蜜と蝶
蝶 と 蝶 5
――考えられない。
それは今日の昼過ぎのことだった。
環が見合いをする。母から聞かされた時は冗談かと思ったが本当らしい。私と別れて一月も経過していないのに、新しい男と会う? 繊細さの欠片もない女だなと思った。あんな女とはやはり縁を切って正解だった。結婚などせずにいてよかった。心底思った。だが、同時に腹立たしくもある。これでも私は婚約者がいる身であったから、それを分かった上で付き合える女としか関係を持たなかったのだ。全てを理解した物分りのいい女。婚約などがなければもっと幅広い女と付き合えたのに……あの女のせいで迷惑をこうむった。だから、文句の一つも言ってやりたい。いや、一言言ってやらなくては気がすまない。それから、見合相手の男に忠告をしてやろうと思った。不幸になるに違いないから同じ男としての親切心だ。そう思って、環が見合いをする料亭にわざわざ出向いたのだ。
環は簡単に見つかった。容姿だけは美しいから一際目を惹く。環も私に気づいたようだった。にっこりを微笑まれる。それを見ると、ここ数日感じていた嫌な気持ちが急激におさまっていく。妙な感じだ。考えれば破談が決まってから一度も顔を見ていなかった。これほど長く会わなかったのは初めてだ。いつもなんだかんだと家に訪ねてきては、私の顔をのぞいていく。鬱陶しい限りだった。だが、ずっと続いていたことが突然なくなれば違和を感じる。環の微笑みにいつもの日常を取り戻したから落ち着いたのだろう。
一歩近づいて、
「たま――」
名前を呼ぶ前に、環の方が先に口を開いた。だが、
「もうよろしいのですか? 」
「ええ、すみません。なんだか今日は予期せぬことが起きてしまって」
「そういうこともありますよね。私は平気です」
「そういっていただけるとありがたいですよ。では、まいりましょうか? 」
見合い相手の男なのだろう。二、三言葉を交わすと立ち去っていく。
――環?
私の存在に気づいていない? いや、そんなはずない。一瞬だが視線があった。間違いない。無視されたのか。私を無視したと? いつだって私の姿を見つければ真っ先に近づいてくる。それなのに…。
「一体それの何が腹が立つのだ? 」
その話を朝椰にするときょとんとした顔で私に尋ねてきた。
「だから、環は私を無視したんだ。考えられない。あんな礼儀知らず見たことがない」
「礼儀知らずって……それは当然じゃないのか? 見合いの場で破談になった相手とはち合わせても困るだろう。極力知らないふりをしたいと思う。自然な発想だと思うが…。 それとも、未来の旦那様候補より、過去の、それも酷い振られ方をした男を優先させろと言うのか? 」
「……そんなこと言っていないだろう! だがあれだけ私を追いかけまわしておきながら、こんな簡単に手のひらを返せるものかと呆れただけだ」
「簡単に手のひらを返したねぇ……。お前が言う「簡単」が私には理解できないよ。まぁ、ともかく、環にとって大事な相手はもうお前ではない。それはお前自身が望んだことでもある。ぐちぐち嫌味を言われることなどない。嫉妬してるみたいだぞ」
「嫉妬? 誰が? 誰に? 」
「お前が、環の見合い相手に」
「馬鹿を言うな。何故私が」
「お前の話を聞いていると、環が自分を気に掛けなかったことに腹が立ってたまらないと聞こえる。環にとっての一番が自分ではないことに我慢ならないんだ。ずっとそうだったからな。環は何をするにしてもお前を優先して考えていた。お前はそれを当たり前に思っていたが」
「あれが私を一番に考えていた? 私と別れてすぐ見合いをする薄情な女が? 」
私の言葉に朝椰は呆れたようなため息をついて、
「元服して間もない頃の乗馬大会のことを覚えているか。二人同時に落馬した」
「ああ、そんなことがあったな」
突然の昔話。訝しく思ったが、それを言葉にする前に朝椰が言った。
「あの時、みな、真っ先に私の元へ駆けつけた。呉羽次期当主の身を案じるのは当然だ。だが、環だけはお前の元に駆けつけた。気の強い子が、大声で泣きながらお前の身だけを案じていた。環の涙を見たのは後にも先にもあの時限りだ」
そうだった。幸いたいした怪我はなかった。だが環はなかなか泣きやなかった。「大丈夫だ」と告げても泣き続けるのでイライラした。どうして私が慰めねばならないのだと腹が立った。
「お前は知らないだろうが、あの後、環は懲罰対象になったのだ」
「何? 」
「大勢の人間が見ている前で、次期当主である私の身ではなく、先にお前の身を心配したことを咎められた。だが、そこでも環は言った。『私にとって最も大切な人の身を真っ先に案じることの何が悪いのかわかりません。今後、同じことが起きても、私は同じく草寿様の元へ向かいます。それで罰を受けるのならそれでも構いません』。まだ十歳そこそこの子どもが、大人たちに囲まれて厳格な雰囲気の中で、ひるむことなく言いきった。それを聞いていた私の父は環を大変気に入って『よう言うた』とおっしゃり、結局罰は免れた」
