蜜と蝶

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   蝶 と 蝶  19   

 
 優しく丁寧に接してもらっているのにどうしてこんなにも辛くなるのだろう――。
 最初はその理由がわからなかった。今までに経験したことがない対応に戸惑って、どう受け止めればいいのかわからないからだと思っていた。でも、時が経つうちにそうじゃないことに気付き始めた。

――今まで散々無視してきたくせに、今更何?

 そう、思っているのだ。私の体の奥底から溢れてくる黒い炎の正体――それは憎しみだった。
  これまでずっと、私の人生は草寿様に捧げる、と。初めてそのお姿を見た日、この人の為なら何でもできる、と。疑いなく信じた。そしてその通りに生きてきたつもりでいた。けれど、そうじゃなかった。心の奥では納得出来ないと叫ぶ自分がいた。報われたい。認められたいと思っていた。私は、自分自身を買いかぶりすぎていただけ。恥ずかしい。
 事実に気づいた時は笑うしかなかった。
 そして、わかってしまうと、これまで堪えていた感情があふれ出てくる。
 辛い。悲しい。寂しい。泣きたいのを我慢して、堪えてたの。泣いてしまったら、あの人を好きでいられなくるから。苦しいと少しでも思ってしまったら、続けられなくなると知っていたから。好きでいたかったから、悲しい気持ちに蓋をした。見ないふりをして、好きって気持ちだけを拠り所にして、心細い毎日を過ごしてた。
 私のことだけ見てほしいと思ってたわけじゃない。それは無理な願いだと知っていたから。だけどせめて、他の子にしているように、私にも接してほしい。その他大勢の一人でもかまわない。ほんの戯れでも、気まぐれでも、なんでもいい。一度でいい。優しくしてもらいたい。そう願った。でも、それさえもしてはくださらなかった。唯の一度も。あの人が違う人に甘い台詞を囁いているとき、私は一人で待っていた。それでも私は草寿様を好きだった。すごくすごく好きだったの……私をちっとも見てくれなくても好きだった。だけど我慢しきれなくて、諦めることにした。私は楽な道を選ぶことにした。あの人を好きじゃなくなる代わりに穏やかな気持ちを取り戻した。あれだけ頑張ってしがみついた気持ちを、苦しんできた日々を、婚約破棄が決まったあの時、捨てたの。なのに、今更、草寿様に優しくされたからと、あの決意を簡単に覆していいの?
――あなたはそれで本当にいいの? 
 辛かった頃の私が問う。平気なふりをして、大丈夫だと押し込んだ感情。ずっと、長い間、堪えていた自分が泣いている。あんなに悲しい想いをして、泣く泣く諦めた、踏ん切りをつけた想いを、相手の気持ち一つでこんなにも簡単に変えてしまっていいの? 願っても祈っても叶わなかった。私の努力ではどうにもならなかった。それが草寿様の心ひとつであっさりと変えるなんて。そんなこと許せない。あんなに一生懸命だったときは見向きもしてくれなかったのに。それを優しくされたからって受け入れたら……そんなことをしたら、私は私を許せなくなる。
――だから、駄目だ。あの人を受け入れてはいけない。私は、あの人の心変わりを許せません。
 それは、愚かな気持ちなのだろうけれど。
 私が好きでしていたこと。草寿様がそうしろと望んだわけじゃない。誰に強要された覚えもない。私が自分で判断し、自分で行動してきた。 そんなことはわかってる。だから、あの人を責めることなどできないと。でも、
――そんな理屈はどうだっていい。
 だって、大切にされて嬉しい、大事に扱われて幸せだと素直に思えない。草寿様の行動の全てを過去と比較してしまう。そして、これまでどれだけ相手にされていなかったのか思い知らされる。その度に心が潰れそうになる。こんな思いを抱えては一緒にいられない。このままでは私は自分が押し込めて感情に復讐される。そして、きっと草寿様をも傷つけるだろう。怒りをぶつけてしまう。その前に、終わらせなければ。
 だから、あの人に別れを告げよう。
 そう決めた。
 問題は、言い出す機会だった。けれど決意してから、不思議と心が落ち着いた。自覚したことで喪失したの? そうなのかも。そうだったらいいのに。そしたら、私はこのまま草寿様の傍にいられる……そんな甘いことを考えた。決めたと言いながら、まだ未練を残す自分が浅ましい。そんな私にけじめをつけさせるように、別れを言い出す機会はやってきた。草寿様の何気ない一言で、私はアッサリとまたあの黒い炎に包まれた。
