蜜と蝶
蝶 と 蝶 20
環の心がどんどん遠のいていくのを感じていた。
出かけても、ふとした瞬間に表情が陰る。最初は一緒にいられることが嬉しいのと、彼女と連れだって歩くことへの緊張で見えていなかった。だが次第に落ち着いてきて、そして、気付いた。環の憂いを。私に気づかれぬように細心の注意を払っているようだったが、その目は悲しんでいた。また、贈り物をしても同じだ。「ありがとうございます」と口で言うものの喜んではくれない。贈った物を身につけてくれているところを見たことがない。
そして、今日もまた、
「ごめんね。気に入らなかった? 」
「いいえ、そのようなことは…」
「環の好のみがわからなかったから、今度はちゃんと気に入るようなものを持ってくるね…」
「お心遣い大変感謝しております」
「そう? ……」
だが、その顔は寂しそうだ。じっと耐えているようにも見える。何を? わからない。ハッキリしているのは喜んでくれないし、嬉しがってくれないこと。笑顔を見たいと思うのに笑ってくれない。無理に微笑むことはあっても心底の笑顔は見せてくれなかった。焦燥は募るばかりだ。私が行動するたびに、彼女は離れていく。大切にしようと思うのに、近寄らせてもらえない。指の間を伝って、掬った水がこぼれおちていくよううな感覚。
――怖い。
私の身を支配する感情。この人を失うのではないかという恐怖心。この状況を打破しなければ。焦りは広がる。だが、理由がわからない以上、手の打ちようがない。尋ねても答えてはくれないだろう。聞くことでもっと彼女を追い詰め傷つける。非礼を詫び「そんなことはございません」と述べるに違いなかったから。そして、ますます心は遠のいていくのだ。八方塞がり。だが、手をこまねいて見ていることは出来ない。少しでも、その心に近づけるように。
「そういえば、もうすぐ龍神祭りだね」
龍神祭りには男が女に浴衣を贈るのが習わしだった。ああ、そうだ。浴衣だ。環が好きな紫陽花柄にしよう。これならば、きっと喜んでくれる。絵柄は決めた。下地は……深い紫か、濃い青か、環はどちらを好むだろう? どうせならば、気に入るものを贈りたい。だから、尋ねた。
「浴衣は何色がいい? 」
瞬間、環は真っ青な顔をした。比喩ではなく、倒れてしまうのではないかと思うほど。そして、
「龍神祭りには行きません。浴衣もいりません」
「……環? 」
小さな声ではあったけれど、拒絶の言葉だった。
――どうして?
慎み深い性格だ。遠慮しているのか。そんなこと思わずに、甘えてほしい。だが、次の言葉に戦慄が走った。
「私は自分がこれほど浅ましい人間だとは知りませんでした。自惚れておりました。草寿様が私を思うてくださいますことはわかります。けれど、どうしても昔のことを思い出してしまうのです。「今」がよければそれでいいと思えません。心がともないません。ですので、このご縁談はお断りさせていただきとうございます」
「すまないが、何を言っているのかわからない……」
かろうじて告げた。
環はすっと佇まいを直し、三つ指ついた。顔をあげ、私を射るように見つめる。逸らさずに、真っ直ぐ。そして、淀みなく、丁寧な口調で言った。
「草寿様がこれまで私に興味をお持ちでなかったことは仕方ないこと。好いた惚れたはどうしようもないものですから、当時がどうであっても、今、私に関心を寄せていただけているのなら、それでいいではないか、と。幾度も自分に言い聞かせてまいりました。ですが、どうしてもそうは思えぬのです。ずっと無視されてきたあの頃の私が泣くのです。私がどれほど辛かったか思い知らせてやりたいと愚かな気持ちが心根の深くにあるのです。草寿様のお気持ちを受け入れることは、負けだと。つまらぬ矜持でございます。ですが草寿様のおそばにおれば、あなたを傷つけてやりたいと思う気持ちがいつか爆発する。それが恐ろしくてなりません。そうなる前に、お別れしとうございます」
別れたい、といったのか? 私を傷つけるから? その前に別れたい? そんなこと、
「かまわない。お前は私に何をしてもいい。どんなことをしても。だからそんな別れるだなど言うな」
「そんなわけにはいきません。私はあなたを傷つけることはしたくありません。ですから、お傍にいるわけにはいきません。どうぞ、おわかりください」
「やめてくれ。お前がいなくなるなど……そんなこと受け入れられない」
