たりはない。何もしてない。破談になってから、一度だけ、叶の家で会ってしまったけれど、後は一度も関わっていない。こんな目に遭う覚えはない。
「何故こんなことをするのですか……」
 彼は冷めた目のまま私を見つめていた。
「私は穏やかに暮らしたい。私を大事にしてくれる人と一緒になって静かに暮らしたい。だからあなたのことは諦めたんです…」
「そんなことは絶対にさせない。私以外の男を求めるなど許さない」
 大きな手が私の頬に触れる。かと思うと、再び口づけられた。唇を割って舌が入り込んでくる。ぬるっとした感触と溢れる唾液。気持ちが悪い。嫌だと思うのに、下顎を抑えられて口を閉ざすことも出来ない。涙が滲み視界がぼやけた。
(嫌だ。嫌。嫌。イヤ――っ)
 両腕で彼の胸元を押し返すけれどビクともしない。それどころか抵抗するほどに腰に回された腕に力が込められる。呼吸が、奪われていく。貪られるように犯される口内から違和感が消えた頃、反抗する気力を失うほど消耗していた。そして、彼は告げた、
「泣くな。お前が私を選ぶと誓うなら、こんなこと今すぐにでもやめてやる。どうだ? 簡単だろう? 私のものになると誓うんだ」
「そんなこと、誓わない」
「そう、ならしかたないな」
 彼は残酷な笑みを浮かべた。

 それからのことはあまり覚えていない。

 気付くと私は大きな寝具の上にいた。叶家の別邸だ。夏の避暑に訪れるもので、朝比奈の屋敷からはこちらの家の方が近い。「ここなら誰にも邪魔されない」と私を寝かせると彼は覆いかぶさってきた。端正な顔が近づいてきたかと思うと唇を塞がれる。舌が入ってきたけれど、先ほどよりもずっと丁寧で優しい。ただ、ひたすら長く執拗だった。ようやく解放されたと思うと
「そう怯えなくてもいい。よくしてあげるから、力を抜いて」
――嫌だ。怖い。
 硬直する体を、彼の舌と指先で愛撫されていく。背筋にゾクリと走るのは快感か悪寒か。抵抗する暇もないほど滑らかな仕草で、体中を触れられる。物も言わず熱心な様子に酷く扇情させられる。体が熱い。駄目だ。触らないで、見ないでほしい。
「恥ずかしがることはない。綺麗な体だ」 
 身をよじると手を止めて私を見た。美しい顔は見たことない男の表情で、知らない人だった。こんな人、知らない。怖い。
「やめて、もうやめてください」
 懇願するも聞き入れてもらえない。それどころか、彼の愛撫によって濡れきったそこを容赦なく貫かれ、
「あの男とは何もなかったんだな」
 流血を見て、告げた。まだ、疑っていたのか。涙が出る。どうしてそんな疑いをかけられなくちゃいけないの? 情けなく辛かった。だけどそんな私の心など構うことなく、彼は嬉々としていた。そしてそのまま腰を動かし始めた。激しく獰猛な動き。初めて味わう感覚に、体は悲鳴を上げた。痛みなのか快感なのか判断がつかない。ただ強い衝撃にたまらずシーツを強く掴む。そんな私の様子をじっと見つめる視線。彼の冷めた眼差しが耐えられない。顔をそむけるけれど、
「――っ」
 まるでそれを責めるかのように激しく扇動されていく。
「や、やぁ…」
 堪えきれずもれる声は、自分のものではないような艶めかしい色を帯びていた。こんなの違う。嫌……だけど反して体はいうことを聞かない。否定するほど強い反動がきて、
「――――っん」
 違う。こんなの。望んでいないのに……羞恥心が溢れて両手で顔を覆う。涙があふれて止まらなかった。下肢から違和がなくなっても、深部はまだ震えている。感じている自分がひどく浅ましく汚いものに思えた。 
「環……可愛い。私のものだ。お前は私のもの……」
――やめて。
 そんな言葉聞きたくない。この人は何人の女にそんなことを言ってきた? 何人の女と肌を重ね、その唇を落としてきた? ずっと求めてきた温もりも、今となっては嫌悪感しか感じない。何も信じられない。彼の甘言に体の芯から冷えていく。嫌だ。嫌。嫌い。大っきらい。
「ほら、もっと顔を見せて」
 彼は私の手首を掴み顔から引き離そうとする。嫌だと抵抗するけれど、力では敵うはずがなく、あっさりと頭上へ持っていかれる。泣き濡れた顔など見られたくなかったのに……。みっともない。きっと酷い顔をしている。彼は私をじっと見つめていた。何も言わず。凝視されている。恥ずかしい。また、涙が溢れてくる。涙腺が壊れてしまっているのかもしれない。コメカミに零れた涙が幾度も幾度も伝った。そこに生温かいものが触れる。彼の舌先。拭うように舐められる。
「誓う気になった? 」
 睨みつけると笑った。楽しそうだ。狂っている。
「ずっとこうやって私に愛されたかったのだろう? 望みは叶えているのに不満か。欲張りだな」
 右耳の下を舐められると体の奥が震えた。敏感な部分はすでに熟知されている。感じたくなくとも反応する体が悲しい。 触れられた場所が熱くなる。息があがり、追い詰められていく。それを満足そうに眺めて、
「体は私に馴染んで、ほらごらん、こんなに欲しがっている。いい子だ」
 チュっとわざと音をたてて私の頬に唇を寄せた。それから、私を抱き上げ膝に乗せて、首筋や顎に何度も何度も唇を落とす。小さく漏れる吐息は熱をあげていく。そのくせ下から覗きこんでくる眼差しは静かだ。そのアンバランスさが恐ろしい。興奮しているのか、冷めているのか。わからない。ただ嬉しそうな声で、残酷な警告を促す。
「素直になれ。私が欲しいだろう? 」
 それだけ言うと、唇を塞がれる。濃厚な口づけ。唾液も何もかもを奪われて。意識が遠のいてしまう。快楽に溺れて、考えることを手放してしまえば、私は楽になれる?
「心だけが強情だね。もういい加減諦めて私を求めればいい。あの頃みたいに――」
「いや。私はあなたのことなんて好きじゃない。もう嫌なの。嫌」
「何が嫌なの? 私のことをあれほど好きだったじゃないか。そうだろう? 」
――好き。
 そうだ。私は、
「好き……好きだった。ずっと好きだった」
 私がどれほど好きだったか、彼は知らない。その分だけ絶望も深く、
「でも辛かった。もう、いや。嫌い。私が好きだと言っても、受けとめてもらえない。あなたはまたきっと逃げる。どうせまた逃げ出す。そしたら、今度こそ私はおかしくなる。だから、そっとしておいて。あなたに、私の気持ちは受け止めきれない。途中で投げ出すにきまってる。だから離れてあげたのに、どうして追いかけてくるの? どうして、私を苦しめるの? 」
「逃げたりしない。お前から逃げたりなんてしない」
「いや……信じられない。嫌い。大っきらい。もう私のことをほおっておいて。そっとしてて……」
 だけど、私の願いは叶うことはなく、また、快楽の渦へと落とされていった――。



2010/5/11

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