蜜と蝶

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   蝶 と 蝶  25 - Side 環 -   

 
――大切にしてくれる人と恋をしよう。
 それが幸せになるために大事なことだ。
 理由なく、ただ好きだから続けてきた恋は辛く苦しかった。自分の気持ちだけを貫ぬいて、それだけを拠り所にする恋は悲しい結末を迎えた。婚約破棄が決まった日、粉々になった。あれから私は「理由」を求めるようになった。「ただ好きだから」など曖昧なことではいけない。どこがいいのか。優しくされているか。楽しい思いをさせてくれるか。自分が幸せになれるか。――それらを肯定できる相手でないと駄目だ。今度はそんな相手を探そう。それが正しい。それが幸福への道だ。けれど、
――好きなものは好き。どうしたって。
 夕凪の話を聞いているうちに、私がこれまでしてきたことは、それはそれでよかったのだと思えた。そういう生き方があってもいい。否定することないのだ。彼を好きでいて辛いことは多かったけど、好きでいることが嬉しいと思っていた気持ちを思い出した。だから自分を責めることをやめた。好きなものは好きなのだ。それでいい。そう思えたら気持ちがふわっと軽くなった。でも
――どうして私はこんなにも頑なで可愛げないのだろう。
 草寿様を好きだと思う気持ちを取り戻しても、彼を許せないと思った気持ちは消えなかった。好き。好きだけど憎い。だから素直になれない。どうしようもない。もう、素直になんてなれない。私は彼に素っ気ない態度しかとれずにいた。それでも彼は私の元を訪ねてくれていた。
 そんなある日、私に告げた。
「私は愚かだ。お前を傷つけて、傷つけていたことにも気づかず、改心したと言いながら尚、お前の心を踏みにじった。本当にすまなかった」
 草寿様は言った。そして、
「今更過ぎるが、やっと本当に大事なことに気づいた。私はお前を大切に思っている。その気持ちに偽りはない。どうしたって離れることなど出来ない。私がこの先、生涯思う相手はお前しかいない。だから、これを受け取ってほしい。着てくれなくてかまわない。ただ、持っていてくれないか」
 渡されたのは草寿様の「お色」で作った浴衣だ。男が女に自分の色を贈る。それは「生涯で唯一人」の相手にする行為だ。その女が特別だという証。「特別」――心の中で呟いた声は、遥か昔の記憶を呼び戻す。一度でいい。何か、自分が、この人の特別だと思えることが出来たなら、それだけで私はこの人を永遠に想っていられる。だからどうか私に一度の特別を下さい。そうやって祈ったことがある。だけどそんなもの叶わなかった。やがて願ったことも忘れた。けれど、今になってその願いが成就するとは思わなかった。 でも、どうしてだろう。確かに特別な行為であるのに、私の心は反応しない。嬉しいと思えない。尊い行為が、彼がすると手軽なものにさえ感じて、
「このように大切なお品、お受け取りするわけには参りません」
 口をついて出たのは断りの言葉だ。
「失礼ながら申し上げますが、草寿様は、今、冷静さを欠いていらっしゃると思います。長年、草寿様を思い続けてきた者が、突然去れば、たとえ興味がなかったとしても寂しく思うもの。そういう感情があると聞きました。ですので、草寿様が私に対し感じてらっしゃる気持ちは一過性のもの。そのうち落ち着いてまいりますでしょう。それまでしばしご辛抱をくださいませ。さすれば、目が覚める。私のことなど忘れます」
