蜜と蝶

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   蝶 と 蝶  13   

 
 気を失ったまま眠ったか……。
 前髪がべったりと張り付いているのをかきあげてやる。泣きすぎて目は腫れているし、頬も上気してまだ赤い。取り繕うものはすべてなく、汗と体液が混ざったもので体はねっとりとしていた。それでも可愛い。何もかもが。離したくない。眠っている姿に口づけたいなど思ったのは初めてだ。快楽を得るために刺激するもので、なんの反応もない姿に触れても面白くない。だが、環が眠る姿を見ていると、傍にいって抱きしめたいと思う。腕に抱え込んで隣で眠りたい。その温もりを感じていたい。その通りの行動にでる。起こさぬようにそっと。こめかみに唇を寄せるとかすかに身じろいだが起きるまでには至らない。寝返りを打ったので私と向き合う形になる。より見やすくなった寝顔を見つめる。唇を重ねる。舌を絡めるような濃厚なものではなく、本当に重ねるだけの。柔らかな感触が気持ちいい。しばらく合わせたままでいると、涙が溢れてくる。この気持ちはなんなのか。
 深い部分から込み上げてくる温かい何かを感じながら、洗面場へ向かいぬるま湯をくむ。環を起さないように丁寧に体を清めていく。こんなことをするのは初めてだ。終わったあとベタベタするのはあまり好きではない。前戯としてイチャつくことはあるが、寝物語を語ることはない。抱いた女と朝まで一緒にいることがまずなかった。性欲のためだけの行為。お互いに楽しんだのだから、済んだ後の面倒は自分自身で見るべきだと思ってきた。だが今は不思議と、何もかもをしてやりたかった。気持ち悪くないように体を拭いて、風邪を引かないように布団にくるめる。散乱した服を束ねて、目が覚めたときに飲めるように水を置く。思いつく限りのことをし終えても、環はまだ眠っていた。
 傍に腰掛けて、規則正しい吐息を立てるあどけない顔を撫でる。
『ずっと好きだった』
 情事の合間に、環が洩らした言葉。魂が擦り切れるような悲しい告白に、胸が締め付けられた。環が、私をどれだけ好きだったか。改めて思い知らされる。そして、その分だけ歪になった心。私が長い間、傷つけてきたせい。顧みることなく、軽い気持ちで適当にあしらい続けた結末。
「環…」
 抱いてみてわかったことがある。最初は、体温を通して伝わるすべてが柔らかく、感じたことない甘い快楽に戸惑った。それが何かわからず、ただ、離れがたくて二度、三度と求めるうちに霧が晴れるように、心の中に染み渡ってくる気持ち。 愛しいという感情はこういうことなのか。私が可愛がるべき女は環だった。明瞭になった事柄はおそろしく整然として、滑稽なほど揺るぎない。いびつな形をした、けして埋まるはずのない鋳型が一部の狂いもまく埋まってしまうような。そこに、空虚が存在していたことが夢ではないかと思うほど。嵌った欠片は、同化して、全てを一つにしてしまった。知ってしまったら、もう、分離することなど不可能だ。失えば壊れてしまう。歓喜と共に訪れたのは喪失することへの恐怖。
 もう一度、そっと唇を重ねる。
――この人を失うわけにはいかない。
 けれど、
「お前は、私を許してはくれないだろうな……」
 目覚めたら、私を見る目には拒絶の色があるだろう。
 こんな形でしか気づけなかった。もっと早くわかっていたら、他に方法があったはずだ。だけど、もう後には引けない。嫌われても憎まれても、この人を手放せない。身勝手といわれようと、誰に罵られようと。失えない。傍にいてほしい。だが、きっと、拒否される。当然だ。顔も見たくないだろう。
――どうすればいい?
 答えの出ない問いを前に、途方に暮れ果てていると、呼び鈴が鳴る。明け方の四時過ぎ。こんな時間に、この場所くる人物など、一人しかいない。予想よりずっと早くやってきたことを苦々しく思う。無視してしまいたいが、しつこく鳴らされる呼び鈴に、環が目を覚ましてしまうのが怖かった。まだ、心の準備が出来ていない。この人に嫌われ拒絶される準備など永遠につかないだろうけれど、それでももう少しだけ、このままでいたい。だから、眠りを妨げる人物の元へ向かった。
 玄関扉を開けると、案の定の人物――朝椰が立っていた。 
「環は? ここにいるだろう」
「ああ、私の部屋にいる。疲れて寝ている」
 告げると、朝椰は私を押しのけて、勝手知ったるとばかりに目的の部屋の前まで行く。が、
「入るな。環は今、服を着ていない」
「何? 」
「抱いた」
 次の瞬間呼吸が止まる。胸倉をつかまれ、壁に押し付けられていた。その目には侮蔑の色。朝椰でさえこうなのだ。きっと環はもっと私を軽蔑する。力が入らない。抵抗する気も起きない。一層、このまま殺してほしかった。
「ここまで愚かな男だとは思わなかった……自分が何をしたかわかっているのか? これは犯罪だ」
「お前が言えた義理か」
 心とは裏腹に言葉は饒舌だった。朝椰は苦々しい顔をした。この男だって似たようなことをしたのだ。三年前。だけどうまくやった。けれど私は環を失う。この差はなんだ。ご当主様と、分家の嫡男の違いか。そんな僻みもむなしい。どうでもいい。何を言っても未来は変らない。だから、何でも言える。
「環には近づくなと言ったはずだ。それを……あの子は連れて帰る。そして金輪際近づくな。これは呉羽当主としての命令だ」
「嫌だといったら? 力づくか? 」
 朝椰は鼻で笑った。
「通常でならいざ知らず、今のお前の体力では、私には勝てない。死ぬぞ? 」
「構わない。環を奪われてまで生きていようとは思わない」
「何を勝手な。自分で捨てておいて惜しくなったか」
「なんとでも言え」
 殺してくれるならありがたい。生きていれば会わずにいられない。だが、会えば拒絶される。それを思えば死んでしまったほうがいい気がする。しかし、そんな卑怯な逃げを許されるはずもなく。朝椰指を鳴らした。
「――お、まえ……」
 気づかなかった。ここに踏み込んでくるとき、私を押しのけたあの一瞬で仕掛けていたのか? それは蝶の力を奪うまじないをかけた枷だ。決められた合図で波動する。
「悪く思うな。これはお前のためでもある。正気を取り戻すまで、お前を幽閉する」
 そこで、私の意識を途絶えた。



2010/5/11

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