蜜と蝶

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   蝶 と 蝶  21   

 
 あの後、、どうにか環を宥め、求婚の断りだけは考え直してもらえた。だが、全てを先延ばしにしただけに過ぎなかった。求婚期間満了まであと一月半。その時、改めて断られる。今のままでは間違いなく。それまでにどうにかしなければ。方法など何一つ浮かんでこない。ただ、ひたすらに会いに行くだけ……。
「悪運の強い男だな」
 朝椰は呆れたように言った。
 あの日の出来事の全貌を、朝椰は部屋に設置された鈴音を通して知った。本来なら、すぐにでも駆けつけてくるのだろうが、生憎(私にしては幸い)遠方に出かけており物理的に不可能だったのだ。
「そして、愚かな男だ。前もって忠告してやったのに見事に心配していたとおりの行動をしている…」
 正直、朝椰の話を聞く余裕も気力もなかったが、続けて言った台詞が気になった。朝椰が「忠告した」というのは青楼でのことだろう。確かにあの時、朝椰は言った。

――このまま環の傍にいても、出てくる問題がある。それを乗り越えられない限りお前達が結ばれることはない。お前にそれがどんなものかわかるか? わからないだろう? 分からない以上、きっとお前はそれをする。

 わかっていたというのか。朝椰を見つめると、大きなため息をついた。そして、
「悪いことはいわん。もう、環のことは諦めろ。それが環のためでもあり、しいてはお前のためだ。このまま続けても、おそらくまた同じことの繰り返しだ。お前はまた絶対に環を傷つける」
「そんなことはない」
「いいや、ある。お前は自分がしてきたことを軽く考えすぎている。今、大切にしているのは認めてやる。だがな お前が環を大切にしようとするほど、あの子はこれまでいかに大切にされていなかったのかを知る。お前に盲目的になっていた頃とは違うんだ。あの子の世界はようやく広がった。そして、自分がどれほど不遇な扱いをされていたか冷静に見るようになった。許せなくなるのは当然だ。だが、お前はそんなこと考えなかった。ただ優しく大切に扱えばやり直せると思っていたのだろう? 今までのことを取り戻せると。だが事はそんなに単純なものでもないんだ。お前がいかに誰も愛してこなかったかわかるようなものだ。「好き」という感情を知ったばかりの子どもだ。贈り物をすることぐらいしか気持ちの伝え方がわからない。でもそんなことで環は振り向いてくれない。それどころかその行為は環を傷つける。……お前が無骨なだけで、女を喜ばせることが出来ない男だったらよかったのに。そしたら、まだどうにかなったかもしれない。だがそうじゃない。出来るのに、環にはしなかった。他の女にはしているのに、環にはしなかったんだ。それがどれほどあの子を傷つけていたか。お前が考えているよりずっと根深い。 事実、環は過去を過去として見れていないだろう? お前があの子に何かをしてやると、あの子はこれまでしてもらえなかった記憶と結びつけてしまう。素直に嬉しいという感情だけが出てこない。それほど深く絶望しているんだ。だからお前は、環が過去を乗り越えてくれるように配慮する必要があったのだ……それが全く真逆のことをして環を傷つけた。それを環に言われてやっと気づいた大馬鹿者だ」
 朝椰の言葉は否定しようがなかった。大切にしようと贈り物をしたり、連れ出したりと、懸命だった。それが環を傷つけているなど考えなかった。それで喜ばれてきたから。今回もうまくいくと安易に思っていた。
