蜜と蝶

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   蝶 と 蝶  3   

 
「あと一年待っていれば正式に嫁にしてやるつもりでいた。それを待てないなど気の短い愚かな女だ」
「またその話か」
「だってそうだろう? お前だってそう思わないか? 」
 私が問うと朝椰はさぁなと首を傾けた。 曖昧な返事に、苛立ちが増す。
 何の話をしているかといえば、婚約破棄についてだ。私には幼い頃から決められた許嫁がいた。鴇塔の末娘、環。 格下の家の女。人形のような整った顔立ちをしていた。大人になればさぞや美しい女になるだろうと思った。事実、年齢を重ねるごとにその美貌は際立ってきた。だが、興味をそそられなかった。幼い頃から好きだ好きだと追い掛け回されて嫌気がさしていた。思春期を迎える頃にはさすがに落ち着いたが、それでも会うと熱視線で見つめられる。恋は駆け引きを楽しむものだ。自分を好きだとわかりきっている女を相手にしても面白くない。ましていづれ自分のものになるのだ。それよりも、他の魅力的な女と遊ぶほうがいい。叶の家を継ぎ当主となれば流石に派手に遊ぶことはできなくなる。自由なうちに遊べるだけ遊んでおく。後悔がないように。
 そんな私の気持ちとは反し、環が二十歳を迎えてから結婚をせっつかれはじめた。上位者の家の女は二十歳から遅くとも二十五までには嫁ぐ。婚約しているのだから環が二十歳になれば婚儀をするのが自然なのもわかる。しかし、そうやって焦らされると反発したくなる。命令されるのは嫌いだ。鬱陶しい。だから伸ばし伸ばしにしていた。ちゃんともらってやるのだから、大人しく待っていればいいのだ。だが、先日、今度は婚約破棄の申し出がなされた。うんざりした。そういえば私が婚儀に踏み切るとでも思ったのか。つまらない揺さぶりだ。思い知らせてやるために破棄の申し出を受けた。鴇塔にとってこの婚儀は重要なものだ。破談になれば打撃は免れない。まして、環は今年二十四。他に貰い手を見つけるにしても薹が立ちすぎている。私が婚約破棄を受けると言えば鴇塔は慌てて謝罪してくると思った。そしたらこれでまた式を先延ばしに出来る。まだ自由の身でいたい。だから、本当に婚約破棄が成立したことには多少驚いた。
 破談が決まってから、私は責められた。主に、母親にだ。私は男兄弟で、娘がほしかった母は、幼い頃より出入りしている環を実の娘のように愛でていた。それゆえに、尚更、怒り狂った。
「情けない。お前がこれほど情けないとは思わなかった。我が息子ながら憐れでならない。環を逃すなど……あの子以上の娘にはお前は二度と出会えない。けれど環にとっては良かったのかもしれない。お前のような男に嫁がずにすんだのだから」
 冷たい眼差しで私に告げる。
「母上。そこまでお嘆きになることはないでしょう。そんなにも環がよろしいのでしたら、いっそう養女にでもしたらいかがですか?  」
「……草寿。本当に愚かな子だ。お前の顔は見たくない。当分、母屋には出入り禁止です」
 そう告げられた。大袈裟な物言いだ。そんなに環が可愛いいのか。まさか、自分の家に出入り禁止にされるとは思わない。どうして私がこんな不遇を? そりゃ、文句の一つや二つ言いたくなるだろう。だから、ついつい愚痴ってしまう。それを聞かされる朝椰には悪いと思うのだが……。
「そんなに腹が立つか? 」
 朝椰の言葉に間髪入れず「当たり前だろう」と答えると、なんとも言えない顔をした。だから私の正当性を主張するために更に言う。
「私はすっかり悪者だ。考えられないな。婚約破棄は私ではなく鴇塔の方から申し出てきたのだぞ? あれは来年二十五を迎える。そうすれば私は妻にするつもりでいた。あと一年だ。それを待てずにいるとは愚かだ。つまらん女だった。これが腹を立てずにいられるか?」
「お前のその顔を環に見せてやりたかった。そしたら……」
 私の顔だと? 怒り狂うこの顔を見せたらどうなるというのだ。
「……いや、いづれにせよ、限界だったのだろう。お前たちは縁がなかった」
 一人でぶつぶつ唱えては納得している。朝椰には昔からこういうところがあった。思うところがあるのだろう。そういえば朝椰も環贔屓の一人だった。幼い頃、朝椰と一緒にいると環が追いかけてくる。私は無視するが、それを取り成すのが朝椰だった。最初は同じように相手にしなかったのに、いつのまにか気に入り優しくしていた。ほおっておけと言っても、お前は果報者な上に贅沢者だと顔を顰め私を窘めた。だから、この破談を残念に思っているのだろうが……。
