蜜と蝶

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   蝶 と 蝶  25 - Side 草 寿 −  

 
――腹を決めてしまえば、案外に、スッとするものだな。
 会いに行っても傷つけるかもしれない。悲しい思いをさせる。環の傷ついた心を、傷つけた本人である私が癒すなどおこがましい。朝椰の言うとおり。環のすべてを包み込み、優しい気持ちだけを与えてやれる男は他にいる。私ではどうしたって、痛みが伴ってしまう。何をしても。だから、諦める方が正しい。――だが、わずかでも可能性があるかぎり、正しくなくとも環の傍にいる。それが、私の出した結論だった。
 だから、告げた。
「私は愚かだ。お前を傷つけて、傷つけていたことにも気づかず、改心したと言いながら尚、お前の心を踏みにじった。本当にすまなかった」
 環は黙ったまま私を見つめていた。その真っ直ぐな眼差しを私もまた見つめ返した。逸らすことなく。彼女に、私の言葉はどう聞こているか。
「今更過ぎるが、やっと本当に大事なことに気づいた。私はお前を大切に思っている。その気持ちに偽りはない。どうしたって離れることなど出来ない。私がこの先、生涯思う相手はお前しかいない。だから、これを受け取ってほしい。着てくれなくてかまわない。ただ、持っていてくれないか」
 渡したのは、私の「色」で作った浴衣だ。男が女に生涯を誓う時に「色」を贈る。それが昔からのしきたりだ。無論、こんなことで私の気持ちが本物だと信じてもらえるなんて思っているわけじゃない。散々、ないがしろにし、粗末に扱い、傷つけた。それを忘れてもらえるなど思ってはいない。ただ、それでも、少しでも目に見える形を示したかった。だが環は案の定、
「このように大切なお品、お受け取りするわけには参りません」
 完全な拒絶だった。戸惑いも迷いもない。そして、
「失礼ながら申し上げますが、草寿様は、今、冷静さを欠いていらっしゃると思います。長年、草寿様を思い続けてきた者が、突然去れば、たとえ興味がなかったとしても寂しく思うもの。そういう感情があると聞きました。ですので、草寿様が私に対し感じてらっしゃる気持ちは一過性のもの。そのうち落ち着いてまいりますでしょう。それまでしばしご辛抱をくださいませ。さすれば、目が覚める。私のことなど忘れます」
「私は冷静だよ。おそろしいほど。そしてお前に対する気持ちは一過性のものではない。信じてもらえなくて当然だが、私が思うのはこれから先、お前唯一人だ。誓って。お前だけだ。いくらお前がそれを否定しようと私の気持ちは揺るがない」
「……そうおっしゃっていただいても、草寿様が求めておいでなのは以前の、草寿様を一心に思うておりました頃の私でございましょう。申し訳ございませんが。今の私はもうあの頃の私ではございません。草寿様の望むようなものをお与えできないのです。ガッカリなさるだけでしょう。お気持ちにはこたえられません」
 その言葉に胸が軋んだ。心地よいモノを与えてくれていた。それに気づいた。だから惜しくなって追いかけている。そういうことでしょ? 彼女のそう言っている。確かに、その通りだった。彼女が私の傍からいなくなった時、彼女が私に与えてくれていたものをようやく知った。途方もないものを失った。取り戻さなければ。そんな思いで復縁を迫った。環はそんな私の心を見抜いていたのか。そして、それでも私を受け入れようとしてくれていたのか。私の欲の為の勝手な振る舞いを……。それなの、私は更に環を傷つけた。本当に、どうしようもない。大馬鹿者だ。情けなかった。与える彼女と、与えられる私。不均衡で不健全な関係。でも今は違う。
「私はお前に何かをしてほしいなどと思っていない。これまでに返せきれぬほどのものをもらっている。だから、今度はそれをお前に返したいのだ。到底、返しきれるものではないが……」
「……」
「今までお前を省みなかった私の言葉をそう簡単に信じてもらえないのはわかっている。だが、お前の傍で、私に出来ること全てをお前に捧げて生きたい」
「ですが……私の傍にとおっしゃられても、私はまた草寿様を傷つけることを言うかもしれません」
「お前の言葉に傷ついたりなどしない。前にも言っただろう。お前は私に何を言っても何をしてもいい。お前の辛かった気持ちを私にぶつけてほしい。私がどれだけ無神経で愚かだったか。無知なままでは間抜けすぎる。お前はそうやって感情的になることが辛いかもしれないが、溜め込んだものはいずれどこかで吐き出さねばならない。私のせいで悲しんだ感情ならば、私が受けるのが道理だろう? 何年でも、何十年でも……生涯終わらずともかまわない。お前の傍で、お前の味わった苦しみ悲しみを私は受け止め続ける。けして途中で投げ出したり、逃げ出したりなどしない」
「……」
「だから、これを受け取ってほしい」
 環は無言だった。何かを考えるように。長い沈黙の後、
「わかりました。頂戴するわけにはまいりませんが、お預かりするということで受け取らせていただきます」
「ありがとう」
 かすかに笑ってくれた気がした。
 その日から、私は再び、時間が許す限りを環と過ごした。流石にまだ、どこかへ出かけようとは言えなかったし、宝玉などを贈るのは控えていたが、菓子類など普通の手土産にするようなものは素直に喜んでくれた。わずかながら微笑んでくれることだってある。だが、やはり何かの折に悲しげな顔をする。そんな一進一退の毎日だった。 

