蜜と蝶

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   蝶 と 蝶  24   

 
 幼い頃に見限った想いがある。
 私を褒め称えていたのに、朝椰現れると途端、そちらにおべっかを使い始める輩たち。そんなことが頻繁に繰り返され、いつしか私は人などくだらないと思うようになった。権力に迎合し、簡単に掌を返すから。信じるに値しない。誰しも自分のことしか考えない。いかに利になるか。傍にいれば得になる相手を見抜いて近寄り愛想を振りまく。そういう生き物だ。だから、こちらも真剣になる必要はない。真摯に向き合っても馬鹿をみるだけ。適当にあしらって、おいしいところだけを味わえばいい。そうやって人を見下した。だが、そうじゃないよ、と。それは違う、と。知らしめ続けてくれた人が、ずっと傍にいてくれたのに。その人に背を向けて、見ようとしなかった。
――結局一番くだらなかったのは私じゃないか。
 誰のことも思いやらず、愛さず、蔑んで馬鹿にして、一体何をしていたのだろう……。
 朝椰に突きつけられた言葉。どれもこれも最も過ぎて反論できない。正論は時に暴力となる。正しいことは正しいだけに残酷だ。打ちのめされるしかない。
――どうすればいいのだろう?
 環は家に行けば会ってくれる。失礼のないようもてなしてくれる。だが心は閉ざしている。むなしい。悲しい。だが、それでも会いたくて出向いてしまう。これが自分勝手、自分本位さなのだろう。こんな私では環を幸せに出来ない。じゃあ、どうすれば幸せに出来る? 喜んでくれる? 贈り物をすることやどこかへ連れ出すこと意外で出来ること。環が嫌な過去を思い出さないですむようなことは何だ? どんな方法があるのか。思いつかない。情けないがわからない。傷つけたくない。悲しい思いをさせたくない。だから、何もしない。出来ない。環を笑顔にしたい。その願いを叶える方法を、私は、もっていなかった。
――やはり、もう、会いに行かない方がいいのか……。
 私が諦めれば、環はほっとする? 元気になる? おそらくそうなのだろう。その現実が辛い。これが私がしてきたことの結果。愚かなことをしてきた。取り返しのつかない大きな過ちを犯し続けてきた。もう、どうにもならない。どうしようもない……。

 仕事が終わり帰宅する。庭に出た。環が好きだという紫陽花に惹きつけられたから。花の季節は終わり、青い葉だけになったそれを見つめる。環が好きなもの。環に直接会えないならせめて環が好むものに触れていたかった。これを株分けしたものが、環の家の庭にも植えられている。それを知ったのはつい最近だ。環の家の客間から見える中庭に紫陽花が咲いて、
「紫陽花は赤が好きなのか? 」
 尋ねると、
「いいえ、青が好きでございます」
「ならば、うちの庭の紫陽花を株分けしようか? 」
 環は少しだけ戸惑った顔をした。そして、
「我が家の紫陽花は草寿様のお庭から株分けしていただいたもの。紫陽花は土の成分で色が変わるのでございます」
 そうを教えてくれた。
 あの時、環は一瞬だけ傷ついた顔をした。ような気がした。だが、私は気のせいだと思った。傷つく理由がわからなかったから。今になって、気のせいではなく傷つけていたのだと理解した。何年も前に株分けされた紫陽花。その事実を、今頃知った私。鴇塔家を訪れたことがなかったから知る術がなかったのだ。それはつまり、いかに環に興味がなかったかを示すこと。彼女は痛感したに違いない。せめて、あの時、傷ついた顔をした時、気のせいなどと思わずに理由を尋ねていれば違ったかもしれない。私は軽く捉え受け流した。どこまでも能天気で、鈍感だ。
「草寿。そんなところで突っ立って何をしているのです」
 声をかけられた。母屋から。振り返ると、
「母上……」
「こんな時間に家にいるなど珍しい。環のところへは行かなかったのですか」
 仕事が早く終われば、平日でも顔を見に行く。だが、今日は寄らずに帰ってきた。
「環のところへは行けません」
 よくよく考えた末、それがやはり最良の選択だと。認めざるを得なかった。だから覚悟を決めた。環のところへは行かずこうして家に帰ってきた。辛い。悲しい。寂しい。なるべく考えたくないこと。それを真正面から問われるなど……ついていない。そっとしといてほしいのに……。だが、母は容赦なかった。
「振られたのですか」
「……」
「当然ですね。環は鴇塔家の娘。気位の高い本物の蝶女です。それを見抜けずに、散々踏みつけてきた。許されわけがない。こうなるのは目に見えてました」
「……」
「それで、お前は諦めるのですか。一度、二度振られたぐらいで、ずいぶん簡単なことですね」
「――…簡単、などではありません」
 どんな思いで私が諦めようと決めたか……何も知らないくせに。そんな憤り。
「では何です。何故諦めるのです。お前も叶家の人間なら意地を見せなさい」
――それができたらそうしてる。だが、
「環は私を見ると辛いというのです」
 自分でも驚くほど大きな声が出た。これでは単なる八つ当たりだ。だが、心を締め付ける思いを体内に納めておくには限界で、
「環は……環は私といると辛いと。過去を思い出して寂しくなると……私が近寄っても傷つけるだけ……だから会いにいけない。それが環のためと……」
 喉が震えた。込み上げてくる嗚咽をおさえる。だが、そんな私に、母は酷く冷めた声で告げた。
「環のため? そうやって思いやっているつもりですか? そんなものは綺麗事です」
「何です? 」
「お前が環を思いやるなど百年早いと言っているのです」
 ピシャリと言い放たれた言葉を理解できなかった。どういう意味だ。思いやるな? そう言いたいのか。何故? 思いやるべきだろう。今までしてこなかった分、大切にしたいのだ。自然と眉根が寄った。しかし、睨む私に母は怯むことなく続けた。
「散々好き勝手して傷つけておきながら、最後だけ思いやって諦めるなどいい人ぶるんじゃありません。今になってもっともらしいことを言うのはおやめ。それならば熱が冷めたから会いに行かないと言う方がまだマシです」
「……」
「環はお前の非道ぶりなど千万承知。自分勝手したところで今更です。ならば厚かましく、傍にいて真摯に思いを伝え続ければいい。それぐらいの気概を持てなくてどうするのですか」
「――……」
「いいですか、草寿。環は辛いと言いながらそれでもまだ会ってくれるのでしょう。女は本気で嫌な男には見向きもしない。言葉で嘘をつけても、行動で嘘はつけません。会ってくれるのはお前を完全嫌っているわけじゃないからです。「辛い」とわざわざ理由を述べたのも、それにお前が応えられるかどうかを見ているのです。ここで、お前が諦めたら、お前は環に「心底ふぬけでつまらぬ男だった」と思われる。それでいいのですか」
「……」
「よく考えて行動しなさい。環は情の深い女です。そうすればお前のような男にも情けをかけてくれるやもしれません」



2010/5/22

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