蜜と蝶
蝶 と 蝶 23
私は混乱していた。
あの日、草寿様に別れを告げた。堰を切ったような感情は恐ろしいほど滑らかに流れ出た。責めた。思い知らせてやりたい。そんな気持ちで。傷つけた。彼は泣いていた。追い縋ってきた。それを冷たく突き放した。子どもみたいな不安げな表情で、懸命に繋ぎとめようとする言葉全部を否定した。それでも懇願してきた。あの気位の高い彼がこんな風な姿を見せるなんて。それを見るとたまらなくなった。でもそれでもまだ彼を許せないと思う気持ち。どうしていいかわからず泣いた。彼の前で泣いたのは初めてだった。
あんな風にみっともない姿をお見せしても、草寿様は私に求婚を続けた。でも、それを嬉しいと思えない。それどころか、混乱する。辛い、と思う。どうしてこんなことするの? 少し前、ほんの数ヶ月前まで私のことなど見向きもしてくれなかったのに……どうして? 勝手だと思う。今更すぎる。私はこんな自分勝手な人を好きだったの? ――疑問。そもそも、どうして私はあんなにまで頑なに草寿様を思っていたのか。酷い人だとわかってた。やめた方がいい。他にいい人はたくさんいる。自分でもそう思った。でもやめなかった。どうして? わからない。そのくせ、ようやく振り向いてくれたのに、今度は過去が忘れられないと怒りをぶちまけた。そして傷つけて悲しませた。意地だったんだろうか。袖にされたのが悔しくて、振り向かせて今度は私が振ってやる。そんなことを考えてた? ああ、そうかもしれない。だったら成功した。望みはかなった。ざまぁ見ろと喜んだらいい。でもそんな気もならない。じゃあなんだったの? わからない……。
その後、八依乃様が私の元に様子を伺いにきてくださった。八依乃様は私が辛いだろうと慮ったくださり、草寿様を私の元へこさせないようにすると申し出てくださった。草寿様に会わなくなれば、きっと、私の不安定な気持ちは落ち着く。楽になれる。有難い申し出だ。お願いすればいい。けれど、私の口から出たのは拒否の言葉だった。「そんなことはなさらないでください」と。何故、あのようなことを言ったのか。本当にわからない。自分がどうしたいのか。
ただ、気が抜けた。張詰めていたものがなくなり、気が、抜けた。何も考えられない。糸の切れた凧。とか。首輪の外れた犬……それは違うか…とか。他愛のないことは思いつくけど、肝心なことは駄目だった。考えなくちゃならないことがある。それはわかる。でも、なるべく近づかないようにした。きっと傍に行けば渦に飲み込まれてわけがわからなくなる。とめどなく溢れる感情は脈略なく混沌としてごった返しているだろう。喜怒哀楽を繰り返し疲れ果てる。予感。というか確信。だから背を向けた。逃げた。投げ出したのだ。おかげで心は静かだった。波風一つ立たない。ただしそれは嵐の前の静けさに過ぎない。広がっていく未整理の感情がやがて、押し寄せてくる。そう思うと恐ろしかった。
それから少しして月に一度の蜜との宴があった。
歌を食べる気になれず、開始後すぐに席を外した。気づくと私は中庭にいた。ここで草寿様に攫われた……けしていい思い出ではない。でも、ここしか行き場がなかった。
あれからも草寿様の求婚はまだ続いている。日が経つうちに彼の状態は落ち着つき、切羽詰まった焦りはおさまったように見えた。ただ、以前とは決定的に変化してしまったことがある。私の言動のすべてに過敏になられた。そして気を遣ってくださっている。私に嫌われないよう恐る恐るの振る舞い。誰にも臆することない方が怯えていた。それを見ると何とも言えない気持ちになる。でも、それでもまだ彼を許せないと思う自分がいた。どうしても受け入れる気にはなれなかった。自分の頑なさが悲しい…。
丁寧に植えられた紫陽花は時期が終わり、青い葉だけになっていた。指を伸ばして触れる。ざらついた感触を確認していると、
「環」
名を呼ばれ振り返る。夕凪だ。
「探してたんだ。先月、歌う約束しただろう? 」
「覚えててくれたの? 」
「当然」
「でもごめんね……せっかくだけど今日はあまり食欲がないの」
「……どうしたの? 何かあった? 」
