蜜と蝶

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   蝶 と 蝶  14   

 
「お気づきになられましたか? 」
 ……。見慣れない天井。声のする方を見ると、
「栞祢、さま…? 」
 朝比奈の蜜であり、三年前呉羽にやってきた、朝椰様のお相手。
「どうして…」
 ゆっくりと起き上がる。体が重い。頭の芯がしびれたようにボーっとする。栞祢様がいるということはここは朝椰様の屋敷? でも、どうして私がそんな場所に? よく思い出せない。私は宴に出席していたはずだ。そこで、蜜を食べた後、夕凪のところで話をして、それから草寿様に、
「私は… 」
 あれは夢? 違う。現実だ。
――っ。
 喉が熱く、叫びたかった言葉は何一つとして音にならない。ただ嗚咽が漏れるのを両手で押さえこむ。
「大丈夫でございますよ。ここは安全です」
 栞祢様は私の背をさすってくださった。小さな頃、母に同じようにしてもらった。そして言われた。毅然としていなさい、と。お前は次期叶家当主の許嫁です。皆を先導し、頼られる立場なのです。泣きわめかず状況を把握して最善の道を選択する心を持ちなさい、と。泣いても何も変わらない。そう。変わらない。困らせるだけ。
「……取り乱して、申し訳ございません。記憶が一挙に蘇り少し動揺しただけでございます。落ち着きました」
 それでも栞祢様はしばらく、私の背をさそってくださった。優しい手に体の力が抜けていく。
 あれから私は朝椰様に救出されてここに連れてこられたが、肉体の疲労と精神的な衝撃から熱を出し二日間寝込んでいたらしい。
「熱は下がったようですが、ご気分はどうですか? 」
「……体が、少し気持ち悪いです」
「そうでございますね。汗をたくさんおかきになられてましたから。……お湯を沸かしております。どうぞお入りくださいませ」
 お言葉に甘えて入らせてもらうことにする。熱い湯を浴びれた気持ちが落ち着く気がしたから。
 浴室に案内され「私のもので申し訳ございませんが、よろしければお使いください」と着替えを渡された。だけど、
「この羽織はお貸りできません。……これは朝椰様のお色でございましょう? 」
 呉羽では男子が生まれるとその子に色が与えられる。そして、伴侶が現れたら自分の色を相手に贈る。生涯でただ一人だけに贈られる特別な習わし。朝椰様はそれを栞祢様にお贈りになられたのだ。蝶と蜜という壁がありながらも想いあう人もいるのに、同じ蝶で、許嫁で、周囲の人が祝福してくれた間柄でありながらうまくいかないこともある。人の縁というものは不可思議だ。
「ですが、お寒うございましょう? 病み上がりの身で薄着をしてはまた熱が出ます。私が持っている羽織はこの色しかないので……」
「お気持ちだけ頂戴いたします」
 私が述べると、栞祢様はそれ以上無理強いはしなかった。ただ切なげに微笑んだ。
「栞祢様がはじめてここへお越しになった時はまだあどけない少女でございましたのに、今ではすっかり美しい女性になられました。愛し愛されて女は美しくなるというのは本当でございますね」
「そんな……」
「私にもいつか「お色」を下さる方が現れてほしいと思います」
「もちろんでございますよ。必ず」
 栞祢様な強い言葉で言い切った。儚げな彼女に似つかわしくない強固な言葉が嬉しかった。