知らなかった。ただ、あの事故の後、母は環をますます溺愛するようになった。男兄弟ばかりで娘を欲しがっていたことは知っていたが、実の娘のように、いや、それ以上に環を可愛がった。父の態度もまた変わった。格下の家の娘に気を使うことはなかったが、酒が入ると「環を幸せにしてやれ」など洩らすのだ。
「私はお前が羨ましかったよ。私の元へ駆けつけた者の中に一体何人「呉羽次期当主」としてでなく「朝椰」の身を案じていた者がいたか。それでもお前は環がお前のことを考えていないと言うのか」
「そんなものはたまたまだ」
「たまたま、ねぇ……まぁ、今更そんなことを言っても意味はないし、お前がどう思おうが構わない。ただし、環が幸せになる邪魔だけはするな。それだけは言っておく」
「邪魔? 私が何の邪魔をするというのだ」
「じゃあ、どうしてお前は環の見合い場所へ行ったりしたんだ? 」
「それは…」
「言いたいことがあるにしても、わざわざ見合いの席に押しかける必要はない。そうだろう? お前は環の見合いの邪魔をしに行ったんだ。だがな、そんな権利、お前にはない。環は今後、女として関われる男と出会い幸せになっていく。それを奪う権利などお前にはないんだ」
「女としてだと? 」
「そうだ。あの子は女として大切にされてこなかった。お前は環に贈り物をしたことがあるか? 二人で出掛けたことは? 家に迎えに行き、丁寧にエスコートして、帰りも送り届ける。そんな普通の男が女にする出来事をあの子は今まで味わったことがない。お前に囚われなければ、環をそうやって敬い大事にする男なんぞいくらでもいただろう。難しいことじゃない。そうだろう? お前だってそれを環以外の女にはしているじゃないか。なのに、環にだけはしてやらなかった。むごい話だな。そういう当たり前の幸せを環はこれから味わっていけるだろう。そのためには、お前の存在は邪魔だ。あの子を幸せにしてやれる男に出会わせてやれ。もう関わるな」
朝椰は口調こそ静かだったが、だからこそ辛辣だった。何故私が責められねばならないのか。環に贈り物を贈ったことはないし、二人で出かけたこともない。好きで婚約したわけじゃない。家同士が決めた政略結婚だ。愛や恋なんて甘い感情があったわけじゃない。だからそんな恋人同士がする行為をする必要はない。環だって文句を言ったことはない。納得していたのだろう。いつも笑って満足げにしていた。他所はどうか知らないが、私と環はそれでうまくやっていたのだ。それをどうして第三者が口出ししてくるのか。わかったようなことを言うなと思う。そんな私の胸中を察したのか、うんざりしたように朝椰は更に付け足した。
「いい加減、お前も大人になれ。無条件の愛というのは母親が子に注ぐ感情だ。何があっても変わらず、子がどんな暴挙に出ようと包み込む。環のお前に対する気持ちは限りなくそれに似ていた。そんなもの、たいていはお目にかかることができない。だが、お前は母親以外の人間から一心に受け続けてきた。幸運だった。お前が当り前に甘受してきたものは、尊く貴重なものだった。環は特別だった。そういう風に育てられたし、あの子自身がお前を求めていたから。だが、お前はそれを疎み拒否し粗末に扱った。それでも環がお前の婚約者でありつづけたのは、お前を大事に思う気持ちを諦められなかったからだ。だが、けじめをつけた。あの子は自分の未来からお前を消したんだ。だから、今後は、お前を気に掛けることもしなければ、心配もしない。婚約破棄を受け入れた時、あの子はお前を思う気持ちを捨てる覚悟を決めた。結果、お前は環を失った。お前はまだそれをわかっていない。失ったんだ。いいか、お前は環を失った。あの子の心はもうお前のものではない。それをこれから理解していることになる。それにお前は耐えられないだろうが、それでもあえて言う。二度と環には近づくな。あの子に対して少しでも悪いことをしたと思うなら、尚更に、近寄るな。それがお前に出来るせめてもの罪滅ぼしだ」
私は悪いことなどしていない。だから、悪く思うことなどない。こいつは一体何を言っているのだ。ただ苛立ちが募る。聞きたくない。そんなくだらん話。朝椰がこんなに話の通じない男だとは思わなかった。私は視線を外した。すると、朝椰は黙ったが、大きなため息が聞こえた。
2010/5/5
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