夕凪は心配げな表情だった。けれど、話しをする気分でもない。黙ったままでいると、
「ちょっと待ってて」
と言って、離れの方へ歩いて言った。それから手にお盆を持って戻って来た。
「はい。どうぞ。ほうじ茶。落ち着くだろう? 」
「ありがとう」
それから二人で日向ぼっこした。夕凪は先日見たという芝居の話をしてくれた。それは私が今月末に草寿様と行く予定だったものだった。あの約束が果たされることはないだろう。だから、どんな内容か詳しく聞かせてほしいと言うと、夕凪は話し始めた。
「主人公の姉が死んだところから物語は始まるんだ。訃報を聞いた主人公のモノローク。『姉は不幸な人だった、町の誰もが言う。そして、それは事実だ。だけど真実ではないことを私は知っている』そこから姉の人生の回想が始まっていく。姉・ガラシャは賢く美しい人でよくモテた。その中でも優しく家柄のいい男・ナギといい雰囲気だった。そこに割って入ってくるのが色男のダンだ。ガラシャは一目で恋に落ちてダンと駆け落ち同然で結婚する。だけどこのダンという男がろくでもない奴で、呑む打つ買うと遊びまくり家に金を入れない。ガラシャが必死に働いた金にまで手をつける。そのせいでガラシャは貧しい生活を強いられ、過労で命を落とす。葬儀の席で皆がガラシャの不幸を悲しみ、憐れんだ。これが第一幕。薄暗い照明の中で役者たちはガラシャがどれだけ不幸だったか淡々と語っていくんだ」
「……ものすごく悲惨な話だね…」
「だろう? でも第二幕はガラリと変わる。今度はガラシャが主人公に出した手紙を元にした回想録だ。やっとガラシャ本人が登場する。第一幕の印象から幸薄な女性を想像するんだけど、出てきた人物は陽気で楽しげなんだ。最初それは強がりなのかと思って見てたんだが、本当に心底幸せそうで、同一人物なのかと疑った。それは死ぬ間際になってもそうで。ガラシャが倒れたとき、ダンは他の女と一緒にいるんだ。ガラシャはそれを知っているはずなのに「彼の妻となれて嬉しかった」と言って死ぬ。どうしてそんなこと言えるのか理解できないけど、それは紛れもなく彼女の真実だった。人の目から見た彼女の人生と、彼女の目から見た彼女の人生はあまりにも違いすぎて、芝居が終わった後、なんとも言えない気持ちになった。不幸そうに見えるからって不幸なわけじゃないのだろうか? とか、人にどう言われても自分が幸せだと感じれるのが一番なのかな? とか……」
――人にどう言われても自分が幸せだと感じられるのが一番。
夕凪の言葉に、ざわついた。心が。奥歯に物が挟まってとれないような。気持ち悪い違和。とらなければ。スッキリさせないと。
「……ガラシャは幸せだと感じていたって思う? 不幸なのに強がって思い込んでるってこともあるんじゃない? 」
「いや……思い込みとか、強がりとか。そういうのではないな。たぶん、ガラシャは本気で幸せだと感じていたと思う。誰かに見栄を張るためとか、そんな感じは微塵もないんだ。自分で自分の気持ちに納得して自信があるというのかなぁ。……ガラシャが駆け落ちを決めた時もね、それに気づいた主人公が言うんだ。『あんな男のどこがいいの? 何が好きなの? もっと姉さんを幸せにしてくれる人がいる。 目を覚ましてよ』って。それは観劇しながら私もずっと疑問だったことだから、なんて答えるんだろうなと思った。そしたらガラシャは『私は彼を好きなんじゃなくて愛しているのよ。好きに理由は必要かもしれないけど、愛するのに理由はないでしょう? 私は一目見て彼を愛してしまった。それだけよ』って。なんだか妙に納得したというか……って 環、どうした? なんで泣いてるの? 」
「ごめん……ちょっと、なんかすごく大事なことを思い出した」
夕凪は突然泣き出した私に驚いた。私自身もビックリした。でも後から後から溢れてくる涙を堪えることが出来なかった。夕凪はそんな私を
「やっぱり泣き虫じゃないか」
と笑った。
2010/5/21
2010/5/24 加筆修正
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