蜜と蝶
蝶 と 蝶 15
まさか自分が青楼に入ることになるなど思わなかった。
青楼――罪人の中でも特に重罪を犯したものが入れられる座敷牢の俗名だ。部屋全体をさめざめとした青で塗ってあることからついた。殺風景で何もない。真っ青な空間は時間の感覚を喪失させる。朝と夕方に運ばれてくる膳の回数でかろうじていつ頃かを知る。それがなければ狂っている。また、外界と完全に遮断され無音なのも精神を圧迫した。音がないというのはこうも人を不安にさせるものなのか。
「起きているか? 」
扉が開閉された。入ってきたのは朝椰だ。これは正式な手続きを踏まれたものではなく、朝椰の独断であり、今のところを公にはされていない。下手をして環の評判に傷がつくことを危惧しての配慮だ。私がここにいることは朝椰以外誰も知らない。だからご当主自らが膳を運び込んでくる。しかし、今は何も手にしていない。何をしに来た? だが、そんなことよりも、
「……環は? 」
あれから熱を出して寝込んでいると言っていた。どうなったのか。そればかりを考えていた。
「今日、目を覚ました。熱も下がり落ち着いている」
「そうか……」
ほんの少しだけ安堵する。元気になってくれたのならいい。だが、体よりも心の傷の方が深いに違いない。落ち着いているとは言っているが……朝椰を見るとじっと私を見ていた。不気味なほど冷たい眼差し。青楼に入れられてから朝椰はずっとこの目をしていた。責めるような、憐れむような。
「お前を許せない。罪に問いたい、と」
環が言ったのか。それを告げるためにここへ…。
――当然、だろうな。
憎まれて、嫌われて、拒否される。わかりきったことだ。私を許さないだろう。わかっていた。だが、改めて告げられるとどうしていいかわからなくなる。あの人に見捨てられたら私には何もない。
「そうか」
かろうじてそれだけ搾り出す。朝椰はため息をついた。呆れているのか。それから鉄格子の傍まで来て、施錠を外し中に入ってきた。
「私ならそう言う。だが、環は違った」
壁に繋がれている左手。蝶の力を封じるまじないをかけた施錠。それをおもむろに外した。
――何?
「これが環の望みだ」
意味がよくわからなかった。
「環はお前の拘束を解いてくれと言った。だから、お前はもう自由だ」
「なんだ、それは……」
私を許してくれるのか? あんな非道な振る舞いをして、強引に環の初めてを奪ったのに? どうしてそんな……。
「私やお前が考えているよりずっと、環の愛情は深い」
朝椰は静かに言った。聞いたことがないほど悲しく静かな声。
「環はお前を責める言葉を一言も言わなかった。お前が力を使いすぎて倒れたのではないかと心配し、幽閉していると知ると真っ青な顔をして出してくれと懇願してきた。これは環とお前の個人的な問題だから、公に裁かれるようなことではない。後生だから解放してくれと言った。あんな無体な真似をされて、それでもお前の身を案じるのか? と問うと、簡単に忘れることは出来ないけれど、お前の不幸はけして望まないとハッキリ言った」
バカな。あれほど非道な振る舞いをしたのだ。絶対に軽蔑されると思った。嫌われて疎まれて拒否されて当然だ。あまりにも予想していない言葉に、どう受け止めていいのかわからない。どうすればいいのか。何を言えばいいのか。
「これがお前が今まで無視し続けてきたものだ。拒否して、捨ててきたもの。見ようともせずに、つまらないと切り捨ててきた。環の気持ちに対しお前はどうだ? 「愛される」ということがどういうことかわからず、大事にするべき相手をないがしろにし、散々傷つけ続けた。そしてそれがいざなくなったら今度は自分勝手に怒り狂う。まるで子どもだな」
愚の音も出ない。私は環の足元にも及ばない。自分がどれほど軽々しくいい加減に生きてきたのか。誰かを真剣に思うことはなく、だから真剣に思われていることに気づくこともなく……。でも、これからは違う。私は、
「だから、お前はもう環を諦めてやれ」
――何?
朝椰は悲しげだった。先ほどからずっとこんな感じだ。
「何を、言っているんだ……」私はこれからちゃんと生きようと。そう決意しようとしていたのに、どうしてそんなことを言うのか。「環が私を許してくれる。傍にいられるのに、諦めるなんて…」
「環は確かにお前を許すと言った。許そうとしている。だから怖いんだ。環はお前といると無理をする。辛さや寂しさを堪える。お前にはそれがわからない。見抜けない。環が一方的にしんどい思いをする。そうやって我慢した末に、またお前が心変りしたら? あの子はますます傷つく。私はお前の色恋に対する軽さをよく知っている。お前が情熱家であることも。そしてそれが継続しないことも。今は環に熱心になっているが、これから先もずっと続けられるとは思えない」
「そんなことは、」
「ないと言い切れるのか? 悪いが、私は無理だと思う。信用できない」
「……」
「なぁ、草寿。仮に、このまま環の傍にいても、出てくる問題がある。それを乗り越えられない限りお前達が結ばれることはない。お前にそれがどんなものかわかるか? わからないだろう? 分からない以上、きっとお前はそれをする。環を泣かせる。そうなったとき、お前が投げ出してしまうことが怖い。だが、今、別れたらお前は環の中に残れる。消えることはない。いつか、あの子が幸せになった時、記憶の中で懐かしく思い出されることがあるだろう。それで満足したらどうだ?
」
「無理だそんな……環を失えない。投げ出したりなどしない。私は本気だ」
「…そうか。ならばもう何も言わない。よく考えろ。本当に崖っぷちだということ。後はない。下手をすればおわり。今度こそ本当にな。情けをかけてもらっているのだ。それに応えられるか微妙だがな。環とお前とでは思いの次元が違いすぎる。それこそ大人と子どもの差がある。お前は甘やかされてきた。それをまだ理解できていない。言っておくがもし、今度、環を傷つけるようなことをしたら容赦しない。環が許しても、私が許さない」
「言われずともわかっている」
「お前の本気がどんなものか見ものだな」
そう言うと朝椰は背を向けて去っていく。と、思ったが、扉の前でふと立ち止まった。そして、こちらを見ずに早口に継げた。
「これは、呉羽当主としてではなく、幼い頃からお前達を見てきた昔馴染みとして言う。私は、恵まれて生まれた。だから、誰かを羨ましいと思うことなどほとんどない。たが、人をそこまで思える環と、そこまで思われているお前とだけは羨ましくて仕方なかった。だから、成就することを願っている。しっかりしろ」
「朝椰……」
「お前の未熟な心ではどうにもならなくなったら、話ぐらいは聞いてやる。ただし、私は環の味方だがな」
私が見過ごしていたのは環だけじゃない。朝椰のことも。きっとそれ以外にも無数に。情けなかった。涙がとめどなく溢れて、座敷牢に嗚咽が響く。生まれ変わりたい、やり直したい。この日、私は初めて、心の底から自分が愚か者だと知った。
2010/5/12
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