蜜と蝶

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   蝶 と 蝶  4   

 
 草寿様との婚約解消が正式に決まっても、私は意外と平気だった。考えれば当然かもしれない。前触れなく言い渡されたものではない。予感はあったことだ。怖かった。ずっと。不安でたまらなかった。それが現実に起きただけ。心の深い部分ではわかっていた。だから平気だ。散々、苦しんできたのだ。もうこれ以上草寿様のことで傷つくことはない。傷つけられることもない。悲しみよりも安堵の方が強かった。後は、少しずつ傷を癒して、新しい人生を開始すればいい。草寿様に捧げると幼い頃に誓った人生を、自分の手に取り戻した。それだけのことだ。
「環さんはお芝居がお好きなのですか」
「大きな劇団のものではなくて、立ち上げ間もない小劇団のものなんですが」
「どんな内容なんですか? 」
「そうですね…言葉で説明するのは難しいのですが…」
 婚約解消後、ほどなくして私の元へいくつかの見合い話が持ち込まれた。来年、二十五を迎える。それまでにはどうにかして嫁がせたい。「行かず後家」のレッテルを貼られる前にどうにかしたい。それが一族の意向。鴇塔の家に傷がつく真似は出来ない。だから早く相手を決めなければならないことはわかっていた。しかし、流石に、すぐさま見合いという気分にはなれない。それでも了承したのは、見合い話を持ってきてくださったのが他でもない、叶家当主の奥方――つまり草寿様の母君・八依乃様だったからだ。
 八依乃様は、幼き頃より私を可愛がってくれた。八依乃様には娘がいなかったので尚更だ。破談後も、あれほど愛情をかけてくださったのにご期待に添えることなく裏切った私を責めることなく「お前は私の娘です」とよき相手をお探しくださった。「会うだけでもいい。世の中にはいろんな男がいる。まずそれを知るためにも会ってみるのも大事だ」という後押しもあり、お見合いを受けることにしたのだ。そして、今に至るわけだが…。
「……というようなお話でした」
「なるほど。テーマ性がある作品なんですね。口で説明するのが難しいとおっしゃる意味がわかります。けれど、環さんはお話上手ですから、よくわかりましたよ」
「そんな……」
 こんなに熱心に自分の話に耳を傾けてもらったことは初めてだった。見合いの席だし、粗相があってはいけないと気を配っているのもあるだろうけど、じっと見つめられて、私の話に細かな相槌と質問を挟みながら聞いてくれる。仲人が退席して、二人きりされた時はどうなるのかと不安を覚えたが滞りなく会話が続くのでほっとする。 
 それから私たちは庭園を散歩した。物語の中では見合いといえば庭園散歩が出てくるけれど、自分が同じことをするなんて妙な感じだなと思っていたら、彼も同じことを思っていたらしく「小説の登場人物になったみたいですね」と笑った。笑顔が優しい。笑顔だけじゃない。すべてが優しい。歩幅も合わせてくれるし、さりげなく日陰を歩かせてくれる。何より私のことに興味を持とうとしてくれている。丁寧に接してもらっているのを感じた。
 散歩の後、料亭に戻ると、待ち構えていたように彼の秘書の男性が近寄ってきた。急な仕事の連絡が入ったらしく、少しだけ打ち合わせに席を外させてもらえないかと告げられた。
「私のことはお気になさらずに。お忙しくていらっしゃいますでしょうし……よろしければ、ここで失礼させていただいても」
「とんでもない。あなたのようなお美しい方を一人でお帰しするなんて! 途中で何かあったら後悔してもしきれません。私の不手際のせいで少しお待たせしてしまいますが、どうぞご自宅まで送らせていただきたい」