 湯から上がると朝椰様がお戻りになられていた。私を見ると微笑んだ。
「体の調子はどうだ? 」
「はい。栞祢様にご看病いただいたおかげで、すっかりよくなりました。厚かましくもお湯も頂戴いたしました。何から何までしていただきなんとお礼を申し上げてよいかわかりません」
「そうか。鴇塔の家には、栞祢が退屈しているからしばらく話し相手なってもらうと連絡してある。何も心配せず、ここで静養したらいい」
「大丈夫でございます。私は、平気です」
「……無理をするな」
「無理などしておりません。本当に、私は大丈夫です…。それより、」
 言いかけて途中で言葉を断つ。目覚めてから頭の片隅でずっと気になっていたこと。朝椰様も栞祢様もなるべく触れないように気遣ってくださっている。だから、自ら聞くのはお気持ちを無下にするようで躊躇いがあった。けれど、
「……あの方は……」
 朝椰様はかすかに驚愕し、それから戸惑われた。やはり聞いてはいけなかったのか。
「場所を移そうか」
 そう言うと、朝椰様は私を居間に招き入れた。正面に向かいあって座ると緊張する。「元気だ」と一言聞ければそれで満足したのに、こんな風に改まった場を持たれると不安になる。彼はあの時、陣を張り、場の移動にも力を使っていたはずだ。消耗はかなり激しい。倒れていてもおかしくない。それなのに、その後、私に……。嫌な予感する。朝椰様が来られた時、倒れていたのではないか。いや、もしかしたらもっと最悪の……心音が早まっていく。だからさっき尋ねた時、朝椰様は困ったような顔をされたの? まさか、そんな…。だけど、
「草寿は今、青楼にいる」
「え? 」
 返ってきた言葉は私の予想していたものではなかった。ただ、歓迎できるものでもなかった。
――青楼って、そこは、
「幽閉してある」
「幽閉だなんて、そんな…どうして……」
 草寿様は叶家の嫡男だ。由緒正しき家柄の跡継ぎ。そんな方がこともあろうに重罪人の扱いを受けているなんて。
「お前が望むなら叶家ごと降格させてもいい。あれはそれだけのことをしでかした。報いを受けて当然だ。無論、お前の評判に傷がつぬように罪状は伏せる。心配しなくていい」
 そんなこと、
「私はそのようなこと望んでおりません。ただあの方が力を使いすぎていらっしゃったので、ご無事かどうか知りたかっただけでございます。どうぞ、今すぐ解放してください」
 まくしたてるように告げると、朝椰様は悲しげな声で、
「あんな目に遭わされてもまだあれの身を心配すると言うのか」
「……草寿様にされたことを簡単に忘れることはできません。ですが、草寿様が不幸になることはけして望みません。これは私と草寿様の個人的な問題でございます。そのような公でのお裁きはおやめください。後生でございます」 
「お前がそう望むのならその通りにしよう」そう言ってくださったが、朝椰様は困ったような顔をされた。 そして、「いいか。環。お前は幸せにしてくれる男と一緒になるべきだ。自分の幸せを優先しなくちゃいけないよ。お前が我慢することはなにもない。いいね? 」
「はい……」
「その上で、聞く。お前は草寿をどう思っているのだ? 」
「それは……」
 わからない。自分でもよくわからなかった。無体な真似をされたと嫌悪を感じている。でも、草寿様が不幸になることを望まないのも本当だ。だって私は草寿様の幸せをずっと願い続けてきたのだ。出来るものならそれを私の手で叶えたかった。
「私はお前が草寿のことを嫌いだと言えば、二度と会わせないよう対処しようと思っていた。あれは本当に愚かな男だ。今になってやっとお前を見つめ始めた。傍にありすぎて気付かなかった大馬鹿者だ。そんな男に情けをかけてやれなど言う気はなかった。だが、お前がまだわずかでも草寿を思う気持ちがあるのなら、もう一度だけ機会をやってみてはどうだ? お前も、こんな中途半端なままでは先に進むこともできないだろう。勿論、お前が嫌だと思えばその時点で終わりにすればいい。もう草寿とは関わりたくないというなら、私が全力でその望みを叶える」
――もう一度?
 トクンと心臓が一つ大きく脈打った。 
「お前に選ぶ権利はある。好きにしたらいい」
――私に権利があるの?
「お前はもう盲目的に草寿を想っていた頃とは違う。冷静に、見られるようになっているだろう。その目で、あれが本当はどういう男なのか。お前にふさわしい男なのか。最後に今一度、見定める期間を設けてみてはどうだ? 再び縁を結ぶにしても、先に進むにしても、その方が未練も後悔もないだろう」
「……はい」
 こうして、終わったと思っていた私の恋はもう一度日の目をみることになった。長い間思い続けた人と、今度こそ幸せになれる。思いもよらず巡ってきた状況に躊躇い、複雑な気持ちもあったけれど、きっと大丈夫だと思った。けれど、それは甘かった。私の心はもう以前のように草寿様を愛することは出来なくなっていた。この時の私は、まだ、その事実に気づいてはいなかったけれど……。



2010/5/12

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