 それにしても、何故皆が環を可愛がるのか理解できない。顔は美しいが、それだけだ。心は鈍い方だと思う。いつだって私を見つけると嬉しそうに近寄ってくる。私に女がいることを知らないわけじゃないだろうに、一度も咎めることはなかったし、悲しんだ様子もみせないで涼しい顔だ。どれほど冷たくしても気にすることはない。にこにこして私に寄ってくる。こいつはバカなのかと思った。私は繊細で可愛らしい女が好みだ。女らしく甘えてくるような。愚鈍な女に興味はない。だからますます環を遠ざけた。あんな女を、どうして皆が気に入るのだ? 
 だが今はそんなことどうだっていい。込み上げてくる怒りの方に意識を奪われる。イライラする。こんな風に感情的になったのはいつ以来だろう? ……ないかもしれない。楽しいことが好きだ。あれこれ考え悩んだりするのは嫌いだし、怒りは継続しない。どうでもいいと思えてくる。なのに、今回はどういうわけか、後から後から感情がこみ上げておさまりがつかなかった。そんな私に朝椰は言った。
「友人として一つ忠告しておこう。お前は事の重大さを、正当な意味では理解していない。今感じている怒りは、喪失感の始まりに過ぎない。やがてわかってくる。その時、どう思うのか。わからずにいた方がお前のためだろう。だから環のことは出来うる限り考えるな。それについて考え出せばお前は壊れるだろうからな。後悔することになるだけだ。だから忘れろ。お前のために言っているのだ。お前が失ったものはあまりにも尊い。心で理解してしまう前に考えることをやめて、蓋をしろ。 いいな」
 何を言っているのか。知ったようなことをいう朝椰にうんざりする。環のことなどすぐに忘れるに決まっている。つまらない女だ。どうして私が考える必要がある? 見当はずれの忠告は聞き流してしまうことにした。
 朝椰と別れて帰宅する。母屋には出入り禁止中だから、直接離れに戻った。だが、暫くして使用人が声をかけてくる。食事が出来たから食べに来いとの言付けだ。どうやら出入り禁止は解除されたらしい。母屋へ行くと、見るからにご機嫌そうな母がいた。何をそんなに浮かれているのか。
「ご機嫌麗しゅう母上。何か余程嬉しいことがあったみたいですね」
 嫌味のつもりでいったが、母はまったく気にも留めない。
「ええ。環に見合いが決まった」
「は? 」
 意味がわからない。
「何故母上が環の見合いの心配をなさっているのです? 」
「あの子は私の娘も同然。お前とは縁が切れても、環は私にとって大事な娘です。心配するのは当然でしょう」
「はぁ……それで見合いが決まったというのは…」
「そう、見合いが決まりました。二十四という年齢は相当な悪条件になるかと心配していたけれど、まったくの取り越し苦労だったわ。環ならば嫁にほしいとおっしゃってくださる家はたくさんある。選定するのに苦労するほどに。でもようやく決めたわ。明日、お見合いをすることになった。これであの子は幸せになってくれるでしょう。だからお前のことを許すことにしました」
 ……なんなんだそれは…
「私との婚約破棄から三週間しか経過していないのに、もう他の男を探すとは……浅ましいことですね」
「何を言うの。あの子は年が明ければ二十五です。時間が限られている。別れるなら別れるでもっと早くにしていれば、こんなことにはならなかった。お前の非道のせいです。罵倒する権利などないでしょう」
「私が別れを切り出したわけではないでしょう、母上。あちらが、待てないと申してきたのです。 人の家の娘の心配より、私の心配をしてくれてもいいんじゃないですか? 」
「お前の心配などする気はない。好きな娘を連れてきて嫁にでも妾にでもすればいい。どうせ環以上の娘には出会えないんだから。まだ、自分が何を失ったのかも気付いていないとは……私は育て方を間違えた」
 これ以上言うとまた機嫌を損ねそうだから黙った。それにしても、母にしても朝椰にしても大袈裟な。環がいなくなったぐらいで私の人生の何がどう失われるのだ。呆れてしまう。私と別れてすぐに他の男と見合いを決めてしまうような薄情な女だぞ? もう少し傷心でもすれば可愛げがあるというもの。本当に繊細さの欠片もないつまらない女だ。ムカムカする。この苛立ちは十八年もあんな女と婚約していたことへの怒りだろう。私の人生の大きな汚点だ。結婚などしなくてよかった。よかったのだ。繰り返し繰り返し言い聞かせる。だが、私の心の黒いもやは広がる一方でおさまらなかった。
 
 

2010/4/28

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