 彼は私が一人で帰ると述べたことに大変驚いてまくし立てるように言った。まだ昼過ぎの明るい時間だし……というか、多少遅い時間でも(よほど遅くなれば家の使用人が迎えに来てくれることはあるけれど)私は一人で出歩くことが多い。これでも鴇塔の家の人間だ。「力」ならばある。並の男には負けなかった。だからこんな風に「女の子」として見られていることがこそばゆかった。きっとこれがごく普通の対応なのだろう。いくら力があっても、女は男に守られるもの。恋人が出来れば、恋人が女の送り迎えをする。だけど、私は一度もそんなことしてもらったことはない。そもそも、あの方と二人でどこかへ出かけるなんてことなかったし……。力があるから平気。一人でどこでも行けるわ。そうやって強がってきた。改めて思い返してもろくな扱いを受けていなかった。どうしてそれでよしと思えてきたのか、自分がわからない。
「では、こちらでお待ちしております」
 好意を無下にするのも気が引けたのでお願いすると彼は微笑んでくれた。
 彼が去っていくと、少しだけ肩の力が抜けた。思っている以上に緊張していたみたいだ。無理ないか。男の人と二人きりで会うなんて初めてのことだ。どうなるかと思った。正直、まったく乗り気はしていなかったけど、結構楽しい。同時に、悲しくもあった。今更言ってもはじまらないけれど、私は本当に草寿様に相手にされていなかったのだと身に染みてわかってしまったから。比べても仕方ないのに、比べてしまう。考えないようにしてきたことが、一人になるととめどなく溢れて悲しい気持ちにさせた。吹っ切れたと言っても、なかなか完全には忘れられないものだな。十八年間の想いは早々消えてくれないか……。それでも忘れていかなくちゃならない。あれはもう過去の出来事なのだ。恨んでも嘆いても意味はない。忘れよう。忘れるしかない。目を閉じれば、鮮やかに思い描けるあの人を記憶の底に沈めるように祈った。
 それから半時ほどして彼が戻ってきた。少しだけ談笑して、部屋を後にする。フロントロビーまで行くと、彼に声をかけてくる男性がいた。知り合いらしい。この料亭は彼の行きつけのお店みたいだ。私は邪魔にならないようにそっと傍を離れて終わるのを待つことにした。
 大きな窓から、先ほど散歩した庭園が見える。数組の男女がいた。彼らもお見合いか、はたまた恋人か夫婦か。こんなに広い世の中で、結ばれる相手は唯一人なのだから不思議なものだ。そんなことを思いながら、そろそろ済んだかと振り返ってみたけれど、
――えっ
 どうしてあの人が? それは私が先ほど記憶の底に沈めた人物だった。何故こんな日にこんなところで出くわしてしまうの? 私があの人のことを考えていたから呼んでしまったの? ……そんなオカルトなこと起きるはずない。パニック寸前の心を落ち着かせるように大きく深呼吸する。そして、状況を考えてみる。庭園で見た男女の二人組みの多さから、この料亭はそういうものとしても頻繁に利用されているのかもしれない。だったら、あの人がいても不自然じゃない。きっと、また、誰か可愛らしい人と一緒なのだ。ああ、そういうことか。途端に気持ちが冷え冷えとしていく。
――そんなこともう知りたくない
 あの人がどこで誰と何をしようとも知らないし関係ない。動揺する必要はない。大丈夫。平気よ。そう自分に言い聞かせた。そして、もう一度顔をあげて、彼とあの人がいる方向を見た。ちょうど二人ともこちらに向かって歩き出してきていた。私は、声をかけた。彼の方に。笑顔をつくって、
「もうよろしいのですか? 」
「ええ、すみません。なんだか今日は予期せぬことが起きてしまって」
「そういうこともありますよね。私は平気です」
「そういっていただけるとありがたいですよ。では、まいりましょうか? 」
 大丈夫。これでいいのだ。今まであの人の姿を見ると真っ先に駆け寄って声をかけていたけれど。もう見ず知らずの他人になった。こんなところで私に話しかけられてもあの人だって迷惑に違いない。だから、知らぬふりをする。わずかな胸の痛みを感じながら、私は彼の後をついて歩いた。

 

2010/5/4

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