蜜と蝶
蝶 と 蝶 22
草寿様に別れを切り出してからも、彼は私の元を訪ねてきていた。その必死な姿に、畏怖を感じるほど。私は草寿様を追い詰めている。だけど、同時に私も追い詰められていた。こんな状態にいつまでもいるわけにはいかない。どうにかしなければ。でも、解決策が思いつかない。自分の心が何処にあるのか、それもわからなかった。
そんなある日。
「約束もなく突然訪問したことを詫びねばなりませんね」
「いいえそんな……なんのおもてなしも出来ず。申し訳ございません」
見慣れたはずの客間が、まるで違って見える。威圧感……とは違うが、明らかにその場の雰囲気を支配する空気を纏った方――八依乃様が我が家にお越しになった。これまで、草寿様と婚約していた時でさえお見えになったことはない。叶家当主の奥方だ。たとえ八依乃様の方からお話があったとしても、私が聞きに伺う。それが常識。なのに、私を尋ねて来られた。異例中の異例。それも、従者の一人もつけず、たったお一人で。ご内密なのだ。何事か、と不安になる。
「元気にしていましたか? 」
「はい……」
「本当に? 」
八依乃様は慈しむような深い笑みを浮かべている。何もかもを見抜かれたようなお顔。
「はい。元気にしておりました」
「そうですか。それはよかった。お前の姿を見られなくなってから、とても気になっておりました」
「お気にかけていただき、大変光栄でございます」
それから、八依乃様は中庭に目を移された。そこには紫陽花が咲いている。もう時期が終わりかけていて花びらはまばらだ。
「大切に育ててくれているのですね」
そう。この庭にある紫陽花は、八依乃様のご好意で、叶家の庭に咲く紫陽花から株分けしていただいたものだった。草寿様の目に触れていた紫陽花が、私の家にある。そう思うと毎年花が咲くのが楽しみで仕方なかった。あの頃は、こんなことになるなんて思わない。残酷なほど無知で幸せな子どもだった。
それからしばし、とりとめのない話をしていたが、ふと訪れた沈黙。偶然というより、間合いを計って人為的に作られたもの、だろう。切り出すために必要な空気感。そして、
「……それで、今日、こちらへ伺った理由ですが…他でもない、お前と草寿とのことです」
八依乃様はおっしゃった。ドクっと心臓がうねった。八依乃様がわざわざお越しになるなど、草寿様のこと意外考えられない。でも、それはあまり聞いて嬉しくなることではないのは明白だ。
「草寿の様子がここ数日おかしかったので、心配しておりました。あの子があんなに取り乱し憔悴するのはお前とのことでしょう。他に思いつきません。ですが、あの子は話を聞ける状態ではない。それで、お前のところへ来たのです」
「――……」
「お前は草寿の求婚を断ったのではありませんか? 」
八依乃様は静かに告げられた。お怒りなのか。長年、目をかけ可愛がって頂いた。それこそ実の娘のように愛でていただいた。返しても返しきれぬご恩がある。それなのに、草寿様の求婚をお断りし恥をかかせた。格下の家の娘が恐れ多くも叶の嫡男を袖にしたのだ。
「環。正直に答えなさい。お前は草寿の求婚を断ったのですね? 」
「……はい」
「それでも、草寿は執拗にまだお前の元に通っている」
「――……はい」
「やはりそうでしたが。まったく、なんて愚かな」
八依乃様は心底呆れたといわんばかりの声でおっしゃった。
「申し訳ございません」
ただ、謝るしかできない。でも
「お前のことを言っているのではありません。草寿のことです」
八依乃様は続けた。
「お前には本当にすまないことをしたと思っています。この十八年、お前から幸せを奪い続けた。本来ならばもっと早く、婚約を解消するべきでした。なれど、私はお前と草寿が婚儀を結び、お前が私の娘になってくれることを望みました。お前もまた、草寿を慕ってくれていた。だからお前の優しい気持ちに甘えて、なんの手も打たなかった。そして、今になっての婚約破棄。詫びようもない非道なことをしたと悔いておりました。ですから、草寿がお前との復縁を望み、求婚をはじめた時はすぐにやめさせようと思いました。これ以上、お前に関わらない方がいい。お前の幸せは別のところにある。そう思ったからです。ですが、やはり私は草寿をとめなかった。もし、可能性がまだあるのなら、お前と草寿が結ばれてくれたら、と。その願いが甦ってきたのです。だから、お前からこの求婚を断らない以上、黙っていようと……だが、お前は断った」
「……」
「それでもあの子はまだ執拗にお前の元に通っている。なんという浅ましく恥知らずなのか。あの子は今冷静さを欠いている。執着心に溺れて、とんでもないことをしている。お前の心を考えると矢も立てもたまらずやってまいりました」
「八依乃様……」
「あんな風になったのは、全て、私が育て方を誤ったせいです。お前には詫びようもない」
八依乃様は、私の三つ指ついて頭を下げた。私のような若輩者に、
「おやめください……」
「いいえ。これは親としての責任です。金輪際……今後二度と、あの子をお前には近づけません。だからどうか許してやってほしい」
――金輪際、近づけない。
彼に二度と会わないですむ。顔を見ることもなくなる。憎らしいあの人と会わないでいられる。よかった。これで無事解決だ。万々歳だ。だけど、
「そのようなことは……そのようなお気遣いはご無用です」
どうして、そんなことを言ってしまったのか。よくわからない。会わないようにしてくれる。彼の行動をとめてくれる。それでいいはずなのに。何故私はそんなことを言っているのだろう……。
「私は今年で二十四。年があければ二十五でございます。もう、何もわからぬ子どもではございません。八依乃様のお心遣いは大変感謝いたしますが、ご心配にはおよびません。どうぞ、八依乃様がお気を病むことのないように。私はそれを望みます」
するりと口をついて出た言葉。八依乃様は一瞬だけ驚愕されたような顔をなさった。それからとてもお優しい眼差しで私を見た。
「……そうですね。お前も立派な大人。いつまでも子ども扱いした私が浅はかだった。私は親バカなのでしょう」
八依乃様はおっしゃった。そして、
「ですが環。これだけは言っておきます。お前は幸せにならねばなりません。草寿がお前の幸せの邪魔になるなら切り捨てなさい。会いたくないと思ったら、遠慮なく私に言うのですよ」
2010/5/23 追加
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