蝶 と 蝶 26
恋をした。その人を好きなことが嬉しいと思う。幼さゆえの無知と純粋さから、そんな恋をした。満足だった。でも、大人になるにつれて、苦しくなった。自分を見てくれないことが寂しくて。愛しても愛しても振り向いてくれないことが哀しくて。――いつからか好きなだけでは満足できず、それ以上を求めるようになっていた。私は、愛することで幸せになろうとしていたのだ。感情に目的が出来ると、それが達成できなければ深い絶望と憎しみが生まれる。でも私はそんな自分の心に蓋をした。本当は好きなだけでいられなくなっていたのに、それを認められず、優しくされたい大事にされたいという望みが叶わないことが辛いくせに、平気な顔をした。そして、壊れた。粉々に。自分で壊してしまった。失って初めて、私はその恋をどれほど大事にしていたのか知った。けれど、一度壊れたものは二度と元には戻らない。破片をかき集めて繋ぎ合わせても、けして戻らない。憎んだ。こんな風にならざるを得なかったのは、彼が私をないがしろにし続けたからだと。憎んで責めた。そんな私に彼は優しかった。その優しさが尚更私を苛立たせた。そうやって優しくしてくれるなら、どうしてもっと早くしてくれなかったの? そしたら、私の恋は壊れずにすんだのに。ずっと大事にしてきた、大事にしたかった恋を守れたのに。許せない。なにもかもが。そう、思った。
けれど。
冷たい態度の私に、ふてくされて嫌な態度しかとらない私に、彼はまだ優しかった。最初だけだと思っていた。私の頑なさにすぐに諦めると思っていた。でも彼はいつまでも優しかった。そして私に言った。それでいいと。何年でも、何十年でも、生涯終わらなくてもいい。それでも傍にいると。返しきれないものをもらったから、今度は自分の番だと言った。
――返しきれないものをもらった。
彼は言った。確かにそう言ってくれた。それは、私が好きでしたきたことだった。彼が望んだわけじゃない。だから、受け取ってもらえなくても仕方ない。嫌ならやめればよかった。でもやめなかった。勝手に続けたのに、それを受け取ってもらえないと憎んでいる。子供が地団太を踏むような無茶を言っている。でも彼は、それを受け取ってくれた。随分時差があったけれど。受け取って返してくれるという。私の我儘にこたえてくれると。継ぎ接ぎらだけのぼろぼろの恋を包み込んで、洩れてくる感情――それが憎しみであれ、悲しみであれ――を全部引き受けてくれると言った。こんな幸運があるだろうか。それを聞いて、私の歪だった心は穏やかさを取り戻し始めた。壊れた恋を嘆くより、もう一度はじめてみようと。それでいいじゃないかと思えた。
「とてもお似合いでございますよ」
私の姿を見ると、栞祢様が言ってくださった。
龍神祭りに一緒に行きたいと言ったのは私だった。草寿様は「無理しなくていい」とおっしゃったけれど、どうしても行きたかった。今年行かなければ永遠に機を失うような気がして。
二人連れだって、神社まで向かうとちょうど鳥居の前で、朝椰様と栞祢様と出くわした。
「栞祢様も」
朝椰様の「お色」の浴衣。儚げな雰囲気の栞祢様を守るような深い深い海色。
「環。甘やかす必要はないんだぞ? そんなもの着てやる必要ないのに」
「お前は黙っていろ」
「嫌になったらすぐに言うんだ。いいね? お前にはもっと大事にしてくれる男がいる」
朝椰様はおっしゃった。
正直なところ、それはよくわからない。誰が私を最も大切にしてくれるかなど、きっとわかりはしないのだ。でも、逆ならばわかる。私が誰を最も大事にしたいか。自分の気持ちならば自信を持てる。そして、私にとってのそれは、草寿様だということ。強い憎しみの果てに、ようやく取り戻した想い。
私の心は相変わらず穴があり、この先、そう思う気持ちを忘れて嫌になることもあるだろう。考えたくはないけれど、また、彼の心変わりで傷つくことになるかもしれない。でも、どんなに迷っても、たとえ彼がどうであれ、必ず、私はこの気持ちに戻ってくると思う。草寿様を好きでいたい。それが私の原点だから。
「もういいから行け」
草寿様は不機嫌に言った。朝椰様は笑いながら、栞祢様の腰を抱いて寄り添うように人ごみの中に消えていった。二人の姿が見えなくなると、草寿様は大きなため息をおつきになった。
そして二人で境内に入っていく。混んでいるとは思ったけれど、外から見るよりもずっと人の流れが多い。人がごみは苦手だ。鈍くさいから、人の波に乗れない。
「すごい混雑ですね。一度はぐれてしまったら会うのは困難でしょうね」
私は前を歩く草寿様に言った。
「……もし、はぐれた時ははじめの場所に戻ってお待ちしております」
☆★☆
二人して込み合った境内を歩く。環は慎み深い性格だ。腕を組んだり手を繋いだりとじゃれ合ってはこない。まして公衆の面前だ。叶の次期当主である私の横を歩くなど恐れ多いと後ろをついてきていた。私としてはもっと傍に来てほしいが、環の配慮だと思うと強くは言えなかった。軽々しく腰でも抱いて、いつもこんなことをしていたのかと思われてはまた傷ついてしまうかもしれないし。だから、ゆっくりと環の歩調に合わせて進んだ。振り返らずともついてきてくれている。気配でわかる。安心した。