 そう。彼は今、私に熱を上げている。情熱家の彼だから勢いで行動してしまった。「お色」を贈られて喜ばない女はいない。「特別だ」と証明になる。それがわかっていて、私にしたのだ。「お色贈り」というしきたりさえ、彼にとってはたいしたことないのかもしれない。そんな気がする。少なくとも私が感じるような覚悟があるとは思えない。だから喜ぶべきじゃない。疑う自分を浅ましいと思いながら、どうしてもそう思う。後でガッカリするのは嫌。傷つきたくない。そんな悲しい気持ちが溢れていた。でも
「私は冷静だよ。おそろしいほど。そしてお前に対する気持ちは一過性のものではない。信じてもらえなくて当然だが、私が思うのはこれから先、お前唯一人だ。誓って。お前だけだ。いくらお前がそれを否定しようと私の気持ちは揺るがない」
 私の不躾に気分を害することもなく、丁寧に、真っ直ぐな言葉が返ってきた。それでも私は、
「……そうおっしゃっていただいても、草寿様が求めておいでなのは以前の、草寿様を一心に思うておりました頃の私でございましょう。申し訳ございませんが。今の私はもうあの頃の私ではございません。草寿様の望むようなものをお与えできないのです。ガッカリなさるだけでしょう。お気持ちにはこたえられません」
 可愛げのない女だと思う。「貴方は私に尽くしてほしいだけでしょう? 」どうしてこんな皮肉なことを言うのか。ぞっとする。でも、とめられない。
「私はお前に何かをしてほしいなどと思っていない。これまでに返せ切れぬほどのものをもらっている。だから、今度はそれをお前に返したいのだ。到底、返しきれるものではないが……」
 それでも草寿様は怒らなかった。それどころか、その目は優しい色をしていた。婚約中につまらなそうに見られた瞳とも、復縁を申しだされてからの熱っぽい眼差しとも違う。静かで穏やかで、真に私を慈しむような……。
「今までお前を省みなかった私の言葉をそう簡単に信じてもらえないのはわかっている。だが、お前の傍で、私に出来ること全てをお前に捧げて生きたい」
「ですが……私の傍にとおっしゃられても、私はまた草寿様を傷つけることを言うかもしれません」
「お前の言葉に傷ついたりなどしない。前にも言っただろう。お前は私に何を言っても何をしてもいい。お前の辛かった気持ちを私にぶつけてほしい。私がどれだけ無神経で愚かだったか。無知なままでは間抜けすぎる。お前はそうやって感情的になることが辛いかもしれないが、溜め込んだものはいずれどこかで吐き出さねばならない。私のせいで悲しんだ感情ならば、私が受けるのが道理だろう? 何年でも、何十年でも……生涯終わらずともかまわない。お前の傍で、お前の味わった苦しみ悲しみを私は受け止め続ける。けして途中で投げ出したり、逃げ出したりなどしない」
「……」
「だから、これを受け取ってほしい」
 そんな風に言われて、どうしていいかわからなくなる。信じたい。この人をもう一度。やり直したい。でも、どうしても、信じることが出来ない。好きだけど、信じることはまた別だ。それでもどうにか私が言えるだけの肯定をこめて、
「わかりました。頂戴するわけにはまいりませんが、お預かりするということで受け取らせていただきます」
「ありがとう」
 草寿様は礼を述べてくれた。嬉しそうな顔をされた。
 その日から、草寿様は以前に増して私の元に通ってきてくださるようになった。お忙しい身なのに……。なのに私は、まだ、この人を許せない。自分が嫌でたまらなかった。こんなことを続けていれば、いずれこの人は疲れ果ててしまう。そんなこと望まない。でも、どうしても素直になれない。

