蜜と蝶

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   蝶 と 蝶  18   

 
 私は子どもだったと思い知らされている。それまで、女の我儘を可愛いと思ってきた。甘えられるのは嫌いじゃないし無理難題を叶えるのが男の甲斐性だと勘違いしていた。

 それは、先日のことだ。
 昔から贔屓にしている料亭へ夕食を食べに行った。個室に通されると、床の間に紫陽花が生けてある。環が好きそうにしていたので、女将に頼んで用意してもらった。環は目ざとく見つけて微笑んだ。
「お前が好きだと思って、生けてもらった」
 私の言葉に振り返り、わずかに目を見張った。その後、再び紫陽花に視線を送りほんのりと微笑えんだ。
「そうでしたか……ありがとうございます」
「そんなに紫陽花が好きか」
「はい……紫陽花もですが、紫陽花の季節が好きなのです」
「雨季の季節がか。私は雨は好きじゃないな」
「そうでございますね。ですが私は雨は好きです」
「何故? 雨など鬱陶しいだろう? 」
「はい。ですが、雨が降ると……」
 そこまで言って、ハッとした顔をし口をつぐんだ。奇妙な間。「雨が降るとどうした? 」と問おうとすると、女将が声をかけてきたので聞く機を逃した。言葉に詰まるような様子だったし、無理に聞き出すのもと思いそのまま流すことにした。
「ようこそお越しくださいました」
「ご無沙汰している」
 以前は月に二、三度は訪れていたが、環との破談話から今日まで来る機会がなかった。
「あまりお見えにならないので体調でもお悪いのかと心配しておりました。お元気な姿を拝見出来て安堵いたしました」
「今日は久々に料理長の味を堪能させてもらうよ」
「はい。ごゆっくりなさってくださいませ」
 女将は丁寧に頭を下げた。顔をあげて、今度は環の方にもおじぎした。すると、
「私が紫陽花を好きだと知ってご用意くださったと伺いました。お心遣いとても感激しました」
 言葉に、女将は一瞬躊躇った。それはそうだろう。私も驚いた。これまでここへ連れてきた女で女将に礼を述べた者はいない。私には言っても女将にまでは言わない。「叶の次期当主の連れ」なのだから、店の者が丁重に持てなすのは当然であり、多少の我儘は通ると思っている。だから、お品書きにないものをねだることもある。私はそれを甘やかした。そして、喜ぶ姿に満足を感じる自分がいた。
「お礼ならば草寿様に。草寿様から大切な人だから出来るなら用意してほしいとご連絡いただき生けさせていただいたのです」
「さようでございますか……。ですが、花の季節も終わりかけですから、随分とお探しになられたのではないですか? 私の我儘で申し訳ございません」
「……」
「とても綺麗です。ありがとうございます」
「いいえ。かようにお優しい方に愛でられて、花も幸せでございましょう。どうぞ、本日はお楽しみください」
 女将は丁寧にお辞儀をして退室した。
 それから食事を終え、帰り際。玄関先での見送りに女将は紫陽花の花束を環に手渡した。
「お荷物になりますが、よろしければお持ちください」
「ですが……」
 環は私の方を見た。
「心遣いだ。頂いたらいい」
「では、お言葉に甘えて、頂戴いたします」
 受け取ると、本当に嬉しそうに微笑んだ。見ているこちらもつられて笑ってしまうような柔らかな表情。
「是非またお越しください。お待ちしております」
 女将が私の連れの女にそんなことを言うのは初めてだった。

 それからまた別の日。
 出かけた先で、口の悪い男と出くわした。昔、この男が言い寄っていた女と関係を持ってから(そんなこと知らなかったのだ)なにかと絡んでくる。その女とはすぐに別れたのにその後もずっとだ。
「また女を変えたのか」
 挨拶もないうちに言い放つ。不躾な男だ。これで何度女と揉めたか……。たいていの女は気分を害してふくれる。たまに、わざと甘えて見せて「私は特別なんですよ。今までの女と一緒にしないでくださる? 」と主張する者もいた。だけど、環はそのどちらとも違った。そんな男に静かに微笑んで、少しだけ困った顔をする。それを見て、男たちは申し訳なさそうに謝罪し許しを請うた。自らの非礼を恥じてすごすごと退散する。
 男が去った後、気まづい空気が流れた。
「あの……今のは…」
 どう、言えばいいか。だが、環は
「まいりましょうか? 」
 と、その話題には触れずにいてくれた。気にしていないのか、傷ついていないのか。そんなことはない。言われて気分がいいものではない。実際、今まで気分を損なわなかった女はいない。ただ私が困ると思って追求せずにいる。自身の苦い気持ちよりも私を気遣っての配慮だ。
 そして知る。
 これまで、ふてくされて八つ当たりしてくる女を素直で可愛いと思っていた。そんな女の機嫌をとるために宝石や服を買い与える。するとたちまち喜んでじゃれてくる。それもそれで一興と楽しんだ。反面で、環のことを愚鈍な女だと思い続けてきた。私が他の女といるのを何度か見られたことがあった。でも、いつだって何も言わなかったし、目撃された後も会うと笑って嬉しそうに近づいてきたから。そんな態度を私は嗤った。好きだと言ってくるわりに、妬いたりはしない。可愛げのない女だと切り捨ててきた。だが、そうじゃなかったのかもしれない。おそらく、そうではなかったのだ。環と接するようになり、その性格に触れてみてやっとわかりはじめた。環は傷ついていないわけじゃなかったこと。
――私は本当に愚か者だ。
 何も見えていない。何もわかっていない。
 私をどれだけ思っているかわかるよう言葉や態度で示してきた女を評価し、見えないところで私を思いやってくれている環のことをないがしろにした。だが、本当に思ってくれていたのはどっちなのか。これっぽっちも考えなかった。そんな想いを私自身が持ったことがなかったから、気付けなかった。
 その後、数日して件の男と顔を合わせると「あの人は元気か」と様子を伺ってきた。「あんなに美しく品のある人は見たことがない」と褒め、「大変申し訳ないことを言った。お前からも謝っておいてくれ」と再三言われた。以来、男が絡んでくることはなくなった。
 わかる人にはわかるのだ。
 母や朝椰が何故あれほど環を贔屓にするのか。ただ見目麗しいからじゃない。そこにはしっかりとした理由が存在していた。ただ、私にはその尊さを理解するだけの能力がなかったのだ。馬鹿だった。本当に、どうしようもなく。
――こんな人は二度と私の前には現れないだろう。
 大事にしなければならない。これまでの分も、より一層大切に。何もかもを捧げても足りはしないほどのものを私に与え続けてくれていた。この人を失いたくない。失えない。そのためなら何でもすると誓った。



2010/5/17

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