「明日、前に言ってた芝居の日だけど、一緒に行ってくれる? 」
 環が芝居を好きだと聞いて手に入れた公演の券。これを手渡したときも、礼を言うまでわずかだが奇妙な間があった。幾度か他の女と連れ立って芝居を観にいったことがある。それを知っていて傷ついていたのか。告げた時に軽く流してしまった自分が悔やまれてならない。それでも、環は楽しみにしていると行ってくれた手前、なかったことにするわけにも行かず、もう一度誘った。
「……はい」
 環はやはり一瞬だけ躊躇ったけれど、うなずいてくれた。
「無理しなくていいよ? 私とではなく誰か別の人と行ってくれても構わない」
 券を渡して告げたけれど、
「いいえ。草寿様がお嫌でなければ私は……」
 私が嫌であるはずがない。
「じゃあ、昼に迎えに来るから。よければ食事も一緒に」
「はい。お待ちしております」
 と、言ってはくれたが、表情は硬かった。それでもいつまでも恐れていては前に進めない。うなずいてくれたのだ。共に行くことにした。
 翌日。 
 外は生憎の雨だった。今年は空梅雨だったので恵みの雨なのだろうが……。環の元へ通うようになってから、休日は必ず晴れていたというのに、今日に限って降るなどなんだか不吉な予感だがした。心配してもはじまらないので支度をして迎えに行く。鴇塔家に着くと上がるように言われたが時間もないので玄関先で待つことにした。少しして、環を慌てたようにやってきた。出かける……にしては軽装だった。
「……どうした…やはり行く気にならないか? 」
「いいえ……」
 どうも様子がおかしい。
「雨が降っているのでお見えにならないと……」
  それだけ言うと、黙った。
「濡れるのが嫌なのか? 」
 じっと私の顔を見つめる。大きな戸惑いと困惑が浮かんでいる。
「環? 」
 名を呼ぶ。やはり無言のままだった。何か気に障るようなことをしてしまったのか? 傷つけてしまったのだろうか。ひやりとした。だけど、環は惚けたようにふらふらと一歩二歩と近づいてくる。そのまま履物も履かずに玄関先に降りてきた。そして、私に抱きついてた。予想外すぎて理解できず反応が遅れる。 どうしてそんな行動をするのか。ただ、嫌がられていない。それだけはわかる。
「どうした? 」
 背中にまわされた細い腕と、柔らかく甘い香り。髪を撫でてやるとゆっくりと私を見上げてきたが、すぐまた胸元へ顔をうずめてしまう。本当に抱きつかれているのだと実感してくると急激に心拍数があがっていく。夢でも見ているのか。都合のいい夢。頬を抓って確かめようかと脳裏を過ぎったが、夢ならば覚めたくない。自ら目覚めるような真似しなくともいいだろう。代わりに環の背をあやすように撫でた。すると、
「雨が嫌いなの知ってる」
 相変わらず胸に顔をうずめていたので聞き取りにくい。
「何? 」
 もう一度尋ねると、
「草寿様が雨嫌いなのを知っています。雨が降る日は約束をしていても出かけない。…だからお越しになるとは思わなかった」
 確かに、私は雨が嫌いだ。服や足元が濡れると気持ちが悪いし、じめっとした空気に触れているとイライラしてくる。
「雨が降ってるから私が来ないと思っていたのか? それで準備をしていなかったの? 」
「はい…」
 情けない話だ。環より雨嫌いを優先すると思われていたのか。まだ、ちっとも、私の気持ちは届かないのか。それにしたって伝わってないにもほどがあるよなぁと苦笑を禁じえなかったのだが、
「だから、雨の日が好きだった」
「ん? 」
「雨が好きな理由。以前、連れて行っていただいたお店でお尋ねになられたでしょう? 」
 そういえば、そんなことがあった。「紫陽花は雨季に咲くから好きなのだ」と言うので「雨など鬱陶しいだろう? 」と問うと環は「雨が好きだ」と答えた。何故? と思ったが環が言い淀んだから無理に聞くことをしなかった。
「雨が降れば、誰にも会わずに家にいらっしゃる…」
 か細い声とは裏腹に内容は強い衝撃をもって私の元へ届く。
「……それで、環は雨の日が好きなのか? 私が、」
 それ以上言葉にするのはさすがに憚られたが、胸の中でうなずくのがわかった。
 そう。私は雨が降れば誰にも……女にも会いに行かない。休みの日に雨が降れば、約束をしていても行かない。面倒くさいから。別にどうしても会いたいわけじゃないし。たまには家でのんびりするのもいいと思った。それが環にとっての安息日になっていたのか。抱きしめなおすと肩がかすかに震えている。泣いている? 思い出して辛いのか。どうすれば、その痛みを和らげることが出来るのだろうか。謝っても過去は取り戻せないなら、どうすればいい? 
 柔らかな頬に触れると、私を見上げてくる。その目はかすかに潤んでいた。見詰め合っているとたまらない気持ちになる。だけど何一つとして言葉は出てこない。だた、どうにかこの気持ちを伝えたくて。吸い寄せられるように顔を寄せていた。環は静かに目を閉じた。しっとりとした唇に触れる。合わさった体温から、言葉に出来ない思いが伝わればいいと祈った。
 名残を惜しみながら離すと、
「違う。悲しくて泣いているわけではないです…。今日、来てくれたことが、」
――嬉しくて
 消え入りそうな呟きは私の体内に入り込み涙がこみ上げてくる。どうして私はこの人をあんな風に扱ってきたのだ。失って当然の、ふざけた振る舞い。腕の中にある今は、奇跡のようなもの。彼女を幸せにしたい。その役目をどうか私にさせてもらえますように。
「会いに来るよ。雨だろうが嵐だろうが、私に会いたくないといっても、私は環に会いに来る」
 愚かな日々の因果が、やがて巡ってくるかもしれない。でも、今はまだ腕の中にいてくれるこの人を潰さないように抱きしめた。



2010/5/23

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