こんな風に彼女と龍神祭りに来れるなど夢のようだった。だから、彼女から申し出を受けた時は驚いた。無理はしないでほしいと思った。この先、まだまだ長くある。来年でも、再来年でも……何十年後でも。環が本当に大丈夫だと思える日が来たら、一緒に行ってほしい。そう告げた。けれど環は「今年、行きたいのです」と言った。だから私はそれ以上反対はしなかった。迎えに行くと、私が贈った浴衣をきてくれていた。青梅色――私の色。よく似合っている。これは彼女のためのものだ。この色を着る女は、環以外にいない。
――どうしてそれがわからなかったのだろう。
傍にいて私を見ていてくれたのに。必ずいる。だから大丈夫。そんな過信。自惚れていたのだ。なくならないと。いなくならないと。彼女へ続く道は見えていた。その入口ははっきりとわかっていた。いつでも入っていける。彼女は待っていてくれる。だから寄り道ばかりをしていた。そして失った。彼女が消えてしまう――そうなって初めて彼女の存在の大きさを理解した。愚かにもやっと。彼女が私の世界からいなくなるなど考えられない。ずっとそこに存在し、これから先も存在する。疑いなく信じていた自分を知った。だから懇願した。どうか戻ってきてほしい。私の人生からいなくならないでくれ、。そんな私を今度は彼女が拒絶した。当然だ。私は必死だった。誰かに、いや、何かに、こんなにも真剣になったことはない。私はなんといい加減でつまらない人生を生きてきたのだろうか。彼女がいなければ、そんなことにも気づかなかっただろう。
そして知る。
彼女は私に尽くしてくれていたけれど、私こそが彼女に尽くさねばならなかったのだ。私の全てを捧げても到底足りないほどの尊い人。その人を散々ないがしろにし続けた。考えられない無礼を働いた。だから祈った。神にではない、彼女に。「許してほしい。私の残りの人生をあなたに捧げて生きたい」。そんなおこがましい願いを、彼女は聞きいれてくれた。彼女の傍で、彼女を想うことを許された。だから、もう、何も要らない。最高の幸運を手にした。もう迷うことなどない。私は彼女の元へ続く道をまっすぐに歩き続ける。
神社の本殿が見え始める。あと少しだ。そんなところまできて、
「環? 」
ついさっきまで、確かにあったはずの気配が消えた。振り返るといない。
「環! 」
大きな声を出してみるが、周囲の喧騒に飲まれてしまう。
――どこだ。
慌てて探す。
はぐれるなど思っていなかった。混雑はしていたが、ゆっくり歩いていたし。それにさっきまで、本当に一瞬前までいたのだ。間違いなく。彼女の気配を私のすぐ後ろに感じていた。子どもじゃないんだし、注意力散漫にでもならない限り大丈夫だと思った。事実、私の全神経は後ろを歩く環の気配に向いていた。――それなのに見失ってしまうなど。
『はぐれた時ははじめの場所に戻ってお待ちしております』
環は言っていた。私は慌てて今来た道を戻った。言葉通りなら、環は戻っているはずだ。人の流れをかき分けながら、愛しいその人を探す。しばらく戻ると、見つかった。
「環」
ダメだ。届かない。どうにか早足に近づく。歩幅の違いがあるからか、距離を埋めるのは容易かった。手の届く距離まできて、その細い腕をとった。環は驚いたて振り返ったが、私を見ると安堵したのか笑顔になった。
「心配したよ……どこにいったのかと思った」
「申し訳ございません。人の大きな声がして気を取られた一瞬で、草寿様を見失ってしまいました……でも入口まで戻る前に、お会いできてよかったです」
環は言った。
「戻る必要などないよ。もう、そんな目には遭わせない。最初からこうしていればよかった」
掴んでいた腕を離し、代わりに手を取った。
「……ですが…人に見られます」
環は躊躇いがちにいった。
「別に構わない。素直にこうしていればよかった。いや、こうするべきだった。本当に私は愚かだ。……もうけして離しはしない。お前が嫌だと言っても」
環は少しだけ困った顔をした。でもすぐに優しげな笑みを返してくれた。その手をもう一度しっかりと握る。そして今度こそ先に進む。彼女の温もりを二度と離さないように、ゆっくりと、一歩ずつ。
「それでも、万が一、もしまたはぐれてしまっても、入口になど戻らなくていいから」
歩きながら言うと、環は問うてきた。
「それでは会えないですよ? 」
その質問に、
「はぐれたら、お前はそこでじっとしていればいい。私が迎えに行くから。必ず。だからはじめの場所に戻るようなことはしなくていい。わかったね? 」
環は「はい」と答えてくれた。その声は震えているように聞こえた。
「でも、けして離しはしない。大丈夫だ」
ちょうどお囃子が鳴りだす。始まりの合図だ。これからが祭りの本番。人々は一斉に音のする方角へと流れ出す。私もまた、彼女の手を引いて歩みを進めた。【完】
2010/5/25