蜜と蝶
蝶 と 蝶 17
「しかし驚いたな」
朝椰様は廊下を歩きながら呟いた。
私の様子を見にわざわざお越しくださった。その見送りのために二人して玄関に向かっている途中だ。
「あれが草寿か……あの男でもあんな視線を人にむけたりするのだな。お前と親しくしていると嫉妬の一つでもするかと思ったら、そんな余裕もない。私の存在などまるで見えていない。押し黙ったまま、間抜けな顔でお前だけを見つめていた。何一つとしてとりこぼさないようじっとな」
「……」
どう答えればいいか、わからない。
あの一件の後、草寿様は私の元へ通ってきてくださるようになった。その際には珍しい菓子や人気のある染物職人の新作品、宝玉なども贈ってくださる。また来れない日が続けば一筆添えた花束を届けてくださる。男の人にこんな風にされるのは生まれて初めてで不慣れだ。受け止め方がわからない。嬉しいと思うより先に不安の方が大きかった。だから初めは「お気遣いご無用ですよ」とお断りした。すると彼は寂しそうな顔をする。それを見て、私は可愛げのない女なのだろうと悲しくなった。素直に喜ぶことが出来ない自分が惨めで辛い。好意を踏みにじっているようでひたすら申し訳なく感じた。きっと草寿様がこれまでお付き合いされてきた女性は、可愛らしく礼を述べたりするのだろう。思い出すのは、宴で見た、蜜とのやりとりだ。
蜜も甘えたように草寿様の首元に腕を回していた。
口付けを幾度か繰り返した後、蜜は、胸元にかけられていた草寿様が贈ったらしい宝石を両手で包み、
「大切にしますね」
「ああ、とてもよく似合っているよ。贈った甲斐がある」
「ふふふ。草寿様だと思って肌身離さず持ってます」
「可愛いことを言う」
そして、抱き合い、再び口付けを交わした。
あんな風に言えたら喜んでくださるのだろう。でも――言えない。言いたくない。草寿様からの贈り物を受け取るたびに鮮明にあの光景が目の前を過ぎ去っていく。そして、体が冷えていく。感じたことのない感情が腹の底で暴れる。それはけしていいものではない。何もかもを焼き尽くしてしまうような真っ黒な炎。それが何であるのか、わからない。ただ、込み上げてくる。それは少しずつ上にあがってくる。まだ遠いけれど、日を追うごとに確実に私の体を蝕んでいた。やがて、近いうちに、私は焼き尽くされる。そんな予感。
「いつもあんな感じなのか? あのおしゃべりな男が無言か? 」
朝椰様は可笑しそうに私に問うてきた。
「はい……」
二人きりでいると沈黙ばかりだ。それも憂鬱だった。黙ったままで、ただじっと見つめられる。強い眼差しに体が硬直する。なるべく見ないように視線をそらす。会話がないからかもしれない。話に集中してしまえば、見つめられることはなくなるかも、と話そうとするが続かない。ただ、草寿様の眼差しは私を捉えたまま少しも動かない。だから逃れるように早々に退席する。居心地が悪くてたまらないから。でも、それは嫌がってると解釈されても仕方ない態度だ。わかっている。そんなことはしてはいけない。しない方がいい、と。自室に戻ったときはいつも後悔する。失礼な真似をした。呆れられて、もうここへは来ては下さらないだろうと思う。涙が出た。でも翌日また姿を見せくださる。安堵する。今日こそは普通にしよう、と思い部屋に入る。だけど……。ずっとその繰り返しだった。
「そうか。そうか」
朝椰様は嬉しそうだった。
「草寿は恋を楽しんできたが、誰に対しても愛情をかけてやったことはない。だが、 お前を見つめる視線の中には、確かに、今までにない感情が含まれている。いい年をした男が、少年のように純真な目でお前を見ている。あれにとっては初めて感じるものだろう。女を前にして緊張なんぞしたことがなかったに違いない。だが今回は違う。お前の前では殊勝で、ろくに話すことも出来ず、自分を持てあましている。情けない限りだが、実にいい兆候だと私は思うよ」
「そうでございましょうか……」
朝椰様がおっしゃるように、草寿様が私を見る目には、これまで私に向けられたことがない色が含まれているのは感じる。だけどそれが特別なものだとは思えない。私ではなく、他の人に向けられていた熱情。それがやっと私の巡ってきただけ。自惚れてはいけない。勘違いするな。自分に警告してしまう。だけど、
「お前にならわかるだろう? 人を本当に好きになるときどうなるか。そして、草寿がお前に向けているものが戯れか本気かぐらい、とうに気付いているはずだ。それを受け入れる受け入れないにしてもな」
そのお言葉に曖昧に笑うぐらいしか出来なかった。
朝椰様をお見送りした後、客間に戻る。私の気配に、庭を見つめていた草寿様が振り返った。
「帰ったか」
「はい」
「……」
「……」
それからいつもの沈黙が訪れる、と思ったけれど、
「ああ、そうだ。環に渡したいものがあったんだ…」
取り出したのはお芝居の券だった。
「これは…」
人気の劇団の千秋楽の公演だった。それも特別席だ。
「一緒に行ってくれるか? 来月の末と少し先だが…」
「……どうして突然」
「お前が、芝居を好きだと聞いたから」
「……」
嬉しい。という気持ちと同時に、またあの黒い炎が体の奥底で揺れた。あれは四年ほど前だったろうか。叶家を訪れた時、珍しく草寿様がいらっしゃった。私の大好きな劇団の公演が始まるから、ご一緒しませんか? とお誘いしたことがあった。「芝居には興味がないから」と断られた。好きではないのなら仕方ない。代わりに友人を誘うことにした。当日、誘った友人が体調不慮で結局一人で観ていた。帰り際、特別席に通じる階段から降りてくる草寿様を観た。綺麗な女性の腰を抱いていた。長い公演なのに、よりによってどうして同じ日に? 運命的すぎて笑えた。一人で行ってよかった。悲しんだ顔を友人に見られずにすんだから。ついていると思った。
「嫌か? ここの劇団は人気で面白いと聞いたんだが」
甦った記憶。過去の出来事だ。それがどうしたというのだ。今は、私を誘ってくださっている。私が芝居を好きだから、わざわざ券を取って招待してくださった。人気の劇団だ。それを特別席で見られるなんて、幸せなことだ。券を取るのだって容易ではないだろう。喜べばいい。笑って、礼を述べるべきだ。だけど、胸が苦しい。どうして、喜べない? 過去のことなどどうでもいい。やっと、私を見てくださっている。そのことを大事にすればいいのに……。だけど、心が張り裂けそうになる。黒い炎が大きくなる。駄目だ。沈めなくてはいけない。考えてはいけない。考えないほうがいい。だから、
「……ありがとうございます。楽しみにしております」
そう言った。声はかすれて、うまく笑顔をつくれていたかはわからないけれど。
2010/5/15
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