「明日、前に言ってた芝居の日だけど、一緒に行ってくれる? 」
 夕凪が先日見に行ったという芝居だ。草寿様に以前誘われていたけれど、その後いろいろあったので約束は果たされることないだろうと思っていた。だから、もう一度お誘いいただいたことに驚いた。
 彼は少しだけ悲しそうな顔をしていた。私が断ると思っている。でも
「……はい」
 うなずくと、
「無理しなくていいよ? 私とではなく誰か別の人と行ってくれても構わない」
 差し出される券。こんな風に気遣いいただくなんて。彼の前で別れを切り出した日以降、草寿様は、私の顔色一つ見逃さないように努力してくれている。それは痛いほどわかっていた。
「いいえ。草寿様がお嫌でなければ私は……」
 私が答えると、ほっと安堵されて、
「じゃあ、昼に迎えに来るから。よければ食事も一緒に」
「はい。お待ちしております」
 柔らかな笑みが返ってくる。喜んでくれている。その事実は私の心を温めた。
 翌日。 
 外は生憎の雨で、せっかく草寿様と出かける約束をしていたのに流れた。彼は雨の日は外出はしないのだ。離れに篭りのんびりと過ごされる。幼い頃からそうだった。それは草寿様の中で絶対的な決め事らしく、朝椰様との約束でさえお断りする。だから八依乃様は「雨嫌いにもほどがあります」とよくおこぼしになっていた。
 芝居は観たかったけど、正直、二人で出かけるのには躊躇いがあった。彼は私を気遣ってくれているけれど、何の拍子に過去のことを思い出してしまうかわからない。本当に自分のしつこさと頑なさにはうんざりするけれど。もしそうなって、また草寿様に当り散らしたらと思うと怖かったから。だけど、
「草寿様がお見えです」
 彼は客間へは上がらず玄関先で待っている、と。
――何?
 今日は雨が降っている。雨の日、彼は外出はしない。だから来るはずがない。誰かと間違っているのではないか? 私の元に告げに来てくれたのは先月から雇い入れたばかり女中さんだったし。きっとそうに違いない。そう頭では思うのに、鼓動は異常な速さで脈打っていた。廊下を歩く足取りは雲の中を歩くようで現実味がない。早足に歩いているはずが、なかなか着かない。こんなに長い廊下だったのだろうか。ようやく着いた玄関先、私の姿を見ると彼は言った。
「……どうした…やはり行く気にならないか? 」
 それは紛れもなく、草寿様で。準備をしていない私の姿に寂しげな表情で「行く気にならない? 」と聞いている。どうして……、
「雨が降っているのでお見えにならないと……」
「濡れるのが嫌なのか? 」
 私に言っているの? ご自分にではなく? 濡れるのが嫌なのは草寿様でしょう? これは夢なの? ああ、そうかもしれない。都合のいい夢を見ているのだ。それなら納得できる。けれど、
「環? 」
 名を呼ばれた。本物なの? 確認するために近寄った。触れてみる。
「どうした? 」
 抱きつくと私の髪を丁寧に撫でてくれた。見上げると心配げな草寿様の顔。もう一度さっきより強く、顔をうずめて抱きついてみた。すると今度は背を撫でてくれた。やはり現実なの? 私と芝居に行くために来てくれたの? 雨の日はどこにも出かけないこの人が。朝椰様との約束さえすっぽかす人が。私には会いにきてくれた。
――ああ。
  もういい。充分だ。
「雨が嫌いなの知ってる」
「何? 」
「草寿様が雨嫌いなのを知っています。雨が降る日は約束をしていても出かけない。…だからお越しになるとは思わなかった」
 言うと草寿様は、
「雨が降ってるから私が来ないと思っていたのか? それで準備をしていなかったの? 」
 驚いたようにお尋ねになった。信じられない、と。そんなわけないだろう? と言いたげな。そんな物言いがたまらない。この人はわかっていないのか。これがどれほど特別なのか。ご自身でおわかりになっていない。
「だから、雨の日が好きだった」
「ん? 」
「雨が好きな理由。以前、連れて行っていただいたお店でお尋ねになられたでしょう? 」
 草寿様のご贔屓のお店に行った時、私が好きだからと部屋に生けるよう手配してくださっていた。その時「紫陽花は雨季に咲くから好きなです。雨が好きだから」と答えた。「何故? 」と尋ねられて、思わず言いよどんだ。でも今なら言える。
「雨が降れば、誰にも会わずに家にいらっしゃる…」
 辛かった。晴れた日の休日は草寿様は女性の方とお出かけになる。どうして? と思った。でも泣き叫んでもどうにもならない。それどころか下手をすれば破談になるかもしれない。それは嫌だった。だから我慢した。そうして過ごした日々が知らぬうちに草寿様への憎しみを積み重ねていた。そして今、その憎しみに復讐されている。自分の気持ちを無視し続けてきた代償。彼を許せない。そう思っていた。でも、
「……それで、環は雨の日が好きなのか? 私が、」
 草寿様は、擦り切れるような声で呟いた。心底ご自身を責めるような悲しい声だ。それを聴いた瞬間に、あれほど頑なだった気持ちをふっと柔らかで温かなものが包んだ。
――好き。
 好きなのだ。やっぱりこの人が。初めて会ったときから、今も変わらず。この人が私を好きでも嫌いでも、私はこの人を好きで。この先、また、この人の気持ちが変わっても、私の気持ちは変わらない。それだけは信じられた。だから後悔はしない。この人のために、生涯を捧げるのだと、一目見た瞬間に人生を決めた。あの日の誓いに偽りはなかった。二度と迷わない。もう、いいのだ。
 心配げに覗き込む瞳には不安に揺れて、私の涙をぬぐう指先はかすかに震えていた。近づいて来る気配にそっと目を閉じる。触れる唇から体温とともに気持ちまでもすべてが伝わるように繰り返し思い描く。
――あなたが好きです。ずっと、好きだった。これから先もずっと好きでいたい。
 たとえばもし、離れるようなことがあったとしても、今日のこの口づけだけはあなたの中に残りますように。
「違う。悲しくて泣いているわけではないです…。今日、来てくれたことが、」
――嬉しくて
 最後はほとんどかすれて声にならなかったけれど、伝わったらしく、
「会いに来るよ。雨だろうが嵐だろうが、私に会いたくないといっても、私は環に会いに来る」
 背中にまわされた腕に力が込められた。私はその腕に、身を任せた。



2010/5/23
2010/5/26 加筆修正

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