 それは平日の夜だった。草寿様は勤めを終えられて、私の元へ寄ってくださった。
 草寿様は、ここのところ、今まで以上に私に気を遣ってくださっていた。私の押さえ込んだ胸中が知らず知らずに洩れ出て、何かを察知されているのかもしれない。私の表情や言葉の一つ一つを注意深く見つめていた。その様子は怯えているようにも見えた。不安げな。自分が、草寿様にそんなお顔をさせることがあるなど、少し前なら考えられなかった。今も、これは夢じゃないかと思う。その姿に、胸が痛んだ。この人を悲しませたくない。草寿様が私を必要としてくださるなら、それを受け入れたほうがいい。そう、一瞬思った。けれど、草寿様は引き金をお引きになった。 
「もうじき龍神祭りの時期だね。浴衣は何色がいい? 」
 龍神祭り――古くから行われている大きな祭りだ。昼の部と夜の部に分かれていて、夜の部には成人した者しか行けない。そして、この祭りの時、男が女に浴衣を贈るのが慣わしだった。恋人同士の最大の行事だ。だけど、私は二十歳のときから一度も、この祭りには参加していない。見てしまったから。初めて、現場を目の当たりにした。それまでは噂で聴くことはあった。草寿様が他の女性と関係をお持ちだと。周囲の人は私への配慮から極力聞かせないようにしてくれていた。それでも洩れ聴こえてくる噂話。だけど、所詮噂は噂だ。話が大きくなるもの。あまり気にしていなかった。でも百聞は一見にしかず。見てしまった。二十歳になった年の龍神祭り。見てしまったのだ。その日、私は草寿様が浴衣を贈ってくださるかと期待していた。でも何もなく、ガッカリした。ほしいと言わなかったから。ちゃんと自分でお願いしなかった私が悪い。そう、慰めた。祭りにも誘ってくださらなかったのも、お忙しい身だから仕方ない、と。もっと早くから予定を調整してくださるように頼めばよかったのだ、と。どこまでも都合よく捉えていた。草寿様と一緒に行けなかったけれど、初めて夜の部を見に行ける。私は友人達と共に見に行った。祭りは盛大で、酷い混雑だった。人ごみは苦手だ。鈍臭いのですぐにはぐれてしまう。案の定、私は一人はぐれてしまった。キョロキョロと周囲を見渡して探す。そんなことをしなければ、見ずに済んだのかもしれない。視線の先に、草寿様がいた。最初は嬉しくて、近寄ろうとした。けれど、すぐに体が固まった。美しい女性が傍にいたから。たまたま、人の流れでそうなっているだけかと、しばらく見ていたけれど、人ごみに押された際、倒れぬようにさっと腰に手を回された。ああ、その人は、見知らぬ人ではないのだ。ご一緒されている。それでもまだ信じられずじっと見つめていると、ふと草寿様が私を見た。確かに、目が合った。でもつまらなそうに逸らされた。その後のことは良く覚えていない。あれから私は龍神祭りには行っていない。そんなことがあったなど、草寿様は全く覚えていない。きっと草寿様にとって大したことはなかったのだ。覚えるほどのことではない。そう。事実、そんなこともう過去のことだし、今更言っても仕方ない。悲しいならあの時にその場で言うべきだ。言わなかったのなら永遠に沈黙すべきこと。こだわる私がおかしい。そう言われれば愚の音も出ない。だけど確かに今、私は悲しんでいて、きっと、この人の傍にいる限りこんな気持ちを味わい続けるのだ。それに耐えられる? なんともない振りをして笑っていられる? 無理だ。そう思った瞬間に、完全に、私の中で何かがはじてた。そして、告げていた。
「龍神祭りには行きません。浴衣もいりません」
「……環? 」
 草寿様は私が断ったことに驚愕されていた。そういえば、私は草寿様の提案をお断りしたことはなかった。でも、もうそんなことは出来なかった。
「私は自分がこれほど浅ましい人間だとは知りませんでした。自惚れておりました。草寿様が私を思うてくださいますことはわかります。けれど、どうしても昔のことを思い出してしまうのです。「今」がよければそれでいいと思えません。心がともないません。ですので、このご縁談はお断りさせていただきとうございます」



2010/5/17

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