「龍神祭りのことにしてもそうだ。お前は環を喜ばせたいと思って言っただけだろう。これが付き合いはじめの恋人ならそれでよかった。でもお前達は違う。お前はこれまで環に浴衣を贈る機会はいくらでもあった。でも贈ったことはない。それどころか一緒に行こうと誘ったこともない。お前はあの祭りにはいつも他の女と出かけていたからな。環はそれを知っているぞ? 毎年毎年お前が他所の女にうつつを抜かしていたことを知ってる。環はその現場を目撃している。三、四年ほど前の龍神祭りだ。泣くのを必死に堪えているような環がいた。何事かと近寄った。私に気付いてすぐに笑顔に戻ったが、視線の先にはお前が他の女と戯れている姿があったよ。それからしばらく、あの時の環の顔がこびりついて離れなかった。後にも先にも、あんなに悲しい人の顔を見たことはない。だが環はそれを人に知られたくなかったのだろう。気の強い子だから。だから私も何も見ていないふりをした。おそらく、あれから環は一度も祭りには行っていない。龍神祭りは環にとって鬼門だ。毎年、どんな思いで過ごしていたか……でもお前はそんなこと考えず、当たり前のように環を誘った。非道な振る舞いだ。知らなかったじゃ済まされない。そうだろう? 」
「……」
「本来なら、復縁を申し込んでいるお前が、何より努力をしなければならない。でも、実際に努力を強いられていたのは環だ。あの子は必死でもう一度お前と向き合おうとしていたんだぞ。お前のことが好きだから。過去は過去だと。でもそうやって頑張っているのに、お前はそれに気付かなかった。それどころか傷をえぐる真似をした。龍神祭りのことは引き金にすぎない。おそらく、お前はそれ以前にも似たようなことを繰り返しているはずだ。お前は環の努力をに踏みにじっていたんだ」
 私のすることを喜んでもらえないことに落ち込んでいた自分がたまらなく恥ずかしかった。環が私に対して、そんな努力をしてくれているなど思わずに……どこまで愚かなのだろう。
「お前に、あの時の傷ついた環の顔をみせてやりたい。見てしまったらおそらくお前は立ち直れないだろう。好きな女に一度でもあんな顔をさせるくらいなら死んでしまった方がましだ。でもそれをお前は何度も環に味わわせている。それに気づくことさえなくな。いいか、お前はまだ本当の環の悲しみを見ていない」
――環の悲しみを見ていない。
 苦しかった。先日垣間見た環の慟哭。あれはほんの一部に過ぎない。あの小さな体に溜め込んでしまった悲しみがどれほどのものか。私は知らない。
「やはりお前では環の気持ちを理解してやるのは無理だ。あの子の愛情に見合う男ではない。あの子がお前を愛するのと同じだけの愛情をお前では返してやれない。だからもう、解放してやれ。環を包み込んでやれる度量をもつ男は他にいる。だから、その男に譲れ。これ以上環を悲しませるな。もう別れてやれ」
「そんなこと出来ない……環が傍にいない人生など考えられない」
 それだけはハッキリと言えた。だが、
「そりゃお前にとってはそうだろう。環の傍は気分がいいし居心地がいい。それだけ愛されていたのだ。でも、お前が味わってきた気持ちを、お前では環に与えてやれない。お前は無力で無能だ。環を喜ばせることはできない。今だってそうだろう? お前は自分のために環に傍にいてほしいだけだ。でも環のためを思えば答えは変わってくるんじゃないか? お前が味わってきた幸福感を環にも味あわせてやりたいと思わないか? それが愛情じゃないか? そしてそう思うなら、お前は環を諦めてやるべきだ。いい加減大人になれ。お前が幸せになることじゃなく、相手を幸せにしてやりたいと思う気持ちをもて。お前にもお前が幸せにできる女がいるだろう。それは環じゃない。お前と環とでは釣り合いがとれない。わかるだろう? 環にこれ以上無理を強いるな」
――環の幸せ
 その言葉に私はいよいよ打ちのめされた。
「環を幸せにする。それは、私には出来ない? 」
 つぶやいた言葉に、朝椰は大きく息を吐いた。そして、
「聞かなきゃわからんようなら、無理だろうな」
 泣くなバカがと言われて、自分が泣いているのだと気づいた。自然と流れたそれが、どんな感情からなのか自分でもよくわからなかった。



2010/5/19

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