環は私を黙って見つめていた。この目に二度と映らなくなるなど。そんなこと、
「環……環。お願いだから私の傍にいてくれ。なんでもするから」
だけど、
「いいえ。 私のことを少しでも憐れに思うて下さるのなら、どうぞもう、何もなさらないでくださいませ」
揺らぎなく強く私のすべてを拒否する。何もするな、と。
「正直に、申し上げましょう。今、草寿様が私に何かをしてくださる度、辛くて寂しくてたまらないのです。私はあなたの心変わりを許せません。今になって優しくされても嬉しい気持よりも、寂しさの方が強いのです。あなたに甘い言葉を囁かれるたびに、私の心は張り裂けそうになる。今まで散々見向きもしなかったくせに、と。そんな気持ちが溢れてくるのです。いくら草寿様のご好意を受けても、私にはそれを素直に喜べる心がないのです。ですから、草寿様のお心遣いを喜んでくれる方にそのお時間をお使いください。私のことはこれまでのように無視してください。それが私の心を安定させるのです」
――無視しろだなんて、そんな…。
「……私は、草寿様のことを想っておりました。お傍にいたいと望んでおりました。ですから、何度も過去のことは忘れようと出来うる限りのことはしました。ですが、未熟な心はどうにもならず、これ以上続けることができません。せっかくお心を傾けてくださいまいしたのに、過去を受け入れられぬ愚かな女なのです。お笑いになって、お忘れください」
「何を言う。忘れるなんてそんなこと、できるはずがない。お前でなければ……お前に思われぬ人生に何の意味がある。今の私があるのも、これから先の私が存在するのも、お前がいるからだ。私にはお前しかいない。お前でなければいけない。気付くのが遅すぎた。私が愚かだった。お前なしで、どうしていいかわからない。許してくれ。私を受け入れて 」
「私には無理です。出来ません。草寿様を愛してくださる方なら、たくさんいらっしゃるでしょう。私である必要などどこにもない。どうぞ、お許しください」
「そんなことない。お前でなければいけない」
「そのお言葉、もう少し早くに聞きとうございました。草寿様を好きなだけでいられた頃に戻れたらどんなにいいかと…。ですが、もう私は以前の私ではありません。草寿様よりも自分の身が可愛い。傷つきたくない。辛い思いはしたくない。そう思います」
それだけ言うと、環は静かにお辞儀した。これで終わりだ、と。そんな姿に体が勝手に動く。彼女の体を抱きしめていた。
「お離しください」
「ダメだ。離せない。行かないでくれ。大事にするから。もう二度と悲しい思いはさせない。傷つけたりしない、だから……」
こんな強引な真似を朝椰に知られたら、私は二度と環に会わせてもらえない。――どこかで冷静な自分が言った。だが、今、ここで、この人を引き止めなければ終わってしまう。確実に。完全に。終わってしまう。それだけは間違いない。だから、どうにかして、引きとめなければならない。そして、説得しなければならない。
環は腕の中で暴れていた。そして、泣いていた。許してくれ。もう、許して、と。たとえば少しでも、私を責めてくれたなら、謝ることも出来るのに、環は私に許しをこうばかりで。
「私が悪かった。全部。私が悪い。お前が謝ることじゃない。お願いだから、そんなこと言わないでくれ」
背をさすると環は声を上げて泣きだした。こんなに感情を表す姿は見たことがない。ずっと堪えてきたもの。私が省みなかったもの。それのほんの一部。どれだけの我慢をして、どれほどの涙を飲み込んできたのだろう。全て、私が馬鹿だったせいだ。強く抱きしめるとしがみついてくる。それは幼子が庇護を求めるようなもの。守ってやらなければならなかったのに。この人は本当なら守られるべき人だったのに。私は一体何をしてきた? 守るどころか守られて、そのことにさえ気づかずに、散々傷つけて。とんでもない過ちを犯し続けてきた。許されなくて当然の、信じ難い振る舞いを……。
環はしがみついたまま泣き続けていた。その体を抱きしめてあやすようにさするくらいしか出来ない。壊れそうな細い体を何度も何度も撫でながら、この人が愛おしくてしかたなかった。
2010/5/18
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